私は促されるように座布団に座った。
正座をするが、座布団が薄っぺらくて足が痛い。
草井奈美子がグラスに水道水を注いで私に出してくる。
(「身分が違うだろ」)
祖父の言葉が私の脳裏に蘇った。
私にも驕り高ぶったところがあった。
恐る恐るグラスの水に口をつけると思いの外飲みやすかった。
「凄い! 美味しい! 東京の水道局って優秀なのね。感動したわ」
私の言葉にクスクスと草井奈美子が笑う。
「本当に凛音ちゃんて面白い子ね。事務所では意地悪をしてしまってごめんね」
「意地悪? 何のこと?」
私は彼女に意地悪をされた記憶がなく首を傾げた。
「貴方を見た時、あの曽根崎玲の婚約者が来たと思ったの。自意識過剰の嫌な奴に見えて、わざと見た事もないだろう楽譜を弾かせて恥をかかせてやろうと思った⋯⋯でも、凄いね初見で完璧に弾けちゃうんだもん。天才じゃん」
草井奈美子の言葉に私は胸が苦しくなる。
私は天才でも何でもない。
初見の楽譜の演奏をする事など、ある程度の音楽教育を受けていれば誰でもできる。
「奈美子さん、私が自意識過剰の嫌な奴というのは間違ってないから、申し訳なく思う必要なんてないわ⋯⋯」
私の言葉に即座に横にいたHIROが反応した。
「凛音! 自分を嫌な奴なんて言うなよ。お前の演奏めちゃくちゃ凄かったし⋯⋯水道水飲んで水道局の人に思いを馳せれるお前って良い奴だと思う⋯⋯」
HIROがまた目を逸らしながら、頬を染めている。
そんな彼の姿はテレビや雑誌では見られなくて貴重で可愛い。
時が戻る前、私を心底軽蔑した視線で「嫌い」と言って傷つけた人間と同一人物とは思えない。
「HIROは私の演奏のファンだって事? 私も貴方のパフォーマンスのファンなんだ。だから、貴方にはもっとダンスや歌を磨いて私を熱狂させて欲しい」
「な、何だよ急に! 俺のこと嫌いみたいな態度だったのに照れるじゃん」
HIROが嬉しそうに頬を染めて口元を抑える。
「だから、くれぐれもファンには手を出したりしてスキャンダルを起こさないでね。色恋沙汰みたいなのでガッカリさせないで」
私は自分を襲おうとした彼を思い出しながら続けた。
正直、彼に押し倒された時にファンに手を出すようなクズ野郎だったと失望した。
私の中で彼は歌や踊りに夢中で、そういった男女のことに一切興味がない純粋な男の子だった。
その偶像を崩されると彼を崇拝する思いが削がれてきて、自分が彼を助けたいという使命感さえもなくなってしまう気がした。
「それってどう言う意味? 遠回しに自分はHIROには興味があるけど、俺自身には興味がないから好意を持たれても迷惑って伝えて来てるの?」
私はそこまでの意図があって言ったわけではないが、HIROは私の心の奥底を察してそう感じたようだ。
「そうだよ。自意識過剰だったらごめんね」
私が素っ気なく言った言葉によって流れた私たちの気まずい空気を感じたのか、草井奈美子が口を開いた。
「そうそう、私とHIROが姉弟なんて似てないのに信じられないって言ってたよね。実は私、整形してるんだ。これが、昔の私たち家族」
年配の男性と草井奈美子が写っている写真が飾ってある写真たてをひっくり返して開くと、もう一枚写真が隠れていた。
そこにあったのは仲睦まじく写る4人家族の写真だった。
「私たち家族が揃って撮った最後の写真なの。私が16歳で、真紘が8歳の時かな」
草井奈美子はそう言うと静かに涙を流し始めた。
私はちゃぶ台の上の雑巾を彼女に差し出すHIROの手を制して、レースのハンカチを彼女に渡した。
写真には小学校低学年くらいのHIROと一緒に、彼によく似て可愛らしいヤンチャな笑顔をした高校生くらいの女の子が写っていた。
「こんなに可愛いのに、何で整形なんか⋯⋯」
私の中で整形は犯罪者が潜伏する為にするか、ルックスに自信のない子がするものだという認識があった。
写真の中の女の子は溌剌として笑っていて、とても自分のルックスにコンプレックスを感じているような子には見えない。
「実はね。母親の不倫が原因で親が離婚してるの。でね、私は父親に引き取られたんだけど、どうも母親似の私の顔が気に食わないらしくてさ」
「それ、おかしいよ! どうして、それで痛い思いして奈美子さんが整形しなくちゃいけないの?」
私は自分のことではないのに、震え上がるような怒りを感じていた。
それは彼女には記憶にないだろう過去に、彼女を「整形ババア」と罵った自分への怒りでもあった。
「ふふっ、怒ってくれてありがとう。凛音ちゃんは本当に優しいね」
私は優しいなんて言われた事がなくて、戸惑ってしまった。
「母さんは浮気なんてしてないよ。全部、曽根崎玲が仕組んだんだろ!」
急に怒気を含んだ声を出すHIROに驚くと、彼の手は怒りで震えていた。
日本有数のセレブともいえる玲さんと、この庶民的な家族のどこに接点があったのか不思議だった。きっと、これから驚くような真実を私は告げられるのだろう。私の自慢の婚約者が恐ろしい男だということは、私自身が一番知っていると思っていた。