徐母奪還から数日後――。
劉備軍の本拠近くで、騎乗した二人がゆっくりと馬を進めていた。
そのうちの一人、徐庶は見るからに落ち着かない様子だった。早く駆けたそうにそわそわとしている。それを傍らにいる少女が呆れたような表情で見守っている。
ふと、その少女が先に視線を向け、何かに気づいたように表情を変える。
正面を指差し、何か徐庶に告げる。
少女の声に慌てて彼は振り返り、その目を大きく見開いた。馬を駆り、道を急ぐ。その先にいるのは馬に乗った武将たちだ。
その先頭にいるのは、老いた女性だ。馬から降り、徐庶に歩み寄る。
徐庶も彼女に馬で駆け寄り、勢いよく馬から飛び降りる。その勢いのまま、徐庶は女性に駆け寄り、抱きしめる。
親子の再会。それを遠目で見ていた龐統はゆっくりと馬を進め、少女の方に向かう。
「やぁ、玲花。上手くやってくれたみたいだな」
「ん、士元。お疲れ様。士元も大変だったみたいね。大立ち回りの話は聞いたよ」
徐庶と同行していた玲花は髪を風でなびかせ、軽やかな笑顔を見せる。
「襄陽は大混乱。一部の将が反乱を起こして逃走。一部は行方知らず――そんな話を黄承彦様から聞いたかな」
「黄承彦殿に会ったのか」
諸葛亮の義父にて、今回の奪還作戦の功労者の一人だ。差し詰め、混乱に乗じて襄陽から脱け出し、司馬徽の家に向かったのだろう。
「孔明に騙されて、偉い目に遭った――って愚痴っていた」
「あー、それは悪いことをしたか。いずれ詫びを入れないと」
「それは大丈夫。いろいろ分かっているみたいだったから。水鏡先生もお見通しだったし」
「そうか。じゃあ、元直の足止めも?」
「うん、士元の読み通りだった」
玲花はこくんと頷き、馬首を並べながらゆっくりと話してくれる。
彼女が水鏡先生――司馬徽の家を訪ねると、何も語らずに出迎えてくれたこと。
そして、想定通り訪ねてきた徐庶へ言葉を尽くして引き留めてくれたこと。
徐庶と司馬徽が押し問答しているうちに、黄承彦が訪ねてきて襄陽から徐母が助け出されたことが伝えられたこと――。
「で、先生の勧めで何日か逗留してから、こちらまで供に来ました」
(まぁ、急いで戻って来れば、徐母を捜索している曹操軍の斥候に捕まる可能性が高かったからな)
その辺も司馬徽は見通していたらしい。つくづく頭が上がらない。
苦笑を一つこぼしながら手を伸ばすと、玲花は頭を少し下げてくれる。その髪を優しく丁寧に撫でながら微笑みかける。
「いずれにせよ、よくやった。ありがとう。玲花」
「ん、どういたしまして。士元」
玲花が嬉しそうに目尻を緩めて微笑み返してくれる。視線を正面に戻せば、徐庶とその母親は馬に跨り、並んで帰路を辿り始めていた。
その周りを劉備軍の武将たちが固めている。そのうちの一人――趙雲がこちらに気づき、一礼する。軽く手を振り、挨拶を返してから龐統も馬を進める。
「――で、士元、これからどうするの?」
「どうするって?」
「家に帰る――わけないよね」
「まぁ、な」
ただでさえ、龐統は襄陽で徐母を奪還するために大立ち回りをしたのだ。
もちろん、面が割れるような真似はしていない。気づかれていないと思うが。
(それに――もう襄陽付近は、曹操の勢力下だ)
曹操は人材の収拾に余念がない。落ち着いたら人材集めをするに決まっている。
「曹操に強制的に仕官させられるのも癪だしな……」
龐統の呟きに玲花は頷きながら、真摯な眼差しを向けてくる。
「水鏡先生のところにも、曹操の使者が来たことがあるみたい。仕官関係の話らしく、先生は歳を理由に辞退したそうだけど」
「そうか。なら尚更、襄陽の家に戻れないか」
