今日は色々あり過ぎて疲れ切っていて、車の中でうとうとしてしまったらしい。
どれくらい時間がたったのだろうか、目を開けると目の前には暗い海が広がっていた。 首元に手を当てると、若草色に輝く宝石のネックレスが掛けられていた。私のRIOという名前が輝く宝石に絡みつくようなデザインになっているからオーダーメイドしたのだろう。
「これ、エメラルド?」
「ベリドットだよ。8月の誕生石」
「この鎖ってもしかしてシルバー? 私、誕生石とかどうでも良いからダイヤとプラチナのネックレスが良かったな」
「17歳の誕生日にシルバーを贈られると一生幸福でいられるらしいよ」
「玲さんてロマンチストなところがあるんだね。私はそういう迷信みたいなの苦手だな」
私は玲さんが用意してくれたプレゼントに御礼がいえない自分を恥じた。また、気を抜くと彼がどこまで私が嫌な事を言っても許してくれるのか試してしまう。
藍色の学生鞄からスマートフォンを出し、時間を確認しようと思った。
指紋認証で開いたトップ画面に信じられないニュースを見つける。
『『スーパーブレイキン』のHIRO、『JKロック』のMINAと心中か!?』
信じられないような表題を見て心臓の鼓動が小動物のように早くなる。
しかし、私はここでその詳細をチェックする事はやめた。
先程の出来事で私のHIROへの感情は冷め切っていたのか、そのニュースを見知らぬ人の不幸のように受け止めた。
スマートフォンを再び学生鞄に閉まって、運転席の玲さんの方を向く。
車はエンジンを切って停車して、しばらく時間が経っているようだった。
「玲さん、ここ海?」
「そうだよ。千葉で花火大会があるから見ていかない? 夏らしい事、今年はできていないでしょ」
夏らしいも何も、私の中の季節感は家庭がめちゃくちゃになってから止まっていた。
家族で避暑地の別荘でテニスをしたり、島のプライベートビーチに行ったりしたのは遠い過去の記憶だ。
「千葉なんて田舎行きたくない。今日は、疲れているから家に帰りたいよ」
そもそも地理が絶望的に弱いので、千葉という場所がイマイチどこにあるのか分からなかった。でも、柏原家の千葉の別荘は自然豊かな山の中にあったから、多分田舎だ。
「そんな事を言わずに、さあ、降りて」
玲さんは微笑みを浮かべながら車を降りて、助手席のドアを開けて王子様のように私をエスコートしようとしてくる。指先まで神経が通ったような洗練された振る舞いをする彼はHIROとは対極の存在に見えた。
私はとりあえず、彼の手をとって車を降りた。
月明かりに照らされた彼の横顔が美して思わず見惚れる。陽が落ちているせいか、肌寒くて身震いすると彼はそっと自分のジャケットをかけてくれた。HIROとは違って汗臭くなくて、上品な金木犀のような香りがする。
こんな素敵な人と将来結婚できるのに、私は何が不満なのだろう。
誰もがときめく彼に私もときめいていたはずなのに、何時からかその感情は無くなっていた。
「今から、クルーザーに乗ろう。海から2人きりで花火を見よう」
柔らかに微笑みながら私を愛おしそうに見つめてくる玲さん。
私がもっと素直になれば、彼と上手くいくのかもしれない。恋する気持ちなど、彼の美しい顔に見惚れていれば蘇るはずだ。
玲さんの本音が何であれ、彼に寄り添ってみようという気になっていた。
「海なら道路みたいに混雑はしないから良いかな」
私が素直に応じると、玲さんは再び穏やかに微笑む。
(本当に怖いくらい綺麗な顔⋯⋯)
クルーザーに乗り込むと、本当に世界に2人きりと言うくらいの場所まで移動してきた。花火大会があるのならば、周囲に屋形船とか浮いてそうなのに見当たらない。
(ここって本当に東京湾? 外海まで出てきてない?)
