「ちょっと付き合いなさい」
言葉だけ聞くと少々上から目線ではあるがお願いの体をなしている。これならば俺も面倒くさそうに席を立つだろう。
しかし実際は力強くネクタイを掴まれ、教室中から視線を集めながらの退場。
どうしたらいいのかわからないのであろう菜々花の慌てようが変に記憶に残った。
「痛いんだけど」
「馬鹿は痛くないと理解できないでしょ」
雪花はこちらの婉曲な諫言には耳を貸さない。
ずんずんと廊下を突き進み最終的には階段の踊り場まで連れて行かれた。
屋上へと繋がるものの開放されていない方の踊り場だ。この学校には屋上へと繋がる階段が二つあり、片方は施錠されている。
「もう諦めたわ」
「何を?」
「お姉ちゃんを説得するの」
ネクタイを離しながら彼女はため息をついた。
ため息をつきたいのはこっちの方なのだが、空気を読める系男子である俺は勇ましくだんまり。人によっては声を上げる勇気がなかったと表現できてしまうが、スパルタの勇士にも劣らない勇気を持っている俺には当てはまらない。
決して目の前のゾンビが怖いとかそういうわけではないのだ。
「そう。じゃあお疲れ」
わざわざそんなことを伝えるために踊り場まで連れてくるとは、よほど菜々花の耳に入れたくなかったのだろう。
事情を悟ったので優しく微笑みながら、そっと片手を上げる。
まったくシャイな子猫ちゃんだ。いや子犬ちゃんだ。
「馬鹿なの?」
「ぐえ」
残念、ゾンビからは逃げられない。
階段を降りるために片足を上げたその瞬間、思い切り襟を掴まれた。
喉から気の抜けた声が漏れてしまい、額の奥に鋭い光が灯る。
「意味ありげにここまで来て、さっきの話で『はいさようなら』って」
「ほら、当人がいると口に出せない話ってあるでしょ」
「私そういうの気にするタイプじゃないから」
そうだろうね。
「もう諦めたの。お姉ちゃんを説得してあんたから距離を置かせるのは」
「……………………」
諦めずに是非今後とも挑戦してもらいたいものだ。
負けるな雪花。頑張れ雪花。
その先に俺のラブコメが待っている。
「だからあんた。お姉ちゃんから手を引きなさい」
「了解し――」
「と言っても、納得しないだろうから」
食い気味に了承しようとしたら、何故か意味深に口角を上げている彼女に遮られてしまった。
普通に納得するんだが。
なんだったらお願いしたくらい。
「私があんたを鍛えるわ!」
「…………はぁ」
自信満々に雪花は口元を手で隠し、悪役令嬢がやるような高笑い。
俺は状況がよくわかっていないので曖昧な返事を返す。
「ふっふっふ、理解できてないわね?」
「理解できる奴いないと思うけど」
「簡単よ。お姉ちゃんがあんたから離れないのなら、あんたがお姉ちゃんに相応しい男になればいいの!」
逆転の発想ね! 私って天才かも!
彼女は自画自賛を積もらせて山にしていた。
もしかすると草壁家は遺伝子レベルで少々残念なのかもしれない。
というか菜々花に相応しい男ってなんだろう。やっぱり肉塊だろうか。ゾンビである雪花にかかれば俺を肉塊にするのは朝飯前だろうが、こちらは超常的な生物でないので間違いなくお陀仏である。
ちょっと前まで俺を親の敵のように恨んでいたとは思えない様子で、彼女は爛々と瞳を輝かせていた。本当に自分の考えに疑いを持っていないようだ。
「具体的には何をするの」
「え? ……ほら、なんかいい感じのことよ」
何も考えていないと見える。
ゾンビは思考能力が衰えているというのが一般的なイメージだが、雪花にも適用されるらしい。
勉強はできるとか噂を聞いたから、きっと姉のことになると螺子が緩むのだろう。
「――あっ! 思いついたわ!」
「それは素晴らしい。俺なんかには勿体ないから他の人を鍛えてあげよう」
「デートすればいいのよ! 男は女と付き合って磨かれるっていうじゃない」
言うのだろうか。今まで彼女ができたことがないのでわからない。その理論で行くと俺はゴツゴツとした打製石器のようなものなのだが、いつか磨製石器になれるときは来るのだろうか? 不安になってきた。
とりあえず初デートを目の前のゾンビで済ますのは忍びない。
ここはできる紳士として穏便な断りの文句を用意しよう。
「え、嫌なんだけど」
「何が?」
「デートするの」
「ふんっ」
殴られた。
グーで。
リミッターまで腐り落ちているのか彼女の拳は随分と重い。
下手するとゴリラレベルだ。ゴリラゾンビ。
バナナとかあげたら好感度を稼ぐことができるのかな。雪花の好感度を稼いでもまったく嬉しくないが。
「こんな美少女とデートできるのよ。ありがたがりなさい」
「えぇ……」
人間になってから出直してほしい。
「それに私も初デートなの。お互い様じゃない?」
「俺のデート経験がないみたいな言い方は止めてもらおうか」
「あるの?」
「…………………………」
ぐぅ。
「ぐぅの音も出ないじゃない。見栄を張るのは止めたほうがいいわよ」
どうして俺はこんなに詰められているのだろう。
昼休み。喧騒は遠く、踊り場に二人きり。
顔ぶれさえキャスティングし直せば、いかにもラブコメって感じの場面なのに。