離れる前に親類に家を任せたから問題ない。戻るには曹操を追い出すか、ほとぼりを覚めるのを待つ必要がある。
「仕方ない――それまでは、お友達を頼るとしようか」
「お友達というと、諸葛亮殿?」
「ああ。今も泊まっている。連れも歓迎するって。貸しもあるから、しばらく甘えよう」
「甘え過ぎてもいけないと思うけどね」
「まぁ、それには同感だ」
借りができたら、諸葛亮に何を言われるか分からないだろう。
(それに、これから俺も歴史の表舞台に出てくるようになるからな……)
歴史通りだと、これから周瑜の功曹になったり、荊州南郡の功曹になったりする。実際、数年前に龐統は周瑜の下で功曹として働いていた。
功曹とは、郡吏の任免賞罰を司る小役人――仕事は非常につまらなかった。
まるで、前世の会社員生活のように。
そんな仕事をするのは御免。かといって、死ぬのも御免だ。
(折角、転生したのだから、充実した日々を過ごしたいものだし)
それがたとえ、混迷する三国志の世界だったとしても。
「ま、精々上手く生き延びるとしよう。お互い、訳あり、だからな」
「ん、同意。貴方と一緒なら楽しいし」
龐統と玲花は視線を交わして笑い合う。
その二人の背中を押すように、柔らかい風が吹き渡っていた。
◇
柔らかい風が吹く中、諸葛亮は馬の脚を止めて振り返る。
視線の先――遠くにいるのは、龐統と少女の姿だ。それに目を細めていると、隣に一人の男が並ぶ。視線を向ければ、穏やかな微笑みを見せる男が馬に乗っていた。
目立つのは大きい耳と長い手足だ。その笑みはどこか人懐っこい。
彼の名は劉備玄徳――諸葛亮の主君である。
「あれが龐統殿――臥龍と並ぶと呼ばれる、鳳雛か」
「ええ。とはいえ、彼と私を並べるなど烏滸がましい――彼は本当の天才ですよ」
「ほう。孔明、君がそこまで言うかね」
興味深そうな劉備に、諸葛亮は一つ頷いて言葉を続ける。
「彼はわずかに書を持つだけで、様々な見解を示します。その考え方は斬新であり、革新的です。少なくとも古い考え方を持つ名士たちにはない目線を持っています。そして同時に、先のことを見通す大局観も持っています」
「君も大した大局観を持っていると思うのだがね。天下三分の計、だろう」
その言葉に思わず諸葛亮は苦笑し、首を振ってみせた。
「――それは士元の言葉を聞いて思いついただけのものです。彼はそれ以上のことを見通しています。昔、仲間たちと乱世を制する者について語ったのですが」
諸葛亮は空を仰いでそのことを思い出す。
司馬徽の元で学ぶ仲間たち――龐統、徐庶、石韜、孟建、崔州平とはよく語り合った。その日の話題は各地の群雄たちについてだった。
全員が全員、それなりに学のある人間であり、様々な考察を持っていた。
乱世を覇する者として袁紹、曹操、孫策など様々な名が出てきたが、龐統はそれを微笑ましく見守るだけで、何も語らなかった。
それを不思議に思った諸葛亮は二人きりのときに酒の座で訊ねてみた。
龐統は酒を口にしながら、どこか遠い目でいろいろ語ったものである。
袁紹は公孫瓚を討伐できるだろうが、兵力を恃むばかり。一方で曹操は人材を上手く生かせる覇王。いずれは袁紹を負かすであろうこと。
才で匹敵するのは江東の孫策だが、彼は一気に勢力を拡大し過ぎている。いずれ恨みを買い、誰かに暗殺されかねない危うさがある。だが、その弟の孫権は手堅く治める才覚がある。もし、孫策が暗殺されるなら、孫権が台頭するであろうこと――等々。
彼は個人のことから勢力全体のことまで見通しており、的確に分析していた。
そして、彼は諸葛亮を見据えると、笑いながら続けた。
