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第1話

 夢を見ていた。懐かしい夢だった。


 辺りに響き渡るのは雑踏の足音、話し声、誰かが咳き込む音。

 頭の上からはアナウンスが響き渡り、列車が轟音と共に走る音が響き渡る。そこの空気はいろんな匂いが入り交じり、濁っている。

 視界に入るのは、行き交う多くの人々。無表情の彼らはすれ違う人々に無関心だ。

 コンクリートとアスファルトで包まれた世界は無機質なのに。

 溢れんばかりの情報量に満ちていて。

 その中で男はぼんやりと突っ立っていた。

 目の前の景色に何一つ注意を払わず、ただ漫然とこれからの仕事に思考を巡らせている。彼は情報を全て無視し、自分の思考に囚われていた。

 少しでも注意力があれば、後ろから迫る脅威に気づいたはずなのに。

 背後から、若者たちの笑い声が響き渡る。それに気づいたときも眉を寄せるだけで、それが脅威だとは思わず。


 次の瞬間には、どん、と背中が押されていた。


 あ、と思った瞬間、足が空を切る。血の気が引いた。

 体勢を崩しながら振り返れば、様々な光景が目に入り、音が耳に飛び込んでくる。

 遠ざかるホーム。赤ら顔の若者たちが驚いたようにこちらを見ていた。

 響き渡るのは列車の到着を告げるチャイム。誰かの悲鳴が耳に飛び込む。

 それをかき消すように、轟音が勢いよく間近から響き渡る。甲高いブレーキ音に視線を横に向ければ、迫ってきたのは巨大な列車――。


「――ッ!」

 その光景に思わず身体が跳ね起きた。

 息を整えながら辺りを見渡す。目に入るのは木の壁や天井だった。辺りは静かで自分の荒々しい呼吸がやたら大きく聞こえる。

 それから自分の手に視線を落とす。鍬や剣を握り、掌が固くなった手。

 それをしっかり握りしめて思わず吐息をこぼした。

(夢――なのは、分かっているけど、それでも)

 あの光景――前世で迎えた死の直前の記憶は見るたびにぞっとする。冷汗を拭っていると、後ろから澄んだ声が響いた。

「士元、また夢を見たの?」

「ん――ああ」

 振り返ってみれば、いつの間にか背後の一人の少女が立っていた。

 まだ幼さを残しているものの、顔立ちはすっきりと整っており、思わず目を引くような可憐さがある。彼女は腰に手を当て、形のいい唇から吐息をこぼした。

「こんなところで昼寝しているからだよ」

「……いいだろう。今日の農作業は終わったんだから」

「だとしても、だよ。それなら少しくらい、私の勉強を見てくれてもいいじゃない。一人で本を読んでいるのも退屈なのですよ。鳳雛先生」

「はは、悪い。玲花」

 苦笑を一つこぼし、青年は腰を上げながら言葉を続ける。

「小川で顔を洗ってくる。少し待っていてくれ」

「ん、分かった。待っている」

 少女――玲花は仕方なさそうに少しだけ笑い、その場を後にする。青年は背伸びをしながら、縁側から外に出る。

 家にある庭には小さな畑と、そこに水を引くための小川がある。そこまで歩き、小川の冷たい水で顔を洗う。口をゆすげば眠気が完全に吹き飛んでいた。

 手拭いで顔を拭いてから、ちら、と視線を一つの水たまりに向ける。

 その水面に映っているのは、精悍な顔つきの青年だった。

(姓は龐、名は統、字は士元――か)

 それは青年の名前であると同時に、前世の記憶にもある名前でもある。

 三国志に登場した、歴史上の人物として。


 青年――龐統には前世の記憶がある。

 それは今から千八百年以上の未来――平成時代の日本を生きていた一人の男の記憶である。彼は会社員として日々を過ごしていたが、ある日、不慮の事故で死んでしまう。

 そして、その記憶を引き継ぎ、彼は千八百年前の過去に龐統として誕生。

 後漢末期から三国時代を迎える、激動の時代を生きていた。


(正直、まだこの記憶をよく吞み込めてはいないんだよな……)

 最初の頃、この記憶はただの妄想ではないか、と疑っていたことがある。

 だが、夢で見る前世の記憶はあまりに生々しく立体的だった。

 それに――前世の未来で読んだ三国志の歴史の流れと、今世の歴史があまりにも一致し過ぎていた。それを踏まえると、前世の記憶は真実味がある。

 ひとまず、龐統は自身が歴史上の人物に転生した、という考え方で生きていた。

(前世のライトノベルのジャンルとして考えれば、異世界転生の派生形――三国志転生か。他人事して考えてみれば、面白い話だな)

 そんなことを考えながら龐統は苦笑をこぼし、家の中に戻る。居間に向かえば、玲花が一人文机に向かい、黙々と書き物をしていた。

 龐統の気配に気づくと、彼女は振り返って軽く一礼する。

「待たせたな。玲花」

「ううん、大丈夫。じゃあ、鳳雛先生、ご教授いただいても?」

「いつもみたいに士元と呼んでくれよ」

 軽口を叩きながら龐統は玲花が広げた書物へ視線を向ける。

 どうやら孫子の書物のようだ。龐統の家にある書物を勉強していたらしい。

 龐統の前世は勉強熱心な男とは言えなかった。とはいえ、義務教育を受けており、数学や古典なども勉強している。その下地を以て転生したので、幼い頃から読み書きには不自由しなかった。すぐに言葉も覚え、師匠の本に読みふけったものである。

