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第6話

 趙雲は悔いていた。

 劉備の夫人を救うためとはいえ、一人の女性を置き去りにしたのである。

 しかもそれは同僚の母親。徐庶は母親を置き去りにしたことに苦悩し、望まぬ道を進もうとしている。そのことが苦しくて仕方なかった。

(もっと、自分が強ければ……っ!)

 一人で劉備の夫人を守れるだけの力があれば、徐母も救えた。

 助けるべき者を助けられずして、何が武人か。

 実直にして忠義に厚い趙雲はあの日以来、自らを責め続けていた。

 この日もまた江夏郡の地を巡回しながら、老いた女性の姿を探し回り続けていた。同時に心のどこかで、諸葛亮が徐母を連れて来てくれることを望みながら。

 そして――信じがたいことに、その機会は訪れた。

 物見の兵が発見した、曹操軍に追われる数人の人影。その報告を聞いた趙雲はすぐさま手勢を率いて駆けた。兵を伏して様子を窺えば、紛れもなく諸葛亮と徐母の姿がある。

 まるに、趙雲の努力に対して天が応えたかのような機会。

 千載一遇の機会に趙雲は闘志を燃え滾らせていた。曹操軍の大軍を見据え、趙雲は馬の腹を蹴って疾駆する。その気迫はまさに背後から陽炎が立ち上るかのよう。

 その闘志が乗り移ったかのように、彼の馬も凄まじい勢いで駆ける。単騎、鬼神のような形相で突っ込んでくる趙雲に曹操軍は浮足立った。

 その隙を逃すはずがない。趙雲は咆吼と共に槍を一閃させた。

「らあああああああああああああ!」

 目の前の敵が槍を叩き込む。弾け飛ぶ敵に目もくれず、次々に向かい来る敵に槍を振るった。曹操軍の軽騎兵たちと馳せ違うたびに、全力で槍を放つ。

 十数人目の敵を叩き落とす。直後、槍がみしりと音を立てた。

(槍が持たない――)

 瞬時の判断で、趙雲は槍を全力で投げ放った。唸りを上げて空を裂いた槍が真正面の敵に突き刺さり、貫通。真後ろの敵にぶち当たり、馬から転げ落ちる。

 その敵とすれ違いざま、手にしていた槍を奪い取り、構え直した。

「おおおおおおおおおおおおお!」

 再びの咆吼が空を劈き、軽騎兵たちが浮足立つ。それをこじ開けるように、槍を振り回して敵を叩き落としながら疾駆――直後、視界が開ける。

(抜けた――!)

 趙雲が振り返ると、曹操軍の軽騎兵たちは隊列を乱している。その隙を逃さず、趙雲の配下の騎士たちが突っ込み、斬獲している。

 混乱する軽騎兵はもはや戦力として作用していない。その無様な様子に趙雲は眉を寄せた。

(――随分と呆気ない……)

 趙雲が以前、戦った曹操軍の軽騎兵はもっと手強かった。この程度で隊列を崩さなかったのだが。だが、視線を巡らせると、その答えはすぐに分かった。

 掲げている旗が『曹』ではない――つまり。

(曹操軍の本隊ではない――恐らく、荊州の軍か)

 曹操に降伏した荊州の軍だ。趙雲はそう類推しながらため息をこぼす。


 趙雲は知る由もなかったが、この時、曹操軍には余裕がなかった。

 襄陽の中で魏延を始めとした反乱勢力が蜂起し、それの鎮圧に手間がかかっていた。蔡瑁だけでは収拾がつかず、曹操軍の本隊が治安維持に奔走していたのである。

 そのため、程昱が手配できたのは、荊州の守備隊だけ。

 ただし、荊州の守備は長いこと、客将だった劉備の軍が請け負っていた。襄陽に駐屯する荊州の守備隊は実戦離れしており、練度は極めて低い。

 実戦慣れした趙雲の突撃に気迫負けすることも、無理もなかった。


(――やれやれ、張り切って損した)

 趙雲の頭が急速に冷えていく。馬首を返して趙雲の方に向かってくる敵を適当に槍であしらいながら、もう一度ため息をこぼした。

 部下たちも趙雲の傍に駆け戻り、背後で隊列を組んでいく。

 趙雲は手でひらりと振り、撤収の合図をしながら続ける。

「撤退だ。追撃はしなくていい」

「了解しました。降伏した兵はどうしますか」

「歩兵に収容させろ」

 曹操軍の軽騎兵は散り散りになって逃げて行ったようだ。対して趙雲たちは負傷者はいるものの、犠牲はない。副官に撤収を指示し、趙雲はわずかな供回りと共に帰路を辿る。

 視線を巡らせれば、ふと人影が目に入る。馬に跨った三人の姿。

 そのうちの一人が趙雲に気づき、手を挙げた。趙雲は表情を緩め、馬を進める。

「諸葛亮殿、無事で何よりだ」

「いえ、こちらこそ助かりました。趙雲殿」

 諸葛亮は馬上で手と拳を合わせて、軽く礼をする。

「まさか、趙雲殿がいてくれるとは思いませんでした」

「はは――諸葛亮殿が心配でな。来て正解だったようだ」

 趙雲は安堵の息をつきながら、視線を諸葛亮の隣に向ける。そこには背筋を伸ばした老女がいた。趙雲は吐息をこぼすと、深々と礼をする。

「――先日はありがとうございました。御母堂様。おかげさまで、殿の奥方を無事に逃がすことができました。感謝しても、しきれません」

「いえ、劉備様の庇護を賜る民として、そして徐元直の母として当然のことをしたまでです。こちらこそ、救援いただきありがとうございます」

 徐母は丁寧な口調で礼を告げる。趙雲は表情を緩めて諸葛亮に視線を戻した。

「まさか、本当に救い出してくるとはな。諸葛亮殿。さすがというべきか」

「いえ、私だけではできませんでしたよ――仲間がいてくれた、おかげです」

 諸葛亮は苦笑を一つこぼすと、視線を横に向けた。

 趙雲はその視線を追いかける。そこにいたのは、一人の青年だった。

 諸葛亮と同じ年頃の、若い男だ。その顔立ちは冴えず、身体つきも少し貧弱だ。だが、瞳はどこまでも真っ直ぐであり、知的な光を宿している。

 彼もまた趙雲を見つめていたが、やがて小さく笑みを見せる。

 落ち着きのある、穏やかな笑みだ。

「お初にお目にかかる。俺は龐統。字は士元――諸葛亮の友人だ」

「挨拶痛み入る。我が名は趙雲。劉備軍の将である」

「ああ、凄まじい活躍だった。まさに一身これ肝なり、だな」

 その言葉に思わず目を見開く。それは趙雲が劉備から賜った言葉だったからだ。情報収集が秀でているのか、あるいは、人物を見抜く目があるのか。

(――なるほど、この方が鳳雛。臥龍である諸葛亮殿に並ぶ人物であるのは間違いない)

 趙雲は目を細め、馬上で手を差し出す。龐統も手を取り、しっかりと握る。

 龐統の掌は剣を遣う者のように固く強張っていた。


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