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第4話

 荊州北部に位置する襄陽――その街の一角にある屋敷には一人の老女がいた。下女も与えられ、丁重な待遇を受けているものの、周囲は家の前は兵士が常に見張り、中から老女が逃げ出さないようにしている。

 その現状に老女――徐庶の母親は思わず長いため息をついた。

(困ったわ。まさか、こんな風に囚われるなんて)

 正直、誤算だった。彼女としては捕らわれた後、すぐに放免されると思っていた。

 何故ならば、彼女はどこにでもいるような老女である。それに関わっているほど、曹操軍は暇ではないはずなのだ。

 だが、どこからか彼女の息子が徐庶だと発覚したのだろう。気づけば丁重に扱われ、襄陽へと連行されていたのである。

 それから屋敷の外には一歩も出ていない。曹操軍の参謀である程昱や、曹操軍に降った荊州軍の指揮官、蔡瑁の姉が時折、顔を見せる以外に訪問客はいない。

 丁重に扱われているものの、外に出ることはできない――軟禁されている。

 恐らくは徐庶を呼び出すための人質とするためだ。

(――元直の足手まといにはなりたくないというのに)

 長々と嘆息する。母親である彼女は、徐庶のことをよく理解している。

 徐庶は昔から要領が良く、武道も勉学もすぐに飲み込み、身につけてきた。いわゆる大局観に優れており、物事の真価を直感的に判断できる才能を有していたのである。

 そんな彼は成長する中で乱世を見聞きすることで、心を痛めてきた。

 そして幼いながらに、彼は常々口にしていたのである。

『将来は人を思いやりながら、乱世を静められる、大徳ある人に仕えたい』――と。

 その夢を抱いた彼はしばしば家を留守にして、放浪の旅に出た。

 放浪息子だと人は囁いていたが、それは違うのを母親はよく知っている。

 彼は仕えるべき主を探しているのだと。

 そして数年前――ようやく彼はその相手を見つけたのである。

 劉備玄徳、その人を。

『殿は素晴らしい方だ。拠るべき地を手にできれば、天下に雄飛する』

 母を荊州に招いた徐庶は熱っぽく語る。その姿に徐母は目頭が熱くなった。そんな熱を見せる相手が見つかったことが嬉しくて仕方なかった。

 それだというのに、母である自分が息子の道を邪魔してしまう――。

(そんなこと、許せるはずがないわ)

 だが、自害しようにももう遅い。こんなことならば長坂で果てれば良かった。

 徐母は静かな部屋の中で人知れず悔やんでいると、ふと何か外が騒がしいことに気づく。遠くで騒ぎが起きているらしい。

 徐母は立ち上がると部屋を出ると、丁度、不安そうな表情の下女が通りかかった。

「ねぇ貴方、外が騒がしいのだけど、何かあったのかしら」

「それが――お城の方で、暴れている方がいるらしくて」

「……反乱かしら」

「さぁ……何にせよ、兵士たちが慌ただしく動いているようで」

 何事もないといいのですけど。

 下女はそう告げると一礼して立ち去る。徐母は一つ吐息をつくと、部屋に戻って椅子に腰を下ろした。そして、顎に手を当てて思考を巡らせる。

 反乱自体は不自然ではない。何せ、曹操がこの街を占領したばかりだ。

 不平不満を覚えて、武将が反乱を起こすくらい珍しくないだろう。

(――だけど、今更?)

 何せ、曹操が占領することに不満を覚えた勢力は、劉備が避難する際に同行するか、あるいは、劉表の嫡男である劉琦が支配する江夏に向かったはず。

 わざわざ襄陽に残って、しかもこの時期に反乱を起こす。

 何か不自然さを感じざるを得ない。

(あまり、私に関係ないかもしれないけど――)

 首を傾げていると、扉の外から澄んだ声が掛けられた。

「奥様、失礼します。お客様がお見えになりました」

「あら――お通しして下さる?」

「かしこまりました」

 下女が下がるのを見て、徐母は背筋を正す。

(今日は誰かしら)

 程昱か、それとも蔡瑁の姉か。どちらにしても気を使う相手だ。

 やれやれと内心でため息をついていると、失礼します、と声が響き渡った。聞き覚えのある声に、はて、と首を傾げると、部屋に一人の兵士が入ってくる。

 身なりは曹操軍の兵士。程昱の護衛としていつも傍にいる兵士と同じ格好だ。

 だが、雰囲気が違う。言葉の訛りも河北の人間ではない。

 徐母は慎重にその兵士の顔を見る。兵士は丁寧に拝礼し、顔を伏せさせながら告げる。

「現在、襄陽では一部の兵士が反乱を起こしております。ここも危険である可能性があるため、奥方様を避難させよ、と蔡瑁将軍の命を授かりました」

(……蔡瑁将軍?)

 程昱ではないのだろうか。訝しく思っていると、兵士が静かに顔を上げる。目が合い、その顔がはっきりと分かった瞬間、徐母は軽く息を呑んだ。

 だが、すぐに表情を引き締めると、彼女は頷いてみせた。

「分かりました。ではすぐに移動しましょう」

「お願いします。使用人の方々は後で避難させますので」

 兵士が先導して部屋から出る。徐母はその後ろを機敏な動きでついていく。すれ違った下女に手短に事情を話し、外に出る。

 建物の外にはすでに馬車が横付けされていた。門前にいる兵士たちはそれを咎めず、兵士に拝礼を返している。徐母は焦らずに、だが速やかに馬車に乗ると、兵士は御者台に腰かけ、鞭を一振りして馬を走らせ始めた。

