リハーサルを一通り見学し、私はHIROの招待に応じてHIROの部屋に行く。
隣の木造建築のアパートの扉を開けたそこは、貧乏を絵に描いたような部屋だった。
扉が閉まる音がギィィとうるさい。
HIROが内鍵をかける音がした。
4畳半というのだろうか、狭い部屋には本当に何もない。
芸能人というのは儲かるのかと思っていたが、ごく一部の上位層だけのようだ。
私はここに来て歌って踊っているテレビや雑誌のHIROが好きなだけで、目の前の小柳真紘には興味がないことに気が付き始めていた。それでも、彼に近づき彼を守りたいと思う。
(私の孤独を救ってくれ続けた人だからかな⋯⋯)
「はぁ⋯⋯ぼーっとしてないで、お茶くらい入れてくれないの?」
席に案内するわけでもない、お茶を用意する訳でもなく無言で私の後ろに立っているHIROに違和感を感じた。
「あっ、ごめん。今、お茶出すわ」
HIROは私の言葉に慌てて、コップに水道の水を入れて渡して来た。
私はそれを突き返す。
(お茶じゃなくて、水だし⋯⋯)
「要らない! 水道の水なんか飲める訳ないじゃない」
日本の水は飲み水として安全だとは知っているが、この私に水道の水を飲めという人間がいるとは思わなかった。
「ちょっと待って! 凛音ちゃんって、俺のファンなんじゃないの?」
HIROが戸惑ったように頭を掻く。
ファンは自分に対してイエスマンだとでも勘違いしているのだろう。
「ファンなら水道水を飲めって? 踏み絵じゃあるまいし⋯⋯」
「踏み絵って何?」
私も教養がないが、HIROは私以上に無知みたいだ。芸能人は「おバカ」を売りにする人もいるからそれで良いのかもしれない。
「もう、私帰るわ。これ以上、HIROに失望したくない」
これ以上、彼を知ると私は彼のファンではなくなってしまいそうだ。そうなると、私を救ってくれた恩人である彼を救いたいという気持ちさえ失いそうで怖い。
「待ってってば! 俺、何か君に失望させるような事した?」
HIROは私の手首を慌てたように掴んでくる。
今日見た彼の事は忘れようと思った。
こんな顔が良いだけの粗野な男の子に夢中だった自分が恥ずかしい。
「今日のリハーサル⋯⋯歌って、踊るのかと思ったら、歌は口パクなんだね」
「いや、ブレイクダンス踊りながら歌うとか不可能だから⋯⋯当たり前だろ」
「当たり前だと思うなら、何で口パクして歌っているフリをしているの? それって嘘じゃ⋯⋯」
(嘘は嫌い! 私が嘘ばかりだから、せめてHIROには!)
私の言葉はHIROのキスで塞がれた。
ほとんど無理矢理唇をこじ開けられる。
「んんっ! ちょっと、何? な、何でいきなりキスするの?」
「お前、俺のファンなんだよな! なら、少し黙れよ」
私はHIROの睨むような目付きと鋭い声に思わず目を見開いた。
「ファンに手を出すとか、最低!」
私が彼を引っ叩こうと手を振り上げると、その手首を掴まれ押し倒されてしまう。
畳の床に頭をぶつけて、激痛が走る。
「い、痛い! やめて! 痛いよー!」
私は痛いのが大の苦手だ。
私がこれだけ嫌がっているのに、HIROは私の服に手をかけて服を脱がそうとしてくる。
手をまとめ上げられ畳に押さえつけられているので、足をバタつかせて抵抗する。
圧倒的な力の差がありビクともしない事実に恐怖した。
「痛いって言ってるのに⋯⋯何でこんな事するの? うぅ⋯⋯酷いよ⋯最低だよ」
自分の出す声が涙声になっている。
その事にHIROが気が付いたのか、手の拘束が些か弱まった気がした。
カチャカチャ!
その時、扉の鍵を開ける音がして誰か人が入ってきた。
「真紘? 誰かお客様?」
部屋に入って来たのは、HIROの死の第一発見者になる予定のMINAこと草井奈美子だった。茶髪のショートに、目鼻立ちのくっきりしたハーフっぽい美人だ。
草井奈美子は制服が脱がされかけた私を見るなり、近づいてきてHIROの頬を思いっ切り引っ叩く。
「いや、奈美子! でも、こいつは!」
HIROが草井奈美子に言い訳をしようと口を開いたところで、私の中の何かが切れた。
「何なの? アイドルで色恋営業している癖に2人は付き合ってるの? ファンに手を出そうとするHIROも最低だし、草井奈美子もおばさんのくせに女子高生のフリして高校生に手を出しててキモいよ」
私の言った言葉に2人は心底驚いた顔をした。
私がMINAの正体がなんちゃって女子高生の草井奈美子だと知っていたのが不思議なのだろう。
そもそも草井奈美子はなぜ女子高生のフリができるのか不思議で、まじまじと彼女の顔を見る。
本来なら、同級生などから彼女の正体のタレコミがあるはずだ。
(鼻⋯⋯よく見ると上から通り過ぎてない? プロテーぜ? 目の感じも⋯⋯整形?)
「まず、HIROが貴方に手を出そうとした事は謝らせて」
草井奈美子が目を伏せて私の制服を整えながら語りかけてくる。
私は、彼女の手を力強く振り払った。
「触らないでよ穢らわしい! この整形おばさん!」
私がさっさと部屋を出ようとすると、後ろからHIROの声がした。
「柏原凛音! お前、顔は可愛いけど中身最低だな。俺、お前嫌いだわ。曽根崎玲とお似合いだよ」
言い捨てるような彼の言葉と共に扉が閉まる。
私は応援していたHIROに襲われかけた上に「嫌い」と言われ、少なからずショックを受けいていた。
(最低なのは、どっちよ⋯⋯)
泣きそうになりながら、家路につこうとタクシーを呼ぼうと道路で待っていたら見覚えのあるシルバーの外車が止まった。
「凛音、お疲れ様。家まで送るから乗って」
優しい声色、芸能人に勝るとも劣らぬルックス。
神が悪戯で作ったように何もかも持っている私の婚約者だ。
「玲さん、迎えに来てくれたんだ⋯⋯ありがとう」
私は初めて彼にお礼を言った気がする。
私がお礼を言った事に余程驚いたのか、玲さんは目を丸くした。