――幸せな約束をした次の日、アレックスが慌てた様子で訪ねてきた。
客間に通してお茶を出そうとしたら、すぐ帰るつもりだから、と断られた。
「アレクシア、残念だが、今回は約束の観劇を見送ろう。別のことで埋め合わせさせてくれ」
「え……いったい、どうしましたの?」
旅行のことを考えて、幸せいっぱいだったアレクシアの心の中は、せつなくなり、急速に灰色になった。
しかし、アレックスが語る理由は、じゅうぶんに納得できるものだった。
「その様子だと君の耳には届いていないようだね。例のロミオット殿下が外交で王都へ来る。ちょうど約束した観劇がある頃だ。もてなしで観劇に招待される可能性もある。今月、王都へ行くのは危険だ」
「ま……まあああ!? なんてこと! 確かにそれは、断念せざるを得ませんね。知らせてくれてありがとうございます」
約束がなくなって残念だったが、アレックスは正しい。アレクシアでもそう判断する。
「それにもう1つ、前から懸念していることがある」
「な……なんですの?」
「この領地に手紙が届いていることだ。彼の手紙は、私に間違って届いてはいるが、『アレクシアがこの領地にいる』ことまでは掴んでるってことだ」
「そうですわね。でも……外交なら自由が効かないでしょう。ここへ来る段取りをつけられないのでは? バカですし……」
「アレクシア、歯に衣を着せ忘れてるよ? 君がバカだと思ってるその彼は、視察訪問でこのベルクホルト領を訪問すると言ってきた。我が家はいきなりの隣国王太子訪問決定で、大忙しだ」
「なんですって……。またこんな年末の忙しい時期に急な視察を……? なんて迷惑な」
「おそらく、君に会うのが狙いだろう」
「いやあ!?」
アレクシアは、さすがに不安になった。
彼女は昔と変わりない暮らしはしているものの、実際の身分は平民だ。
王太子であるロミオットに誘拐のように連れ去られても、問題になりにくいだろう。
「しばらくどこかへ身を隠さないと……」
「不安にさせてしまったね。でも、会うだけですまないかもしれない、とも考えられるからね」
「いいえ、うちにはまだ情報が来てませんでしたから、ありがたいですわ。あなたの言う通り、下手したらエストリアへ強引に連れて行かれるかもしれません」
「そこでだ、アレクシア。こんな時にこういうのも……どうかとは思うんだが、さっきの埋め合わせの件で案があるんだ」
「いえいえ、お構いなく。どんな案かしら」
「ロミオット殿下がこちらへ来るなら、逆に私達が君の故郷エストリアへ赴いて、あっちの劇場へ行くのはどうだろう?」
「まあ、素敵。……アレックス様、あなた、発想が素晴らしいですわ!」
アレクシアは、アレックスに尊敬の眼差しを向けると、彼はすこし恥ずかしそうに頬をかいた。
「天才なんかじゃない、恥ずかしながら悪知恵だよ。……でもその様子だと賛成だと思っていいよね?」
「ご謙遜なさらないで、立派な案ですわ。本当に素晴らしい。私も里帰りできますし、なによりあなたと旅行できるのが……嬉しいわ。でも、忙しくなってる時に抜け出して良いの? ヴァルデリアの首都に行くより遠いですわよ」
「実は親に事情を話して、了承をもらってる。その代わり、今日から仕事を急ピッチで片付けるから、約束の日まで会いにこれないけどね」
アレックスは軽くウインクした。
「ご、ご両親……。そ、そうですわよね。年末に遠出するのでしたらご両親には告げませんとね」
そうだ。アレックスだって、自分の付き合いのある友達のことは両親に話すことだってあるだろう。
アレクシアは、自分がどのように領主夫妻に話をされているのだろうと、非常に気になったし、年末の忙しいときに、領主の跡取りであるアレックスを連れ出すなら、ご挨拶は必要だろうと思い至った。
「いけないわ……私、そういえば領主ご夫妻にまだ一度もご挨拶を……あ」
そういう気持ちから口にした言葉だったが、ふと――。
「(あれ? 侍従がいるとはいえ、私、男性と二人で旅行に行こうとしてます!? 平民になったとは言え、これってちょっと――)」
観劇に行く、など故郷に住んでいた時は当たり前の行事の1つだった。
友達と行ったり、お互い嫌々ながらもロミオットと行くこともあった。
でもそれは、王都内に住んでいて劇場が近場にあったからだ。
侍従つきであろうとも、未婚の若い男女が二人で数日旅行へ、行く……。――それは、友達以上ではないだろうか。
「我が家はかなり大雑把だから気にしなくていいよ……とは言っても、君は気にするよね」
「気にしますとも、忙しい時期に領主の息子を長期間ご一緒させてもらうのですから……出発前に一度、ご挨拶に伺わないと……」
「じゃあ、出発の日にすこし挨拶の時間をとるようにしよう。ねえ、アレクシア」
「なんですか?」
「顔が真っ赤だ。どうしたのかな?」
そう言ってアレックスは、アレクシアの頬を両手で包み、考え込んでうつむき加減になっていかその顔を上げさせた。
「(!?)」
「熱はないみたいだ、良かった」
アレックスは、そのまま自分の額をアレクシアの額に合わせた。
彼の息が顔に触れてくる。
「出発までに風邪ひかないでくれよ。私はとても楽しみにしているんだから」
そのままの状態で微笑み、そう言ってくるアレックスに、アレクシアも振り払うことなくそのまま答える。
「……わ、わかってますわ。あなたもですわよ」
アレックスはそのまま言葉を続けた。
「ところで、君は……家族や友人にはアレックスと呼ばれてるのかい?」
「あ、いえ。家族にはレクシィとか、友人はアリアでしたわ」
「じゃあ、私は……アリスと呼ぼうかな。いいかい? 誰も呼んでない呼び名がいい」
「!?」
――アリスって……そんな、アレックス様だけの特別な呼び方を考えてくださるなんて……。
「ど、どうぞ……」
頭の中で一生懸命言葉を探すが、それしかでない。
「ありがとう」
アレックスは礼を言うと、穏やかで優しい微笑みを浮かべたまま、そっと頬から手を離した。
その微笑みに、アレクシアは目を逸らすこともできず、
「(自分の心臓の音がうるさい……アレックスに聞こえたりしないわよね。早く収まって……)」
胸の中で鳴り響く音は、自分にしか聞こえないはずなのに、やけに大きく感じ、はやく落ち着くようにつよく祈った。
「それじゃ、私はそろそろ帰るよ。アリスと心置きなく旅をして観劇したいからね」
「え。ええ」
アレクシアは、口から短い言葉しか出ず、そのままアレックスを見送り、しばらくエントランスで呆然と立ち尽くした。
手のひらを頬に当ててみると、まだ彼の温かさが残っているように感じる。
「……アリス」
思わずその呼び名を自分で呟いた。
「……」
「……っ!!」
なんとなく呟いてみただけだったのに。
その名前の破壊力が大きく、周囲には誰もいないのにまた真っ赤になった自分の顔を覆った。
しゃがみ込んだ彼女の頭の中では、小さなアレクシアが何人も追いかけっこするように、「わあ! わあ!」と走り回っていた。