「お大事に〜……って、あれ……えぇ……!?」
「治療してくれ」
治療院には怪我や病気によって不安を抱えてやってくる人が多い。その不安を少しでも和らげるため、にこやかに受付の仕事をしていた僕は思わぬ来訪者に狼狽え顔を引きつらせた。
それもそのはず、やってきたのはセレス・カシューン……国一番の魔法使い様だ。狙ったわけでは決してないが、僕が筆おろしをしてやった相手でもある。
受付のカウンター越し、目の前に立った彼は久しぶりに見ても美しかった。黒い髪と紫眼のコントラストは、彼の無表情も相まって凍てつくような迫力がある。
「どこか怪我でもされたんでしょうか? というか、あなたほどの人なら自分で治せるんじゃ?」
「治癒は難しい。あと、自分には使えない。ウェスタ、」
「え……きゃ〜!! カシューン魔法師長様! どうしたんですか? ――えっ怪我を!? 大変、ささっ! 奥へどうぞ」
怪我をした部位は確認できなかったが、治療スタッフによってカシューン魔法師長はすぐに連れて行かれてしまった。奥の治療室はきゃーきゃー大騒ぎだ。顔色は悪くなかったし、まぁ大丈夫なんだろう。
そもそも王宮には治癒術に特化した専属の魔法師がいるはずだし、わざわざこんなところに来て魔導具を使った治療を受けるなんてかなり不自然だ。というか――
(僕の名前、覚えてたんだ……)
びっくりした。何か言おうとしてた?
あれからもうひと月は経っているし、一晩会っただけの男のことなんてとっくに忘れてしまっていると思っていた。あれが酒の勢いだったとすれば、逆に記憶から抹消しようとしてもおかしくないくらいだ。
治療の順番待ちをしていた人たちも、有名人の登場にざわめいている。順番を抜かされた! という人が出てくるかと思ったが、尊敬すべき魔法使い様相手だとそうはならないらしい。
どっちかというとみんなお喋りに忙しそうだ。あちこちから噂話が聞こえてくる。
ふむふむ。結婚の準備も大詰めだとか、魔法研究局は近々大きな発表をするとか、王様はなぜか胃薬が手放せないらしいとか……ストレスだろうか。国の頂点に立つ人は大変だなぁ。
四半刻ほど経って、カシューン魔法師長は治療室から出てきた。通常ならここから僕が治療費の計算をするのだが、スタッフの方を見たら首を振られた。特に支払いは必要ないようだ。
「また来る」
「いつでも来てくださいね! そんな受付なんて通さなくてもいいですから。どうせ何もできない子なので」
カシューン魔法師長は僕の方を見て言った気がしたけど、スタッフが横から声をかける。貶されてもいつものことだから気にしないけど、彼の眉間にはわずかに皺が寄ったように見えた。
……早く帰ってほしい。僕が職場のみんなから馬鹿にされていることを彼に知られるのは……なぜか恥ずかしかった。
願いが通じたのか、カシューン魔法師長はそれ以上なにも言うことなく去っていった。スタッフには、次に彼が来たら話しかけることなく奥へ通すよう語気を荒げて指示される。ま、そんなものだよな。
驚いたのは、その日の仕事を終えて治療院を出たときだった。
「えっ!?」
見覚えのある黒のローブを着たカシューン魔法師長が立っている。まるで、誰かを待っていたみたいだ。
「どうしたんですか? また怪我を?」
「いや、待っていた。お前を」
何を言っているのかわからない。言葉は耳に届いたが、脳がその意味を理解するのに時間を要している。え、……なんて?
僕は混乱のままカシューン魔法師長に連れられ、小綺麗な食堂へと到着した。どうやら一緒に食事をする流れらしい。
――もしかして、この前のこと口止めとかされるのかなぁ。口止めなんてされなくても誰にも言わないし、言ったところで信じてもらえないのがオチだと思うけど。
僕はだんだんと憶測だけで考えるのが面倒くさくなって、逆に落ち着いてきた。
初めて来たこの食堂は普段来ないエリアにあって、隠れ家みたいな雰囲気だ。意外に家庭的な感じで、僕みたいな庶民でも緊張せず入ることができたから安心する。
笑顔の女将さんに案内された部屋は個室になっていて、人目を気にしなくていいし密談にもぴったりだ。
向かい側に座ったカシューン魔法師長は、目を伏せて真剣にメニューを見ていた。まつ毛までもが漆黒に艶めいている。
好き嫌いがないか尋ねられたけれど、ないと答えてお任せした。一応、目上の相手だし。
カシューン魔法師長が女将さんと小声で会話して注文を終えたあと、僕はこの会合の目的を単刀直入に聞いてみることにした。
「カシューン魔法師長は……」
「セレス、だ。そう呼ぶように言っただろう」
「え゛」
早々に腰を折られてしまった。
確かにあの夜、同じように言われたことを思い出す。
『カシューン魔法師長……ですよね?』
『セレス、だ。そう呼んでくれ』
この人、めちゃくちゃ覚えてんじゃん……!
