「――なるほど、元直の母親が曹操の手に落ちた、か」
場所を移して家の居間。龐統は諸葛亮が事情を聴き、腕を組んでいた。
正面に座る諸葛亮は汚れを落とし、衣服も改めてさっぱりとした姿になっていた。彼が劉備軍に仕えてからは文通ばかりで全く会わず、顔を合わせるのは久々だ。
その顔つきは苦労があったのか、わずかに頬がこけ、瞳の光に凄味がある。
話を聞く限り、命からがら曹操軍から逃れたのだ。無理もないだろう。
龐統は玲花が出した湯を口に運ぶと、諸葛亮は苦笑をこぼす。
「驚かないのですね。士元。我々が曹操軍に追いつかれたことも含めて」
(歴史書でそう記されていたからな)
と、龐統は内心で思うが、それはさすがに口にできない。
代わりにさも当然とばかりに、頷きながら落ち着いた口調で告げる。
「曹操は果断なのは見聞きしている。時には自身で軍を率い、奇襲をかけることもあるとか。可能性としては充分あり得たのではないか? 孔明」
「――そう言われると耳が痛いですね……」
諸葛亮は渋面を見せ、頭を抑えながらため息をこぼした。
「だが、それでも充分逃げ切れる算段でした。だが、民があまりにも多く付き従ってしまい。殿も殿で放っておけばいいのに、気を配るから……」
なかなか苦労してきたようだ。龐統は苦笑しながら話題を変える。
「驚いたといえば――どちらかというと、お前がここに来たことに驚いたぞ。荊州北部――襄陽より北はもう曹操軍の勢力下だ。劉備軍のお前が見つかればただで済むまい」
「密偵たちの協力を得て、山中を通ってきました。なに、山を行くことくらい、山菜を取りに山に入るのに比べれば容易いものですよ」
諸葛亮はそう言いながら背筋を伸ばすと、龐統を真っ直ぐに見る。
「それに――貴方の知恵を借りるためなら、これくらいの危険、冒して見せます」
「なるほど、それは」
湯で唇を湿らせてから、龐統は言葉を続ける。
「――元直の母親を、助けるためか」
「はい、貴方は理解しているのでしょう。士元。このままだと元直が曹操の下に向かってしまう」
その言葉に龐統は無言で応じた。
史実以上に、徐庶とは長い付き合いだからこそ分かる。孝行息子の彼は間違いなく母親を放っておくことはできない。やがて曹操の下に行き、仕えることになるはずだ。
諸葛亮は膝を進めると、さらに語気を強めて続ける。
「それを防ぐためには徐庶の母親を一刻も早く救い出すことが必須です」
「……難しいぞ。孔明。分かっているのだろう」
龐統は思わずため息をこぼしながら視線を上げる。
「徐母が囚われているとすれば、まず間違いなく荊州の拠点である襄陽だ。そこは曹操軍がしっかりと固めている。そこを救い出すのは難しいだろう」
「ですが、隙があるはずです。今ならば」
「……まぁ、確かにな」
龐統は不承不承頷いた。曹操軍がいくら大軍とはいえ、荊州北部は広大なのだ。さらに無傷で降伏した荊州軍を信頼し切ることはできない。一部では曹操に従うことを良しとせず、不満を募らせている武将も確実にいる。
それらを強く警戒しているため、荊州の一部は手薄になっている。その隙をついて諸葛亮はこうして襄陽の外れにある龐統の家を訪れることができたのだから。
「だが、徐母を助けるにはこんな家に入り込む以上に難しい」
「はい、ですから貴方の助力を求めに来ました。私一人では難しい。知恵を貸していただけませんか、士元」
そう告げる諸葛亮の表情はどこか縋るようであり、長年の付き合いでもあまり見ない顔だった。それだけにかなり切羽詰まっていることが分かる。
彼は徐庶を心から助けたいと思っているのだろう。
その気持ちは龐統も同じである。
歴史に関係なく、徐庶とは長い付き合いだ。共に河北や江東を旅したこともある。その思い出が過ぎり、無条件で助けたくなる――。
だが、龐統は即座に頷けない。迷いが生まれていた。
「――士元?」
黙り込んだ龐統を不審に思ったのか、諸葛亮が声を掛けてくる。龐統は視線を上げると、小さく吐息をついて腰を上げた。
「少し考えさせてくれ。孔明」
「え、ええ……」
戸惑う諸葛亮に背を向け、龐統はゆっくりと歩き、縁側から外に出る。涼しい風が吹き渡り、頬を撫でる。葉が擦れる音と小川の音に耳を傾けながら思考を整理する。
徐母を助けられるかどうか――それの答えはシンプルだった。
(元直の母親を助けることは、できなくはない)
何せ、歴史を知っているのだ。それだけにいろいろな手を打ってきた。
その一つが、諸葛亮が組織した密偵集団。諸葛亮に助言することで、いち早く密偵集団を作らせた。尤も諸葛亮なら龐統が入れ知恵せずとも組織しただろうが。
それを駆使すれば、徐庶の母親を救えなくはないだろう。
だが、それをすれば徐庶は曹操の下に行かなくなる。
つまり――歴史を変えることに繋がってしまう。
(それでいいのか……?)
