「その、悪かったわね」
すっかり涙の存在を紙コップの中に入っている冷たい水ごと飲み込んだ雪花が、まだ僅かにまなじりに残っていた痕跡を擦りながら、ぶっきらぼうに唇を尖らせた。
しかし嫌な感じはせず、どちらかというと照れ隠しのような。
とにかく彼女との距離が詰まった気がする。
「まさか草壁雪花大統領閣下が涙もろいとは」
「何その言い方? 馬鹿にしてるの?」
「してない」
純粋に思ったことが口からまろび出てしまっただけである。
あそこまで俺に対してつっけんどん、もとい殺意を前面に押し出していた彼女が、ゾンビであるのにもかかわらず動物の献身を見て泣くとは、案外種族間の隔たりというのも小さいものなのかもしれない。
一例だけを見て判断するのは尚早に過ぎるけど。
明日急にゾンビウイルスが世界に蔓延して、ポストアポカリプスになったとしたら、雪花の例を知る俺は彼らと友好同盟を結ぼうとしてしまうかもしれないのだ。
間違いなく序盤で死ぬタイプのキャラ。
ちょっと微妙になった空気を誤魔化すためか雪花は咳ばらいをし、丁度お昼時となったために込み合ってきたフードコートを見渡す。
「そろそろご飯食べる?」
「まぁ、そうだね」
「じゃあ買ってきてあげる。何がいい?」
「え」
自分も腹の虫がくーくーと鳴いていたので同意したのだが、なんと彼女は俺に奢ってくれるなどと言い出した。
かっこ仮とはいえデート。女性に支払わせるわけにはいかない、という思想を持っているわけではないが、流石に己の食費を持たせるのは。
ヒモと揶揄されてもまったく反論できなくなる。
「いや自分で払うよ」
「迷惑かけたでしょ。それのお詫び」
でもその代わり、これでさっきあったことは忘れなさいよ! と。
雪花は椅子の音を響かせながら立ち上がった。
リクエストを聞かないままに彼女はうどん屋へと向かう。きっとうどんの気分だったのだろう。映画でヒロインと主人公がうどん食べてたし。
数分ほど経つと湯気を上げるうどんを二皿持ってくる雪花。
お盆に乗っけて危なげなく。いやゾンビだから別の意味で危ないんだけど、デートしてるんだから今さらである。
それに彼女がその気だったら一瞬で殺される。多分。
「はい」
「ありがとう」
「……うん」
なんだか随分と素直だ。
ここまで来ると怖いくらい。
ドッキリのカメラとかセットされてる?
辺りを見渡してもそれらしき影はない。向かいの席に腰を下ろした雪花が首を傾げる。「なんでもない」と手を振りつつ、俺は比較的綺麗に割り箸を割った。
「いただきます」
「いただきます」
久しぶりに食べたうどんは美味しかった。
普段は麺類といえばラーメンばかり食べているから。
男子高校生の体の八割はラーメンでできているのだ。味噌ラーメンとか。
食事を終えた俺達は早々にフードコートを立ち、ゆったりとウィンドウショッピングに繰り出す。女子の買い物は長いうえに購入しないと——ラブコメものの作品で——学んでいたのだが、意外と他人とするのは楽しかった。
「ねぇ、これどう?」
「いいんじゃない。似合ってるよ」
もともとの目的が菜々花に相応しい男となる、であることを忘れていない俺は、五百円のイヤリングを付けた雪花に誉め言葉を投げる。ゾンビゆえに青白いを少々超えた領域の肌に、赤いガラスが眩しい。
今朝のように「そのまま言う馬鹿がいるか」なんて攻撃されたりするかな、と思っていたのだが、何故か彼女は俯いて「……そう」と小さく呟いた。
どうやらそれが気に入ったようだったので、俺はさりげなくイヤリングを手に取ると財布を開きながらカウンターへ向かう。
奢られっぱなしってのもね。ぎりぎり釣り合ってないが。
茶色のシンプルな紙袋に入れてもらったイヤリングを、店内でうろついていた雪花に渡す。一瞬頭に疑問符を浮かべ、やがて目を見開き、
「えっ、ちょっ、え!?」
「さっきのお返し」
「お詫びだったのに!」
俺の嫌われようからして突き返されてもおかしくなかった。
しかし、彼女はか弱く紙袋を胸に抱きしめると、聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで「ありがと」と呟いた。
そうこうしているとショッピングモールに斜陽が差し込み始め、帰るのにいい頃合いとなる。
「……えっと」
ショッピングモール特有の大きな扉をくぐると、しばらく浴びていなかった外の開放的な空気に晒され、思わず伸びをしてしまう。
駅のロータリー中心部にある謎の邪魔な噴水に茜が反射しているのを眺めていたら、背後から躊躇するような声。
「き、今日はどうだった?」
「うーん、楽しかったかな」
これはお世辞とかではなく。
高校生になって……いや、見栄を張るのはやめよう。生まれて初めての異性とのお出かけだった。
それがゾンビというのも物悲しいが。
「じゃあよかったわ!」
雪花は自信の表れかのように胸を張る。
それにしても彼女はやはりボロボロの服を着ていた。
ゾンビが着るから服がボロボロになるのか、それともあえてボロボロのを着ているのか。非常に気になるところ。
「そ、それと………………」
もじもじ。
胸で紙袋を抱きながらの上目遣い。
「あんたがしたいって言うなら、ほら……また『デート』してあげてもいいわよ? あんたみたいなのが私とデートできるなんて、感涙に咽ぶほどの幸運なんだからね」
なるほど。
彼女は俺の異性への不慣れさに憐れみを覚え、再度デートしてくれようというのか。
しばらく、その発言をありがたく頂戴した場合と、しなかった場合のことを考える。
デート。
ゾンビと。
また。
……うーん。
「いや、いいかな」
「え……何がよ?」
「デートするの。申し訳ないし」
申し訳ないというのは理由の半分程度。
残りは単純にゾンビとお出かけしたくなかっただけである。
今日の感覚としては、動物園にいるライオンを観察していたようなものだろうか。ちょっと違うのは檻の中に自分がいること。
外から見ている分にはいいだろうが、関わるとなるとなかなか厳しい。
「なっ、なっ、なっ……」
雪花はわなわなと震え、最後には涙目になって拳を放ってきた。
「――何よこのクズっ! 馬鹿っ! 私がせっかく優しさを見せてあげたっていうのに! やっぱりあんたなんてお姉ちゃんに全然相応しくないわ! 絶対に許さないから!」
なんて言って。
彼女は夕日の中に小走りで行く。
残された俺は周囲から向けられるクズを見るような視線に耐えながら、どうしてゾンビのお誘いを断っただけでこうなるのだろう、と途方に暮れていた。