海も真っ暗、空も黒くて境目が分からなくなりそうだ。波のうねりと微かな白い飛沫が恐怖を駆り立てる。
玲さんがクルーザーを停めた。
五月蝿いくらいのエンジン音がなくなると、波の音しかしなくて静寂に耐えられそうにない。
「玲さん、船も運転できるんだね」
私は何でもできる婚約者の男を素直に褒めてみることにした。
「簡単だよ。凛音もやってみる?」
玲さんが私の手をとるが、私はやってみた事のない事に挑戦して失敗するのが怖い。
「いや、私は船舶免許も持ってないし⋯⋯」
「誰もいないから、大丈夫。何事も挑戦してごらん? 凛音の初めてに立ち会いたいんだ」
玲さんの声は楽しそうに弾んでいた。
操縦席に私を座らせ、玲さんが後ろから私の手を握ってくる。たまに人間に見えないくらい完璧な彼も触れると温かい。
私がハンドルを少し右に舵を切ると、船が思ったよりも傾いた。
私は予想外の動きに身震いする。
「うわっ、クルーザーの操縦って意外と難しい。思ったよりも動くんだね。もう、いいや」
怖くなって立ちあがろうとしたら、不意に玲さんに後ろから抱きしめられた。
ここまでの身体接触を彼にされたことがなくて変な感じだ。
金木犀のような上品な香りに包まれて、頭がぼーっとしてくる。
「ふふっ、意外と怖がりだよね。凛音は」
耳元で玲さんが囁いてくる。なんだか弱さを指摘されたようで小っ恥ずかしい。
私は彼に横抱きにされ船頭の方に連れてかれる。
お姫様抱っこというやつだが、船上でされると身を預けるようで怖い。
私は思わず玲さんの首に抱きついた。
「そういう素直なところが、もっと見たかったな」
玲さんの小さく呟く声が急に冷ややかになった。
私は心臓が急に冷やされたような謎の恐怖を覚える。
ぼーっとしていた頭が、恐怖で覚醒するのが分かった。
「玲さん、私、もう少し素直になるようにしてみるよ。今まで、感じ悪くてごめんね。そういえば、花火はまだ?」
私は恐怖と罪悪感でぐちゃぐちゃな感情になり、気がつけば彼に謝っていた。
「あと、30分くらいで始まるかな」
私の謝罪をスルーし、彼が花火の開始時間を告げてくる。
「30分も、こんな何にもないところで待つの? 打ち上げ花火くらい玲さんが自前で用意してよ。気が利かないなぁ」
私は思わず悪態をついてしまい焦った。
彼と上手くやろうと思ったら、悪態をつく癖も直した方が良いだろう。
玲さんが怒ってないか恐る恐る顔を覗くと、私を安心させるように彼が微笑んで安堵した。
「ここには何もない? そんな事はないよ。ここには僕と凛音がいて、銀の月だけが僕らを見ているんだ」
玲さんが突然ロマンチックな事を言ってくるので、私は照れ臭くなってしまって話題を変えようと思った。
「そういえば、玲さん。今日はどうして私があそこにいるって分かったの? それと、『スーパーブレイキン』のHIROって玲さんの知り合い?」
私の質問に彼は答えず、私をお姫様抱っこしながら黙って船の際まで足を進める。
彼に抱っこされている私は彼に手を離されると、海に落ちてしまいそうだ。
「玲さん、ちょっと怖いよ⋯⋯」
私は必死に彼にしがみついた。
「怖い? どうして、自分がこんな目にあうのか理解できてる? それは凛音が僕を失望させたからだ。婚約者がいるのに他の男に股を開くようなアバズレ女が!」
私は一瞬何を言われたのか分からなかった。
他の男とは? 股を開く? そんな事はした覚えがない。
「な、何の事?」
「言い訳しても無駄だよ。今日、小柳真紘の部屋であった事の話をしてるんだ」
玲さんが凍てつくような視線で私を見ていた。真っ暗闇で浮き上がる白い玲さんの顔がこの世のものではないみたいに美しくて怖い。
私は確かにHIROに襲われかけたけれど、未遂に終わっている。
あの時の出来事を混乱する頭で思い出してみても間違いない。
「彼の部屋には行ったけど、玲さんが思うような事はしてないよ。あ、あの、それに、玲さんこそ私と婚約してからそういう事はあったんじゃないの? 私のことだけを責めるのはどうなの?」
私は恐らく余計な事を言った。
婚約者がいるのに異性の部屋に行ったという罪悪感を彼に押しつけたかったのかもしれない。
彼と私が婚約したのは3年前。
如何にも女慣れしている玲さんが私の為に貞操を守り続けているとは思えない。私は婚約当時は中学生で幼かったが、玲さんは大学生だった。
彼が歩くだけで、女が磁石に引きつけられる砂鉄ように寄ってくるのを私は何度も見ている。いつも女の媚びるような視線を受けている彼は誘惑も多そうだ。
私は彼に浮気相手がいるかを詮索した事はなかった。
どうせ私と彼は結婚すると決まっているし、出会った頃のような恋心は彼に対して抱いてなかったからだ。
「⋯⋯初めては痛かった? かなり痛そうだったけれど」
「えっ? 何言って⋯⋯」
玲さんの言葉を混乱する頭の中で理解しようとする。
HIROの部屋の状況を思い出してみると、私は確かに床に頭をぶつけて痛い思いをした。「痛いからやめてくれ!」と必死にHIROに懇願した。
「玲さん、もしかして、私のこと盗聴してる?」
私の質問は彼の行動で返された。
私はドボンッと夜の真っ暗な海に落とされた。
暗くて冷たくて苦しくて私の意識は遠のいた。