濃い紫の瞳は、さぁ呼べ、と言わんばかりに見つめてくる。どうせ誰も見ていないし聞いていないし、僕はなんだかどうでもよくなって、あの日のとおり楽な呼び方をさせてもらうことにした。
「セレスは、わざわざ僕に会いに来たってこと? どうして?」
「…………」
敬称も無くいきなりタメ口をきいて、さすがに怒ったかと思った。確か28歳だったかな? 普通に歳上だもん。
けれど彼は、目をぎゅっと閉じて一瞬の間を置いたあと、頷いた。
「ちゃんと話してみたいと思った。あの日は、かなり酒を飲んでいたから……その、身体は大丈夫だっただろうか」
「おまたせしました〜! 当店自慢のハーブリキュールのサワー、季節野菜のピクルスで〜す!」
「…………」
気の利く感じの女将さんだと思っていたが、ちょっと違ったみたいだ。
生娘みたいに身体の心配をされているところへの闖入者。思わず僕は顔が熱くなった。
カシューン魔法師長……じゃない。セレスもさすがに恥ずかしかったようで、僕らは無言で結託し、注文した料理がすべて届くまで黙って食事を進めることにした。
初めて飲んだサワーは、驚くことに僕がいつも魔力を取り入れるために飲んでいるハーブティーと同じハーブを使用していた。爽やかな香りが鼻に抜けて、かなり美味しい。
こんな飲み方があったのかぁ……目から鱗だ。
そのあとに届いた料理も、魔力を多く含む野菜や鶏肉を使用しているものばかりで、偶然なのか気を遣われているのか判断がつかなかった。
言った覚えはないけど、彼ほどの魔法使いなら相手に魔力があるかどうかくらい簡単にわかるのかもしれない。
料理は、いつも自分で調理したり店で食べているものより丁寧な下ごしらえと上品な味付けがされていて、初めて食べるものみたいに美味しくて新鮮な心地だった。
「わあ! これも、すごく美味しー……」
「よかった」
純粋に料理を楽しんでしまった。僕が美味しいというと、セレスの口元も少しだけ緩む。分かりづらいものの、微笑んでいるみたいだ。
あとはごゆっくり、という女将さんの言葉を合図に、僕はフォークを置いた。
「セレス。今さらだけど、僕は見てのとおり元気いっぱいだよ。その……あのことは誰にも言うつもりがないから、安心して」
「よかった……。その、夢中になって無体を働いてしまったかと、心配していたんだ」
「たくさんしたもんねぇー、ふふっ」
からかうように笑うと、セレスはぐ、と耐えるような表情を見せた。セックスに関しては僕が先輩だしな。
それにしても、話してみるとセレスは孤高の魔法使いという感じはあまりなく、普通の青年だ。表情はかなり固いが、僕のことを心配してくれたりと優しい一面もある。
やはり一度肌を許した相手には素、みたいなものが出るんだろうか。そう考えると僕の気分はみるみるうちに上昇した。
店を出るとき、僕は思い切って気になっていたことを聞いてみた。
「噂で、結婚するかもって聞いたけど……ほんと?」
「――! あ、あぁ……俺はそのつもりだ」
「そう……なんだ。おめでとう。――それと、今日はありがとうございます。とっても美味しかった」
そのつもりなんだ……。一瞬淡く期待してしまった気持ちが、シャボン玉みたいにパチンと割れて消える。ほんと、自分が馬鹿みたいだ。
セレスはほんのり頬を赤くしていて、こんな素直な一面を隠し持っている人ならお姫様とも相思相愛なんだろうなと納得する。
それでも僕は落ち込む感情を抑えきれず、他人行儀な態度をとってしまった。
「気に入ってもらえたならよかった。その……またこんな風に誘ってもいいだろうか」
「は……? その、気にしなくても僕は誰にも言いませんから」
「そうじゃない。ウェスタのことをもっと知りたいんだ」
この流れで、なに口説くようなこと言ってるんだろう。二心を抱くような人に見えないし、まさか婚姻前に練習台として求められているのだろうか。
僕はかなりむっとして、けれどはっきり断ることもできず、曖昧な態度でその日は別れた。
――まさかセレスが本当に、定期的に僕を誘ってくるようになるなんて、このときはまだ知る由もなかった。