徐庶が曹操に仕えることは悪くないことだ。その後、彼は出世して天寿を全うしている。友人のためを思えば、助け出さない方が良いのかもしれない――。
歴史を知っているからこそ、龐統は迷いを抱いてしまっていた。
(――歴史を知らなければ、助けようと即座に判断しただろうに)
だが、その場合は恐らく、救う手立てが思いつかなかっただろう。
ままならないものである。
龐統は深くため息をこぼしていると、ふと足音が近づいてくることに気づく。振り返ると、視界に入ったのは玲花だった。気遣うように士元を見つめ、首を傾げる。
「士元、どうかしたの? すごく悩んでいる」
「ああ――どうしたものかな、と思って」
「珍しいね。悩むよりも早く人を助けるために行動する士元が」
玲花の言葉に思わず龐統は苦笑する。
「そんな風に見えていたのか?」
「うん、そうだよ。石韜さんや孟建さんが困っているときも策を考えるよりも早く動き始めていたし」
玲花は胸に手を当て、上目遣いで龐統を見つめながら言葉を続ける。
「――私を助けてくれたときも、そうだった」
その言葉に思い出すのは、彼女と初めて会ったときのこと。
河北の豪族に匿われていた玲花はまだ幼く不安そうにしていた。徐庶と共に旅をしていた龐統はその豪族に玲花を連れて行ってほしいと頼まれたのだ。
『士元、止めた方がいい。彼女を連れていくのは危険だ。下手をすれば曹操軍に追い回される羽目になる』
基本的に人が好い徐庶が真面目に忠告してくれたが、龐統は彼女を放っておくことができなかったのだ。
「『人助けに論理的思考なんていらない』――だったね。士元」
「……よく覚えているな、玲花」
我ながら格好をつけた台詞を言ってしまったと思う。
少し気恥ずかしくなるが、玲花は真っ直ぐで強い眼差しと共に熱っぽく告げる。
「当たり前。その言葉にどれだけ励まされたか」
その言葉と共に玲花は頬を染め、胸の前に拳を握りしめ。
だから、と笑いながら言葉を続ける。
「論理的思考を巡らせるよりも、士元がやりたいようにすればいいと思うよ」
迷いを吹き飛ばすように、当たり前のことを言うように。
気負いがない玲花の言葉。それに思わず肩の力が抜ける。
(――あっさり言ってくれる)
ただ、考えてみればその通りだ。歴史の行く末など知ったことではない。
したいように、やってしまえばいいのだ。
そう思い切れば、自然と覚悟も決まってくる。
龐統は玲花に歩み寄ると、手を伸ばした。動きで察し、玲花は軽く腰を折って頭を差し出す。その小さな頭に手を載せ、気持ちを込めて撫でる。
「――ありがとな。玲花」
「ううん、私は当たり前のことを言っただけ」
「それでも、だ」
「なら――どういたしまして」
少しだけ照れくさそうに笑う玲花にもう一度、頭を撫でる。
それから手を降ろすと、視線を家の方に向けた。
「玲花、一緒に来てくれ。玲花の手も借りたい」
「ん、分かった」
彼女がこくんと頷くのを見てから、龐統は足早に家へと戻った。
居間では諸葛亮が坐したまま待っていた。戻ってきた龐統に視線を向けてくる。その彼に龐統は前置きを抜きにして諸葛亮に告げる。
「元直を助ける策を思いついた。孔明」
その言葉に諸葛亮は息を呑み、意気込むように身を乗り出した。
「聞かせて下さい。士元」
「ああ――その前に、玲花」
「はい」