『仮にもし地盤を持たない勢力が天下を取るなら、第一に荊州だな』
『……荊州。だが、劉表は堅実に治めているぞ』
『ああ、だから彼の死後だ。恐らく後継者で揉めるぞ。そこが狙い時だ――後継者争いで不利な方に取り入るのが良いな。そこからやりようはいくらでもある』
なるほど、と諸葛亮が感心したところで、龐統は言葉を続けた。
『そして続けて狙うのは益州。あそこは漢中の五斗米道に手を焼いている。救援を名目に軍を入れ、そのまま乗っ取るんだ。簡単だろう?』
『簡単なものか。それにそんな都合よく行くわけがない』
『まぁ、そうだろうな。確かに絵空事だ。けど』
呆れる諸葛亮に、龐統は笑いながら言葉を続ける。
『それを実現するように策を練るのが、参謀、軍師という奴じゃないか?』
その言葉がやけに耳に残り、諸葛亮はその絵空事を真剣に考えるようになった。
そして劉備と出会ったときに思いついたのが、天下三分の計。
中山靖王劉勝の末裔を自称する劉備という旗頭があれば、荊州、そして益州を制する名目も立つ。何せ荊州牧の劉表、益州牧の劉璋と同族なのだから。
「――もし、彼がいなければ、殿にお仕えしようとは思わなかったでしょうね」
「なるほど。まさか、そこまでとはな」
「ええ、私も彼の言葉を聞くと、時々背筋がぞくりとします――まるで、未来を見ている、いいえ、知っているかのようですから」
「はは、まさか――と思いたいが、それほどの人物なのか、彼は」
劉備は低い声で告げ、その瞳を光らせる。その視線が龐統に向いていることに気づき、諸葛亮は苦笑しながら首を振る。
「残念ですが、龐統を仕官させるのは難しいでしょう。あいつは友達思いですが、つまらない仕事を嫌います。楽しく充実した日々を過ごしたい、と常々言っていまして」
「ふむ――つまり、仕えることを好まない、と?」
「いいえ、そういうわけでは。周瑜に頼まれて働いたこともあるそうなので」
「ならば、勝算はありそうだが」
劉備は腕を組んで考え込む。その様子に諸葛亮は苦笑したまま告げる。
「いずれにせよ、出仕しないか、という誘いは現時点では無意味だと思ってください。少なくとも、彼は流浪の軍は勘弁だと思っているようなので」
「なるほど、今の我々にはないものだな。今は諦めよう。今は、だがな」
納得したように劉備は頷くが、まだ諦めていなさそうだ。未練がましく龐統を見やってから、視線を諸葛亮に向ける。
「それはそうとして――是非、龐統殿と話したいのだが」
「仕官云々は関係なしに、ですか」
諸葛亮は少し思案する。龐統は今、諸葛亮の家にいる。
逗留することを勧めたら、仕官の話はなしだぞ、とすでに釘を刺されている。だから、彼を城に連れていくことは難しいだろう。
となれば。
「――殿にご足労いただけるなら、可能かと」
「そうか。なら、足を運ぼうか」
劉備が上機嫌に頷く。その様子に諸葛亮は拝礼しながら内心で苦笑をこぼす。
(士元――殿に目をつけられてしまったな)
人材集めに執心なのは曹操だが、劉備もそれに匹敵するのだ。何せ、諸葛亮の家に三度も足を運び、口説き落としてきたのだから。
少しでも優秀な者を広く集めるのが曹操なら、すごく優秀な者を狙って集めるのが劉備である。きっと何かと機会を見つけては龐統を口説いていくに違いない。
三度と言わず、五度、七度と声を掛けることで。
(どこまでその口説きに耐えられるかな)
諸葛亮はそう思いながら遠くの友人の姿を見る。友人は少女と共に馬を歩かせて遠ざかっていく。その姿はどこか楽しそうに見えて。
諸葛亮はその身軽な姿が少しだけ羨ましく感じてしまった。