もう少し素直になってみよう。
アステリア王女との邂逅を経て、僕はそんな気持ちになっていた。
セレスとアステリアの結婚話がただの噂だったのなら、身分の違いを棚に上げれば、僕にも少しくらい脈があるはずだ。いや……あると、思いたい。
とにかく、セレスが僕のことをどう思っていようと、僕が気持ちを伝えないことには始まらないだろ?
思えばこれまで、家に連れ込んで乗っかったり、家に連れ帰って世話を焼いたことはあったけど、好意を伝えるようなことはしていなかった。
なにも言われてはないが、セレスのほうが食事に誘ってくれたりと好意的な態度を見せてくれた。……そう。嫌われてはいないと思うのだ。
行動を起こそうと決めてからの、この一週間は仕事中もそわそわしてしまった。通常であれば週に一度は必ずセレスが顔を見せる。
待っているときほどなかなか来ないのはどうしてなんだろう。じりじりと焦らされる気持ちに限界が来そうになっていた頃、ついにセレスが来院した。
「こん……にちは。奥へどうぞ」
「……あぁ。またあとで」
開院中に訪れている限り、セレスは患者さんだ。僕はぎこちなくも挨拶し、スタッフに伝えてからセレスを奥へ通した。
最近は怪我を装うこともない。無意味に他の患者さんを押しのけて治療室にこもることはさすがにしないだろうから、理由があると思っているんだけど……僕は内容を知らされていない。
いつも通りしばらくすると、セレスは帰っていった。受付の前を通ったとき、ちら、と一瞬目が合う。ちょっと強張った表情のような気がした。
最後が『あれ』だったもんなぁ。僕を泣かせたことを後ろめたく思っているはずだ。すごい謝ってたし。
僕もあの時のことを思い出して頬が熱くなった。なかなか倒錯的な行為のあと、子どもみたいに泣いちゃったしな……。いま思い返してもかなり恥ずかしい。
ふと周囲を見ればもう患者さんは誰もいない。もうすぐ閉院時間なので、僕は片付けを始めた。
セレスが来たから勤務終了後の片付けは免除されるだろうけど、勤務時間が終わるまではちゃんと仕事をしないと、裏でなにを言われるか分かったものじゃない。
外に出ると、雨が降っていた。初夏の重苦しい空気が肌に纏わりつく。セレスと会う日に天気が崩れるのは、初めてかな?
通りの向こう側、セレスがいつも待っている場所の方を見ると、傘も差さずにいつもどおり立っている。背中側にある建物の軒下に寄りかかって目を閉じていて、僕が出てきたことに気づいたのかパチっと目を開いた。雨が邪魔になってその美しい瞳の色までは見えない。
雨くらい、魔法を使えばなんとかなるのかもしれないが、僕は院に置いたままになっている自分の傘を取りに行こうと思った。僕だって濡れたくないし、一緒にひとつの傘に入るのも、ちょっと……いいな、と思ったのだ。
僕はいったん院内に戻り傘を手に持ったあと、改めて外に出てセレスの方へ向かおうとした。
みんなが仕事を終える夕方の時間帯、人通りは多い。馬車も通る道を横切るため、僕は左右を確認した。
そのとき。
「
大きな声が耳に届いた。男の叫び声と馬のいななき、ガタガタと走る馬車の音。
――それからの出来事は、一瞬のようにも、永遠のようにも感じた。
ハッと音の方向へ視線を向けた先にあったのは、馬の制御が効かなくなって暴走している馬車。そしてその数軒ほど先で、幼児が通りへと飛び出していた。
思わず「危ない!」と声を出すが自分のいる場所からは距離が開きすぎている。とっさに動けず見つめていると、黒いローブを翻らせた男が飛び出してきて子どもを庇った。
馬車は見えない壁にぶつかったかのように大きな音を立てて突然動きをとめ、人影は……どうなったのか見えない。
周囲は騒然とした。
「助け出せ! 治療院に、運べ!」
近くにいた人が叫び、幼児の母親と思われる人が駆け寄って子どもの名前を呼ぶ。馬車からは貴族らしき中年男性が慌てた様子で降りてきた。
僕は混乱して、セレスに声を掛けようともう一度通りの向こう側を見たけど、そこには野次馬が集まっているだけで彼は見当たらなかった。
