襄陽から南に少し離れた街道――そこを一台の馬車が駆けていた。
拓けた地から離れ、山道を駆ける馬。それに曳かれて馬車は勢いよく走っていたが、やがて速度を緩め始める。そして、道端にある大きな岩付近で馬車は止まった。
その岩の傍から一人の兵士が姿を現す。馬車の御者台に座っていた兵士は軽く手を挙げ、小さく安堵の吐息をこぼした。
「孔明、無事だったか」
「ええ、そちらもご無事そうで何よりです。士元」
兵士――諸葛亮は被り物を脱いで素顔を現し、御者台に座っていた龐統も装備を脱ぎ始めていた。それから後ろを振り返り、馬車の中に声を掛ける。
「大丈夫ですか。御母堂様」
「ええ――おかげさまで」
馬車の中から顔を出した徐母の顔色は悪くなさそうだ。
途中からかなり馬車を飛ばしたため、大分揺れただろうが、無事そうだ。龐統は小さく吐息をつき、御者台から降りた。諸葛亮と共に並び、地に膝をついて拝礼する。
「手荒な真似を致しましたこと、お詫び申し上げます。俺は――」
「ええ、覚えているわ。確か、龐統殿と諸葛亮殿、だったかしら」
龐統と諸葛亮は目を見開きながら顔を上げると、徐母は柔らかい笑みと共に続ける。
「元直のお友達よね。会ったことは数度しかないけど」
「覚えていらっしゃいましたか」
「ええ、もちろん。わざわざありがとう、助けに来てくれて」
「いえ――己の信念に従ったまでです」
龐統は拝礼を解いて立ち上がると、装備を脱ぎ捨てながら言葉を続ける。
「それに、死地を脱したわけではありません。追手は必ず来るでしょう。その前に一刻も早く逃げねばなりません――御母堂様は、馬は乗れますか?」
「もちろん。元直から教わったのよ」
「それは、それは」
自信ありげに笑う徐母に思わず龐統は釣られて笑ってしまう。
(長坂では槍を手に時間稼ぎを買って出たというが)
想像以上に立派な女傑であられるようだ。
龐統が諸葛亮を振り返ると、彼はすでに茂みから馬を曳き出していた。龐統に手綱を渡し、徐母にも手綱を手渡す。
徐母は馬の首筋を撫でると、鞍に手を掛けてひらりと跨る。
その様子に龐統と諸葛亮は顔を見合わせて苦笑した。
「さすが元直の母上だ」
「ええ、素晴らしい方です――さ、我々も」
頷き合い、龐統と諸葛亮も馬に跨る。軽く馬を駆け足で走らせ始め、馬車を置いて駆け去る。徐母はぴったりとついてきながら、軽く声を掛けてくる。
「それにしてもお二人とも、よくあの警護の中から救ってくれたわね。もしかして――あの襄陽での混乱は、貴方たちの仕込み?」
「ええ――そちらは主に士元ですね」
「あまり目立ったことはしたつもりはないですがね」
龐統は軽く肩を竦める。特段、彼が何をしたというつもりはなかった。
彼がやったのは密偵の手引きで襄陽に入り込み、魏延に接触したこと。
最初こそ魏延は訝しんでいたが、話してみれば劉備に心酔していることがよく分かった。行く行くは劉備軍に登用し、重く用いることを確約すると、感激して協力を誓ってくれた。
そして、密偵たちが襄陽に至る所で火を放ったことを合図に、魏延は蜂起。
襄陽の街を混乱に陥れることに成功した。
(あとは上手く魏延が街を脱してくれればいいんだが)
魏延の無事を祈りながら、龐統は諸葛亮の方を見つつ徐母に言う。
「あの命令書を偽造したのは孔明です。彼の方が困難なことを為し遂げました」
「そうなのですか。どうやって偽造を……?」
「伝手がありまして、城に潜り込んだのですよ」
諸葛亮は苦笑交じりに答える。龐統は目を細めながら頷いた。
(そう――諸葛亮の妻の父親、黄承彦殿)
彼は荊州の名士として知られているが、同時に妻が蔡瑁の姉であること――つまり、彼は蔡瑁の身内なのだ。蔡瑁も名士である義弟を頼ることも多く、交流も多々あったようだ。
そこで諸葛亮は黄承彦に頼み込み、共に襄陽城に向かった自身は黄承彦の従者の振りをして城に潜入。蔡瑁の部下は親戚である黄承彦に油断して、彼らを警戒せずに迎え入れてしまった。その隙に諸葛亮は印綬を盗み出したのだ。
