なんとか雪花の猛追を避けて現在授業中。
中学までの数学は結構得意だったのだが、高校になって途端に理解できなくなった。まだ入口なのに。
「化野さん化野さん」
諦めて校庭で体育している生徒達を眺めていた俺に、菜々花が潜めた声をかけてくる。
進んで肉塊とお喋りする趣味はないので無視しようかな。
ほら、雪花との約束があるから。
俺は弱い男なのだ。許せ。
「何?」
「絶対に社会で使わないことなのに、どうして私達は使わない数学を学ばなければいけないのでしょう」
「うーん」
難しいな。
むしろ考えてはいけない類の話題じゃないだろうか。
黒板には「たすき掛け」だとか一生社会生活で使わなそうな文字。
確率とかデータの分布などは使うだろうけど、少なくとも一般的に生活するうえでは、たすき掛けとか三角関数とかユークリッドの互除法とかは使わないと思う。
いや、ユークリッドの互除法は使うかな……。
見た目によらず――見た目通りなのかもしれないが――彼女は数学が得意ではないようだ。
まぁ普段の言動からしてアホの子っぽさを醸し出していたし。
肉塊にすら勉強のできで負けていたら、人間として恥ずかしいような気がする。
「ところで話は変わるんだけどさ」
「はい」
「雪花ってわかりやすいよね」
「そうですね」
窓の向こうから思い切り睨みつけてくる雪花を二人一緒に眺める。
彼女は体育の授業をしているようで、普段見慣れてるいるボロボロの制服ではなく、ぎりぎり有機物と名乗れるか名乗れないかどうかという体育着を着ていた。
何故雪花は着るもの着るものがボロボロなんだろう。
趣味だろうか。
しかし姉であるところの菜々花に「お宅の妹さんボロ衣着る趣味があるんですか? 変わってますねぇ」など言えるはずもない。
この疑問は俺の胸の中で腐ることが決定した。
世界には知らないほうがいいこともあるのである。
数学を学ぶ理由と同じく。
「執念深すぎない?」
「えぇと、それくらい私が心配なのかなぁって」
「体力テスト中だよ。しかも五十メートル走」
雪花達がいる校庭のトラックからこの教室までは、およそ二百メートルほどあるだろうか。
それほど距離があっても視線を感じるのだから、もしかすると「人間ぶっ殺すぞ」みたいな意思が全力で込められているかもしれない。
明日の夜明けを見ることができなかったら、原因は九十パーセントの確率で草壁雪花だ。姉といい妹といい、俺に対して殺意高すぎである。
彼女は五十メートル走を現在進行形で走っているのにもかかわらず、首の角度を固定してこちらを睨みつけていた。
もはやゾンビとか関係なくホラー。
そのくせ同時に走っている誰よりも速い。
ゾンビは動きがトロいという常識に逆らっている。
「運動得意なんだね」
「はい。私は苦手なんですけど……運動神経持ってかれちゃったんです」
菜々花に関してはまず神経が通っているのかというところから話が始まる気がするが。
思わず彼女をガン見してしまう。
一丁前に羞恥心を持っているらしく赤くなった肉塊。
「その、そんなに見られると恥ずかしいです……」などと言っている。
このセリフを吐いてこんなに萌えないことってあるんだ。
まだまだ知らないことが世界にはあるんだなぁ、と深く頷いた。
「おい、化野曜。草壁菜々花」
「はい」
「は、はいっ」
「喋りすぎだ。お前達の会話が気になってこいつらが黒板を一人も見てやがらねぇ」
額に青筋を浮かべている数学教師が、ばんばんと黒板を叩く。
その言葉を聞いて周囲を見渡すと確かに視線の嵐。
流石に授業中に会話するのはアウトだったか。
「ひ、ひぇぇ…………」
菜々花は恥ずかしそうに肉塊の先端を俯かせる。
前から気になっていたのだが、あれは彼女における頭のようなものなのかな。
手足は体中から生えている触手で代用しているのだろう。
それ以外の器官が想像つかない。
考えれば考えるほど奇妙な生き物である。
胸ポケットに入っている妹も同じくらい変であるが。
このように時々睨みつけてくる雪花に手を振ったり、頭を使いすぎたと見える菜々花が謎の水蒸気を上げているところを眺めていたら、長く苦しい数学の授業は終わった。
解放を告げるチャイムがあまりにも素晴らしい調べに聞こえる。
中々に歴史を感じさせるスピーカーから流れているにも関わらず。
つまり酷い音割れをしている。
しかし一週間以上聞き続けてきたことで音割れに慣れてきた俺を含めたクラスメイト達は、何も疑問を抱かずに各自好きなことをし始めた。
先程の授業が終了したことで昼休みになったのだ。
俺も妹が作ったお弁当を鞄から取り出す。
「あれ、化野さんお弁当ですか?」
「うん」
「珍しいですね、いつもはパンとかなのに」
両親が忙しいため俺は滅多にお弁当を食べない。
いつもは彼女の言う通りパンやらを購入して食べている。
けれども妹が朝食のついでに作ってくれたので、ありがたく頂くことにしたのだ。
少なくとも家事という点においては闇に負けているのが恥ずかしい。
「まぁちょっとね」
妹の存在に気付かれるのは面白くないためサラっと流す。
チープな弁当箱を開けると思わず唾を飲み込んでしまうような絶景が広がっていた。男子高校生が好きそうな茶色尽くし。
しかし所々に栄養を意識した野菜が散りばめられて。
「わぁ、おいしそうですねっ」
もはや菜々花の見た目にも慣れた俺は、肉塊が目の前にいても肉を食べられるようになっていた。