「しかし、孫子なんてよく読むな」

「あらかたここにある書物を読んでしまったの。孫子はまだ読んでいなかったし」

「ああ、そういうことか」

 玲花がこの家に来たのは今から五年前のこと。

 友人の徐庶と共に河北を旅していたとき、一人の豪族から預かって欲しいと頼まれ、引き取った娘だった。荊州に戻ってきてからは龐統の家に居候している。

 良い教育を受けていたのだろう、読み書きも充分でき、向学心もあった。

 だから、龐統は家にある本を読ませ、気を向いたら勉強を見ていたのだ。

「それで士元、ここなんだけど――解釈が難しくて」

「どういう解釈だと思う? まずはそれを聞かせてくれ」

「うん、えっと」

 玲花は書物に指を添えて、すらすらと文字を読み上げて考えを述べる。

 理路整然とした説明と解説。分かりやすい言葉に龐統は思わず目を細める。

(――男顔負けの利発さだな)

 郷挙里選――この時代の官吏の登用制度で推薦された男たちでも、ここまで整然とした説明はできないだろう。

 時代が時代なら、彼女は宮廷の女官にもなれただろうが――。

「――どうかな。士元」

 玲花が顔を上げる。龐統は一つ頷き、笑って見せる。

「補足することはないよ。充分な理解力だな」

「士元に鍛えられたからね。学問も、体術も」

「体術はどちらかというと、元直だけどな」

 徐庶は剣術や体術に秀でており、龐統も彼から手ほどきを受けたのだ。

「ともあれ、もう官僚になれるくらいの学力だろう。もし玲花が望むなら、先生を通じて推挙するが。上手くいけば女官になれると思うぞ?」

「結構だよ。この乱世で女官になったところでつまらないし」

 玲花は唇を尖らせて告げると、視線を龐統に向けて続ける。

「それに士元も結局、仕官していないじゃない」

「まぁな。一応、旅の間で仕事をしたことがあるが、つまらなくて」

 河北を旅する前、一時期、江東に出入りをしていたことがある。その際、周瑜の功曹として働いていたが、所詮は小役人でしかなかったのだ。

 荊州で仕官したとしても、似たような仕事しかもらえないだろう。

 友人の諸葛亮や徐庶は史実通り、上手く劉備軍で仕官したようだが――。

(劉備軍はなぁ、正直避けたいというか……)

 前世の記憶を手繰る。その史書によれば、龐統は劉備軍に仕え、益州制圧の際に流れ矢に当たって非業の死を遂げている――そんな運命だけは避けたい。

 それに今の劉備軍は流浪の身であり、仕官したところで苦労するばかりだろう。

 現に今、劉備軍は曹操軍から逃げている真っ最中なのだから。

「――仕官するにしても、時期は選びたいな」

「同感――できれば、士元と一緒の場所でいたいからね」

「……その心は?」

「貴方は勝ち馬を見抜くのが上手いから。ね、鳳雛先生?」

 玲花はそう告げると悪戯っぽく笑う。龐統は思わず苦笑と共に肩を竦めた。

(実際、勝ち馬を知っているからなんだけどな)

 歴史を学んでいれば、曹操が勝ち馬なのは目に見えている。

 だからこそ仕官先を考える友人たちにはそれとなく助言をしてきた。袁紹や劉表への仕官は避け、曹操や孫権に仕官すべきだと。

 その様々な助言が的中していたせいか、友人たちからは龐統は勝ち馬の選び上手と評され、鳳雛の名をますます高めていた。

「とはいえ、私はともかく、士元はさすがに仕官しないといけないんじゃない? 最近は家を訪ねて来る人も増えて来たし」

「そうなんだよな……全く、迷惑なことだ」

 ここに家を構えてから数年経ち、鳳雛の評判が広がったこともあって荊州はもちろん、揚州からも熱心に人が訊ねてくるのだ。もちろん、仕官に関する用件で、である。

 のらりくらりと躱してきたが、そろそろそれも無理が出てくるだろう。

 特に最近、襄陽を曹操が制圧し、荊州の人材を広く求め始めたという。

 龐統に声がかかるのも、時間の問題と言える。

「近々、引っ越しをするかもな」

「それなら一緒に行くよ。士元」

 事も無げに玲花はそう言い、片目を閉じて悪戯っぽく笑った。

「貴方に面倒を見てもらった恩を返せていないからね」

「そんなこと、気にしなくてもいいのにな」

 軽く笑いながら龐統は玲花の頭を撫でて立ち上がる。

「さ、そろそろ昼飯にしよう。今日は何を作るかな」

「あ、それなら士元、昨日村からもらってきた卵が余っているよ」

「なら、ふわふわ炒り卵を作るか」

 要するに、オムレツである。根菜を交ぜ、タレを掛けた龐統特製料理だ。

 玲花はその言葉に目を輝かせ、無邪気な笑顔を見せてくれる。

「やったっ、あれ大好き!」

「それは良かった。なら竈の支度を進めてくれ。俺は適当に根菜を――」

 龐統は言いかけ、ふと気配に気づいて口を噤んだ。

 視線を縁側に向けると、その茂みから人影が姿を現す。玲花も一拍遅れてそれに気づき、鋭く声を放った。

「何者――」

「大丈夫だ、玲花」

 龐統は彼女を手で制して、縁側から外に出た。

 茂みから出てきた男の顔は泥まみれであっても、誰かすぐ分かる。共に同じ先生の元で学んだ親友だからだ。龐統は苦笑交じりにその名を呼ぶ。

「そんな泥まみれでどうしたんだ――諸葛孔明」

 その言葉に諸葛亮は苦笑を返しながら、真っ直ぐな目つきで告げる。


「貴方の助力を乞いに来ました。龐士元」


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