鍵はかかっていなかった。
無用心な、と思ったのもつかの間、部屋には人影どころか生活感が全く無いことに気づく。一瞬、間違った部屋の扉を開けてしまったかと思ったくらいだ。
もともと物の少なかった空間はいまやガランとしていて、ベッドや棚などの家具はあるものの、シーツは剥がれ棚の中身も空っぽだった。外は初夏の空気なのに、ここだけ薄らと寒い。
(最後にここへ来てから、引っ越したような素振りなんてあったか……?)
「あらまぁ、ウェスタさんのお知り合い?」
「誰だ? ……いや、家主か」
「あらあらまぁまぁ、カシューン魔法師長様じゃないですか!」
「ウェスタはいつ引っ越した? どこへ行ったのか知っているだろうか」
「今朝方ですよ。急な話でね、いい住人だったから私も残念に思っていたところです。ウェスタさんの行き先は知っていますが……失礼だけど、あなたとウェスタさんのご関係は?」
「彼は俺の…………」
家主は優しげな風貌の女性だったが、俺の目的を探ろうとする視線は鋭かった。ウェスタの味方はこんなところにもいる。
ウェスタは国を出てディルフィーに向かうと言っていたらしい。今朝王宮を出たウェスタが、まさかその日のうちに借りている部屋を退去して国を出ようとするだなんて、想像を遥かに越えていた。
思い切りが良すぎる。でも、傷ついた心はそれくらいしないと耐えられなかったのかもしれない。
――昨日見たウェスタの身体は痛々しかった。あの路上で、ウェスタが
魔法で眠らせてから上着を脱がせると、至るところに赤く熱を持っている痣や青痣があった。背中側が特にひどい。肩には血が滲んでいて、傷口から伝わってくる悪意に殺意が湧いた。よく見れば額にも傷がついている。俺が見つけたとき地面に頭を擦りつけていた様子が思い起こされた。
俺とロディー、そしてクリュメもしばらく言葉が出なかった。どうして……どうして他人に対してこんなひどい行いができるのか。しかもきっかけになってしまったのが自分なんだから笑えない。
もともとはあのゲリューリオンとかいう子爵が原因だが、自分が怪我をするだけでウェスタに被害が及ぶなら、こんな地位なんて無用の長物だ。とにかくあの子爵だけは絶対に許さない。
ロディーは静かに治癒魔法をかけ始めた。怪我が全て治ったのを確認してすぐに服を着せ、そっと抱き上げてベッドへと運ぶ。確認と治癒のため仕方なく三人で見たが、そうでもなければウェスタの肌は誰にも見せたくなかった。
本当なら自分の治癒のあと同じベッドで寝たいくらいだったけど、それはロディーに止められた。俺の存在がウェスタの心にどんな影響を及ぼすかわからないという言い分もわかる。
でも、どうか傍にいさせてほしい。もう二度とこんなことはさせないから、俺から逃げないでくれ。
俺は家主に許可を得てその場所を借り、王宮から持ってきていた魔導具を取り出した。開発に成功したものの量産できず、魔法研究局だけで使用している通信具だ。
「クリュメ、協力してくれ。ウェスタがディルフィーに向かってしまった」
「はぁ? ディルフィー……!? まずいですよそれは」
「まずい?」
「えぇ。聞いていなかったんですか? アステリア王女が言っていたじゃないですか――」
◆
馬で街道を駆ける。乾いた空気で喉がひりつく。
乗馬は生家にいたころ習ったきりだったから、何日も続けての旅程はかなりこたえた。馬も自分も魔法でだましだまし進んで、ようやくディルフィーとの国境付近までやってきた。国境に設置された簡素な建物が見える。
乗合馬車で向かったウェスタよりは速いだろうが、準備にかかった時間のせいで追いつけなかったのが口惜しい。
アステリア王女が言うには、ディルフィーでは最近魔力のない者の拉致が密かな問題となっているらしい。
国境に無許可で設置された魔導具によって、入国する者の魔力量が測定される。そこで発見される魔力の全くない人が、首謀者に雇われた暴漢の手によって拐かされてしまうのだ。
この問題が
彼らは首謀者が獲物を献上することを良しとし、魔導具を下げ渡しているという。決して少なくない金も動いている……最低だな。
魔法師の権力はどの国でも一定以上あるため、大きな問題として取り上げ調査に乗り出すことが難しいのだ。
俺は馬を降りて建物へと入り、国境を守る兵士に通行証を見せた。ディルフィーとアクロッポリは友好国のため、必要以上に誰何されることはない。そのまま歩いて国境を抜けようとしたときだった。
パリン! と近くから音がして、なにかが壊れた気配がする。やはり、魔導具は近くにあったみたいだ。建物の向こう側から何人かの男たちが出てきたが、それに構わず壊れた測定器を見つけ出す。中身の魔力と仕掛けをさっと分析した。
ふん、大したことないな。分かるのは魔力があるかないか、最低限の情報ってことか。俺の魔力には耐えきれなかったみたいだが……奴らの目的を遂行するための道具としては、十分だ。
俺はそのまま建物をでて馬に騎乗しようとしたが、肩に手を掛けられた。三人いる男たちに囲まれているものの、魔法で引き倒し拘束するまではあっという間だった。
「おい。ここ数日で男をひとり拉致したな」
「は! なんのことだか……ッうぐぅ」
「茶髪の美人だ。お前たちの目的に合う人物なんて、そう頻繁に見つかるものじゃないだろう。絶対にお前は知っている。……白状するなら、命だけは助けてやる」
「ヒィィッ! や、やめてくれ……!」
腰元から取り出した短剣を首に当て容赦なく力を込めると、ツーっと血が伝う。その血を見せつけるようにしてやれば、青褪めた男は怯えてべらべらと喋りだした。
ウェスタは二日前にここを通過しようとして、こいつらに拉致され首謀者の元へ送り届けられたらしい。……聞いてよかった。魔導具の魔力を辿って王宮へ向かおうとしていたところだったのだ。
首謀者の名前は聞いたことがなかったが、貴族の女らしかった。まずは献上品を検分してから魔法師へ引き渡すらしい。売る、という方が正しいか。どいつもこいつも腐っている。
現時点でウェスタに傷をつけられることはないだろう。だが、それ以外はなにをされるのか。想像するだけで耐え難い。
とにかく、魔法師の元へ送り届けられる前に追いつかなければ。
あまり派手なことはするなと国王から伝言があったが、ウェスタを前にして自分がどんな行動をとるかはわからない。相手次第だ。
せめて免罪符が間に合えばいいが――