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第3話

 龐統と諸葛亮が策を巡らせている一方、南東に離れた地――荊州江夏郡では動きがあった。


 襄陽の南東に位置する江夏では、落ち延びた劉備たちが休息を取っていた。江夏郡の太守である劉琦は劉備軍を収容し、充分な補給を与えてくれる。

 死地を脱することができたのである。

 その実感は徐庶に安堵を与えると同時に、先延ばしにしていた決意を固めさせていた。


「殿――申し訳ございません。自分はここで暇をいただきたく存じ上げます」

 その日の朝早く、徐庶は劉備の前に参上すると、拝礼と共にその言葉を告げる。

 劉備はじっと徐庶の姿を見つめていたが、長々とため息をついて訊ねる。

「……母上のことか」

「はい、消息がつかめました。襄陽にいるようです」

「やはり、曹操の手に落ちていたか」

 劉備は唸り声を上げて腕を組む。徐庶は顔を上げながら言葉を続ける。

「長らく自分は親を顧みずに暮らしていました。最近になってようやく荊州に招くことができましたが、守り切ることができずにこのような不忠を晒しています。これ以上、親不孝を重ねないためにも、親の元に行くことにします」

 徐庶の瞳の光は真っ直ぐで揺るがない。

 その確固たる決意を見て取ると、劉備は視線を伏せさせながらぽつりと告げる。

「……寂しくなるな」

「……っ」

 その低い声は、徐庶の胸の奥を衝いた。

 徐庶は劉備の人柄に惚れ込んでいた。そんな人が自分を惜しんでくれている――それだけで別れがたい衝動が身体を襲う。

 だが、徐庶はその誘惑を振り払い、視線を逸らして頭を垂れる。

「お許しください――殿」

 その言葉に劉備の瞳が揺れる。何か言いたげに口を開き、手を伸ばしかける。

 だが、その手を力なく下ろすと、ぎこちない笑みを浮かべた。

 そして、押し出すような声で励ましてくれる。

「ああ、無論だとも。父母と共にあれる時間は得難いものだ。母上を大事にすると良い」

「……っ、ありがとう、ございます……っ」

 徐庶は言葉を詰まらせながら顔を上げる。劉備と徐庶、二人の視線が行き交い、言葉にならない想いが交錯する。思わず徐庶の目頭が熱くなり、慌てて顔を伏せる。

 劉備もまた、わずかに視線を逸らす。これ以上、見ていれば彼を引き留めたくなる。劉備は自ら腕を手で抑えつけ、静かに言葉を続けた。

「後に席を設けよう――諸将も別れを惜しむだろう」

「ありがたき幸せ。ですが、時間も惜しいので」

「なに、一晩のこと。一刻も惜しいのは分かるが、少しばかり我らの友誼に裂いてくれても構わないのではないか?」

 そう言われては徐庶も断れない。深々と頭を下げて心からの礼を告げた。


 その主従のやり取りを物陰から見ている二人の武人がいた。

 張飛と趙雲である。

 彼らもまた無事に長坂から撤退し、江夏で身体を休めていた。彼らもまた徐庶の事情は把握しており、彼のことを案じていたのである。

「むむむ……早まりおって、徐庶め……劉備の兄者も物分かりが良すぎる」

 ぎりぎりと歯軋りを響かせていた張飛は趙雲を振り返り、押し殺した声で訊ねる。

「趙雲、諸葛亮はどうした。あいつが手を打っているのだろう?」

「ああ、そのはずだ。とはいえ、発ってから幾日も経っていない。手を打っている最中であろう――今は諸葛亮殿を信じるしかあるまい」

「ぐぅ、そうかもしれんが……趙雲、あの諸葛亮が敵中に捉われた徐庶の母上を救い出すことができると思うのか……?」

「む……それは……」

 張飛の指摘に趙雲は思わず黙り込む。

 諸葛亮孔明。その頭脳明晰さは趙雲も実感している。彼が唱えた天下三分の計には唸らされたし、彼が敷いた情報網のおかげで軍が的確に動けるようになった。

 彼と徐庶はまさに、劉備軍の頭脳を担うに相応しい人物だと実感している。

 だが、その一方で彼が武術に劣ることも知っている。

 剣はある程度遣えるが、兵士より少し腕が立つ程度。張飛や趙雲はもちろん、徐庶にすら敵わないのだ。そんな彼が敵中を突破できるかと言われれば。

「……怪しいな」

「だろう。諸葛亮も策が練れるのは、俺たち戦力がいてこそだ。だが、あいつは今、孤立無援で策を練っている――正直、危ういと思うのだが」

「それは……さすがに、諸葛亮殿を見くびり過ぎだと思うが」

 張飛の言葉を否定する趙雲の歯切れが悪い。

 何せ、諸葛亮とは数年の付き合いである。現状、信用こそできる人間と思っているが、まだ信頼できる相手だとは思っていない。

 それだけに――少しだけ、趙雲は諸葛亮を疑っていた。

(もしや、殿を見限って逃げた……いやそのようなことは……)

 張飛と趙雲は思わず黙り込む。やがて趙雲はちら、と劉備の方を窺ってから、押し殺した声で張飛に訊ねる。

「――張飛、お前だけで軍をまとめられるか」

「ああ、もうすぐ関羽の兄者も合流する。大丈夫だ」

「なら、私は配下を率いて少し警邏に出ようと思う――少し長くなるが」

「……なるほどな」

 張飛は趙雲の真意を汲み取ると、にやりと大きく笑って趙雲の肩を叩く。

「ここは任せな。兄者にも上手くいってごまかしておくぜ」

「頼んだぞ。張飛」

 趙雲と張飛は拳を合わせると、静かに素早く、別々の方向へと動き出した。


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