(伝手があったとはいえ、よくもまぁ盗み出せたものだ)
蔡瑁は権威に媚び、曹操に真っ先に膝を屈したことから、その名声は地に落ちているものの、完全に無能というわけではない。少なくとも並の将以上の才覚がある。
当然、警備も厳しかっただろうが、諸葛亮はそれを掻い潜ってみせた。
今回の作戦の一番の功労者とも言えるだろう。
(おかげで手荒なことをせずに、徐母を連れ出せたが――)
まだ、死地を脱したわけではない。
諸葛亮は背後を見やり、目を細めて低い声で告げる。
「――急ぎましょう。すでに追手が掛かったようです」
龐統も後ろを振り返る。視界に入ったのは空に昇る煙だった。襄陽付近で残っている密偵たちが上げた狼煙だ。追手が掛かった際に合図するように頼んでいた。
(想定より早い――)
下手をすれば追いつかれかねない。諸葛亮が用意した馬はあまり良いものではないのだ。諸葛亮は冷静に視線を走らせて、落ち着いた口調で告げる。
「こうなれば陸路よりも水路を使った方が良いかもしれません。遠回りになりますが、南寄りの道を行くべきでは――」
「いや、孔明、それは悪手だ」
龐統はすぐに否定する。彼の水路の利点は考えており、考慮していた。
だが、現状では適した手段だと思えなかった。
「水路を使う舟を手配していない。それにこれだけ早くに追手を放ったんだ。恐らく水路方面も警戒しているはずだ――水路はあまりにも不確定要素が多すぎる」
「しかし、このままでは……」
諸葛亮の懸念も分かる。このままでは追いつかれるのは間違いないのだ。
それだとしても、陸路を選ぶべきだった。
「孔明、頼む――俺の想像通りなら、陸路の方がまだ逃げ延びる目がある」
「……策が、あるのですね」
「策というほどではないさ」
龐統は苦笑を滲ませながら、視線を先に向けて言葉を続ける。
「だが、賭けるだけの価値があるものだとは、思っているよ」
龐統の言葉に諸葛亮は黙っていたが、進路を変えようとはしない。
信じて陸路を突き進むことを決めたようだ。
龐統はそれに軽く頷いて謝意を示しながら、前を見据えて手綱を握り直した。
(さぁ――どこまで逃げ切れるか)
後ろに土埃が見え始めたのは、夕暮れ時だった。
充分に逃げ続け、もうすぐ江夏郡に入れるであろう頃合い。諸葛亮は舌打ちをこぼし、近づいてくる影を振り返った。
「逃げ切れるかと思いましたが、無理ですか……」
「偽装工作で時間を稼いだんだがな」
休憩の合間に足跡を消したり、木を斬り倒して道を塞いだりした。だが、それを突破して執念で追跡してきたようだ。
諸葛亮は馬の腹を蹴り、馬の脚を速める。龐統と徐母もそれに従いながら、必死に逃げていく。だが、次第に近づいてくる馬蹄の響き――。
「士元、このままでは――」
「あきらめるな、孔明……っ!」
手綱を握りしめて視線を走らせる。辺りの気配を探るが、見当たらない。
(……っ、計算違いか……っ!)
龐統が歯軋りしながら馬の腹を蹴り飛ばし――。
不意に、道端の茂みから無数の人影が現れた。
「――っ」
突然現れた無数の人影に龐統は目を見開く。だが、次の瞬間には不敵に笑みを浮かべていた。その人影――兵士たちが『劉』の旗を掲げていたからだ。
思わず安堵の吐息をつきながら、龐統は目を細めた。
(やはり、いてくれたか……!)
劉備軍の軍勢は隊伍を整えると、その間から素早く槍を携えた青年が姿を現れる。
彼は颯爽と馬に跨り、駆けてくる諸葛亮たちに向かって叫んだ。
「諸葛亮殿、そのまま駆け抜けられよ! 足止めは我々が!」
「かたじけない、趙雲殿……!」
諸葛亮が叫び返し、龐統たちは道を駆け抜ける。振り返ればすぐさま兵士たちが統率の取れた動きで道を塞ぎ、槍衾を作り出していた。
そして、その指揮を執る青年は少数の騎馬を率い、道を駆け始めていた。
向かい来る、曹操軍に向かってひたすらに。