 軽快に駆けていく馬車――それを呼び止める者も、見咎める者もいない。

 その馬車は襄陽の喧騒の中へと消えていった。


   ◇


 同刻――曹操軍が占領する襄陽城では、兵士たちが慌ただしく行き交っていた。

 原因は城の兵舎で起こった暴動、反乱である。反乱を起こした人数はわずかばかりだが、なかなか鎮圧できない。そのことに程昱はわずかに苛立っていた。

「蔡瑁将軍、部下の統制も取れないのですか」

「も、申し訳ありません、程昱殿。すぐに鎮圧しますので、何卒……っ!」

 目の前で平身低頭謝罪しているのは、荊州軍を統括する蔡瑁だ。

 彼は抵抗することなく曹操に降伏し、そのまま曹操軍の将と化して働いている。命令も唯々諾々と聞き、抵抗する素振りも見せない。

(自分を守っていた土地を、ここまであっさり譲り渡すものかね……)

 権力に媚びる様はまさに浅ましく、自尊心もないのか、頭をぺこぺこ下げている。

 その情けない姿に程昱は苛立っていることも阿呆らしくなってきた。

「――それで、反乱を起こした者は何者ですか」

「は……魏延という者です。数年前に我が軍に加入したのですが、腕が立つため、校尉として取り立てておりました。思えば、劉備と親しくしていたような……」

(ならば事前に監視でもつけておけばよかったものを……)

 想像以上の無能さに呆れ返ってしまう。程昱はため息をこぼし、手を振る。

「早々に鎮圧するように。曹操軍の本隊も運用しますので、連携して当たりなさい」

「は……っ! 迅速に対応します……っ!」

 蔡瑁は勢いよく拝礼すると、それからどたばたと程昱の前から去る。その姿に再びため息をこぼすと、程昱はこめかみを抑えた。

(占領下の統治が順調だと思えば……はた迷惑なことだ)

 曹操軍の参謀である程昱は今回、襄陽にて占領下の統治を行っていた。

 荊州軍はすぐに降伏したため、被害なく占領できたが、同時にそれは支配する地域が増えるということ。それらを適切に慰撫しなければ、後顧の憂いに繋がる。

 曹操軍はこれから南進を続ける予定なのだ。生半可な統治を行い、反感を買って反乱でも起こされれば、曹操軍は敵地で孤立してしまう。

 特に襄陽は戦略拠点だけに、蔑ろにはできない。

 それを一手に引き受ける程昱は当然、多忙を極めていた。

(戸籍の管理、荊州軍の選別……やることが多すぎる)

 程昱はため息をつきながら背伸びをし――ふと、何かが頭に引っ掛かる。

 親劉備派の軍人の反乱。何故、一体今なのだろうか。

 仮に反乱を起こすならば、少し後、つまり曹操が南進した後の方が都合の良いはずなのに。

(――今でなければならない理由があった……もしや、陽動)

 程昱の瞳の奥が鈍い光を放つ。彼は腰を上げると、部屋を大股に行き来し始める。

 程昱は優秀な文官だが、同時に曹操軍の謀略を担う参謀でもある。

 敵に讒言を流し、離間の計を仕掛ける、あるいは、寝返りを促すなど、裏工作を得意としているのだ。参謀としての嗅覚が違和感を嗅ぎ取っていた。

(陽動だとすれば、敵の真の狙いはどこだ。襄陽のどこか。恐らく城ではない。目的は奇襲ではない。だとすれば、奪還――)

 ぴたり、と足を止め、程昱は目を見開いた。

「徐庶か」

 少し前から劉備軍の参謀となった徐庶。彼を劉備から引き離すための工作を仕掛けていた。捕らえた母親を人質に、徐庶を呼び出す計略だったが。

 その徐庶の母親を、奪還しようとしているとすれば?

(――こうしてはいられない……っ!)

 程昱は弾かれたように部屋から駆け出し、一目散に廊下を駆けて行った。


 徐庶の母親は襄陽城の近くの屋敷に軟禁していた。

(兵士が見張りに立っている。逃げることはないだろうが……)

 嫌な予感が拭えない。

 程昱はその屋敷の門前へと急いで駆け寄ると、その前に立つ兵士たちに声をかける。

「そこの者――奥方はおられるか」

「おお、これは程昱様。奥方様は今、別の屋敷に避難されたとのことです」

「――避難?」

 さっと血の気が引く。程昱は思わず兵士に詰め寄り、声を荒げる。

「避難とはどういうことだっ! 奥方はどこに行かれた!」

「え、そ、それは――その、蔡瑁様の命令でございます」

 詰め寄られた兵士はあたふたと慌て、傍の兵士を振り返る。その兵士もこくこくと何度も頭を振り、必死な口調で告げる。

「反乱の影響があり危険なので、蔡瑁様の屋敷に避難させる――と。無論、命令書も受諾いたしました。こちらです。印綬も記されています」

「か、貸してみろ」

 兵士が取り出した命令書をひったくるように奪い、程昱は目を走らせる。

 そこに記された印綬は確かに蔡瑁のものだ。だが――。

(筆跡が、違う……っ!)

 謀略で偽筆を使う程昱はすぐに看破する――蔡瑁にしては、字が綺麗すぎる。

 これは偽装された命令書。つまり、徐母はまんまと敵の手に落ちたことになる。

(一体、どうやって蔡瑁の印綬を……っ!)

 いや、それはもはやどうでもいい。

 程昱は焦りを滲ませ、門番の兵士を振り返って噛みつくように訊ねる。

「奥方が出発したのは、いつの頃だ……っ!」

「さ、三刻は経っていません」

 それを聞くと程昱は素早く踵を返して駆け出していた。

(三刻ならまだ間に合う――遠くまでは行っていない)

 すぐに報告し、騎兵を出動させなければ。

 程昱は出し抜かれた怒りを原動力に、城へと全力で駆け戻っていった。


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