振り返れば、後ろに玲花が控えていた。真剣な表情の彼女に龐統は告げる。
「司馬徽先生の元へ行ってくれるか。仮に元直がそこに顔を出したら、引き留めて欲しい」
「……うん、分かった。すぐに行くよ」
玲花は不思議そうな表情をしたが、何も言わずに頷いて踵を返す。出かける支度を始める彼女を見つめ、諸葛亮は頷いて告げる。
「時間稼ぎ、ですね」
「ああ」
恐らく徐母が囚われているであろう場所は襄陽だ。だが、真っ直ぐに徐庶はそこに向かうだろうか。
答えは否だ。徐庶は孝行息子である以上に、義理堅い性格をしている。
必ず発つ前に恩師である司馬徽の元に行き、別れの挨拶をするはずだ。
(司馬徽先生なら、すぐに事情を把握できるはずだ)
そして玲花が来たことで龐統の考えも読み取り、充分な時間を稼いでくれるはずだ。その間に徐庶の母親を襄陽から――曹操の支配下から救い出す必要がある。
そのために必要なのは、いくつかのピースであり。
それらは恐らく、諸葛亮が持っている。
「孔明、いくつか聞きたい。曹操軍の兵の服装は手に入るか」
その言葉に諸葛亮は少しだけ考え込み、やがて視線を上げて頷いた。
「確か、この近くの町の倉庫にあります。元々は博望坡の戦いで捕虜にした曹操軍の兵から鹵獲したものになりますが」
「丁度いい。それがあれば襄陽の侵入は難しくない。それともう一つ、襄陽の中で、劉備殿に協力してくれそうな武将はいるか?」
「……いるには、いますが」
わずかに口ごもる諸葛亮はため息交じりに言葉を続ける。
「魏延、という男です」
「――ああ」
諸葛亮が口ごもった理由が分かった。恐らく諸葛亮は魏延が嫌いなのだ。
演義では諸葛亮は魏延に反骨の相があるとして詰り、劉備軍団に入れることに反対しているのだ。
(――演義の創作かと思っていたけど、実際に嫌いなのか……?)
少し気になり、龐統は確かめるべくカマをかけてみる。
「あの反骨の相の男で間違いないか?」
「ご存知でしたか。あの頭の形は本当によろしくない……」
忌々しそうに首を振る諸葛亮に龐統は思わず苦笑してしまう。
だが、諸葛亮には悪いが、魏延が荊州にいてくれるのは僥倖だった。後の劉備軍の主力になる武将がいれば、龐統の策に説得力が増す。
「――いけるな。これなら」
龐統の独り言に、諸葛亮は軽く眉を寄せながら腕組みする。
「士元の考えは何となく分かりますが、上手く行きますかね。第一、曹操軍の装備を使って襄陽に入れたとしても、徐母がどこにいるか分かりませんし、警護は厳しいから助け出すのも困難でしょう。動いてくれそうな魏延も、たかだか荊州軍の一武将――下っ端に過ぎません。居場所を知っているわけではないと思いますが……」
「甘いぞ。孔明――お前の義父を忘れたか」
諸葛亮らしくない。龐統は笑いかけると、諸葛亮は目を丸くし、ああ、と思い出して額を打った。
「そうでした。その手がありましたか」
「ああ、これらがあれば策としては充分だ」
曹操軍の装備、魏延、諸葛亮の義父――それだけあれば充分だ。
「急ぎ、支度をしよう。孔明」
「ええ、玲花殿がどこまで時間を稼げるか分かりませんし」
龐統と諸葛亮は同時に立ち上がる。
徐庶を引き留めるにしても一日が限度だ。移動時間を含め、猶予は三日と見るべきだ。それまでに徐庶の母親を助け出さなければならない。
決意を秘め、徐庶の友人二人は頷き合い、動き出した。