「まさか……さっきの人……?」
厚い雲が太陽を完全に覆う。最悪の想像に頭がグラグラしてくる。確認しようと一歩一歩現場に近づくけど、霧雨がベールのように視界を覆い隠していて、まるで現実感がなかった。
喧騒の中から子どもの泣き声が聞こえる。人垣から小さな人影が走り出してきて、母親の腕に飛び込んだ。よかった、あの子は元気そうだ。
そしてもう一人は…………倒れていたのは、セレスだった。
「セレス! せれすっ。大丈夫!?」
僕の脚はやっと走ることを思い出したように、人を押しのけて駆け寄った。仰向けに寝かせられているセレスは、誰かのハンカチのような布を枕にしていた。その一部が血で真っ赤に染まっている。そんな……
呆然としていると、セレスが目を開けた。意識はあるみたいで少しだけほっとする。
「ウェスタ……俺は、大丈夫だ」
「でも、血が……痛いところは?」
「カシューン魔法師長、大丈夫ですか!?」
誰かが治療院から人を呼んだみたいだ。すぐにセレスは担架に乗せられ、運ばれていく。僕も付き添って行こうとしたけど、男のスタッフに押しのけられてしまった。
「役立たずは着いてくんな! 魔力なしのくせに!」
ドンと押されて衝撃を逃がせず、水たまりにバシャッと尻もちをつく。そんな。セレス、待って……
しかし治療スタッフの言葉を聞いていた周囲は、さっきとは別のざわめきに包まれていた。
「え! いまのカシューン魔法師長だったの? 大変!」
「魔力なしって、あいつが?」
「ほら、いつもあそこの治療院の受付にいるじゃない」
「カシューン魔法師長とよく会ってるよな? あの顔な……あいつが誑かしたんじゃないのか」
囲んでいる人たちからの遠慮ない視線と言葉が突き刺さる。
すると、先ほど馬車から降りてきた身なりの良い中年男性が話を聞いていたのか、「こいつのせいだ!」と言って石を投げつけてきた。
こぶし大の石は、僕の肩にゴツッと強く当たった。痛い。
僕はいまだショックによる混乱のさなかだった。なにが起きているのかわからない。
尻もちをついたまま周囲を見渡すものの、なぜか行き当たるのは敵意のこもった目、目、目。
なに? なんで……?
とにかくセレスのそばへ行きたかった。いくら国一番の魔法使いといえど、苦手分野はある。自分に治癒は使えないって言ってた。
王宮にいけば治癒の得意な魔法師がいるはずだけど、治療院の設備は十分だろうか。怪我の程度はわからなかった。スタッフに聞けばわかるかな……
僕は立ち上がって治療院に向かって人垣を抜けようとした。
ガッ、! ドサッ。
誰かの足につまずいて転んでしまう。いや、わざと引っかけられた?
周囲の人はまた僕から一定の距離を置き、言葉の暴力を繰り出しながら僕に石を投げつけ始めた。馬車の暴走のおかげで石畳はところどころ剥がれ、おあつらえ向きに小石はたくさん転がっている。
「っ、やめて……」
「魔力なしは魔法使い様に近づくな」
「疫病神が」
絞り出したような僕の声は誰にも届かなかった。
幸か不幸か、直接的に暴力を振るう勇気のあるものはいないようだ。しかし離れたところから手を下す民衆は、自分を正義だと信じて行動に酔っている。
初めに投げられた石ほど大きなものはないけれど、たまに鋭く当たる石もある。素肌に当たれば傷がつくであろう攻撃に、僕は蹲って頭を守ることしかできなかった。
(痛い。なんで。痛い、いたい、いたい!)
ひとの悪意が痛い。慣れているといつも自分に言い聞かせていたのは、自分を騙すためだった。悪意をぶつけられる度なんでもないふりをしてたけど、少しずつ傷ついて心はすり減っていた。
自分の存在が公然と否定されて改めて、自分は産んだことを後悔されるような人間で、親に捨てられるような人間だったことを思い出した。セレスと違うのは身分だけじゃない。人間としての価値が全く違うのだ。
目の前が絶望に染まって、ある考えが頭に浮かんだ。
もうこのまま……僕なんていなくなったほうがいい。