「カシューン魔法師長、ついに結婚するらしいぜ」
「え! あの孤高の魔法使いが!?」
後ろの席で交わされるその会話を聞いて、僕は手に持っていたハーブティーのカップをガシャン! とソーサーの上に取り落とした。
ちょっとハーブティーが零れてしまったし、大きな音に店員の視線を感じたがそれどころではない。
さっきの噂話をしていた客の方へ耳を向け、再び意識を傾ける。
カシューン魔法師長、孤高の魔法使いとさまざまな呼び名があるその人は、この国、アクロッポリの王宮魔法研究局局長を務めている男だ。魔法研究局で働いているというだけでエリートだから、その局長となれば王都ではけっこう有名である。
この世界では、ほとんどの人が多かれ少なかれ魔力を持っている。
しかしながら実際に魔法を使うには、膨大な魔力と才能が必要という。魔力の多い子どもは国の特別機関へ招聘され教育を受け、その素質を試される。魔法を使えるようになる子どもはその中でもほんのひと握りらしいが、認められれば栄誉ある将来を約束されたも同然だ。
魔法 を使える人は本当にごく一部だからこそ、決まった呼び方はないけれど魔法使いとか魔法師とか、尊敬の念を込めて呼ばれている。
カシューン魔法師長は美しい容姿を持つものの寡黙で人と馴れ合わず、浮いた噂なんて聞いたことがないというのが王都民の認識だった。
聞こえてくる話によると、隣国ディルフィーの国王がアクロッポリへ親善訪問の際に娘を伴ってきており、その姫君がカシューン魔法師長を見て恋に落ちてしまったらしい。
娘に甘い父親は、アクロッポリの国王へと輿入れの打診をしているようだ。両国の力関係に大きな差はないが、隣国と婚姻による関係強化を図ることはこの国にとって大きなメリットに違いない。
必ずではないらしいけど、魔力の多さは遺伝する。カシューン魔法師長は20代後半だったはずだ。国一番の魔力を持つと言われる男に早く結婚させて、より優秀な子孫を多く残してほしいと、国王やその周囲が思っていることも想像に難くない。
つまり話を聞いた人はみんな、半強制的にふたりの婚姻が結ばれるのではないかと確信を持って信じているのだった。しかし、僕にとっては――にわかには信じがたい。
「なんか信じられないんだけど……え、ほんと?」
ぽかんとした表情をからかうように、春先の少し冷たい風がぴゅうっとテラス席を吹き抜けて僕の頬をくすぐった。
なぜ僕がこんなにも過剰反応してしまったのかというと……
――つい十日ほど前、かの魔法使い様と僕はセックスしたのだ。
もっと詳しく言わせてもらうと、彼の“童貞”を僕がノリで奪ってしまった。
別に無理やり奪おうと思ってやったわけじゃないし、僕だって童貞食いが好きなビッチというわけでもない。
ただほんのちょっと尻が軽くて、酒場で偶然会った男を誘ってみたらたまたまその相手がカシューン魔法師長で、たまたま彼がピカピカの童貞だっただけ……である。
セレス・カシューン……カシューン魔法師長は、すらりと伸びた長身に新月の夜を閉じ込めたような色の短髪、凛と真っ直ぐな眉に意思の強そうなアメシストの瞳を持つ。冷然とした印象の顔ではあるがどこをとっても美しい。
魔法使いが仕事で街に出ていることは時々あるし、絵姿も出回っているから王都民はみんな彼の容姿を知っている。
誘った男を部屋に連れ込んで、フード付きのローブを落としたときの驚きと言ったらなかった。いい雰囲気だったのも構わず、僕は文字どおり目を丸くして口をポカンと開け、しばらく時が止まったかのようにフリーズした。
美しく孤高の存在である彼の誰も知らない一面を、僕だけが知っているという優越感。
魔法使いとして国の頂点にいる彼の、初めての男という特別感。
周囲から劣っていると馬鹿にされてきた僕にとって、たとえそれがお遊びで意味のない行為だったとしても、初めて手にした宝物のような思い出だった。
だがその宝物は、もう光を失ってしまったようだ。結局僕の思い上がりで、最初から彼の特別になんてなれていなかったのだろう。
(あんなに盛り上がったくせにさー……もう忘れちゃったのかな。まぁ、すごい酔っ払ってたし)
彼の初体験は僕の流れるようなリードによって滞りなく完遂した。
久しぶりの荒削りなセックスに僕も興奮して乱れてしまった自覚はあるが、体の相性が良かったから彼にもかなりご満足いただけたように思う。三回もヤッておいて、満足してないとか言わないよな?
僕は見た目もそこそこ良い。肩上まで伸ばした紅茶色の髪はさらさらだし、オリーブグリーンの瞳だって食べちゃいたいほど綺麗だと口説かれたこともある。目鼻立ちはちょっと薄いけど、身体が小柄なぶん儚げな雰囲気がいい感じに出ているはずだ。
自分の容姿とテクニックを最大限に活かした一夜の関係は納得ずくのことだった。でも彼の人生に何かしらの爪痕を残せたと思っていたから、直後に結婚の話なんて寝耳に水で……地味にショックだった。
隣国の姫君は、きっと彼の隣に立つに相応しい豊富な魔力を持っているんだろう。王族は基本的に魔力が多いらしい。
凍てついた表情のカシューン魔法師長だって、惚れた女には優しく微笑んだりするのかもしれない。夜はきっと、僕が一度見たあのアメシストの瞳を蕩けさせて……いや、これ以上の想像はやめよう。
考え込んでいたせいで仕事に戻るのが遅れそうだ。
「ちょっとウェスタ! どこほっつき歩いてたのよ。
「ほんとだよな。普通の人の倍は働いてもらわないと、いる意味ないってのに……」
「す、すみません……」
ウェスタというのは僕の名前だ。平民なので姓はない。
職場は国立の治療院で、受付や雑用をして働いている。治療に携わることはできないし、別に自ら望んで治療院で働き始めた訳ではない。ただ、働き口がここしかなかったから勤めているだけだ。
なぜなら、僕には魔力が
この国で魔力を持たないというのは、かなり可哀想な目で見られる。というか、劣等種として馬鹿にされることが多い。ノンマジなどという差別用語が存在するくらいだ。
人々の生活には魔導具が欠かせない。魔法を使えなくても料理をするために火を熾したり水を出したり、空気を循環させるために風を起こしたり……そういったことが簡単にできるよう、昔から少しずつ魔法使い様が魔力を原動力とした魔導具を開発して広めてくれているのだ。
基本的に誰でも使えるよう、魔導具は少ない魔力でも動くようになっている。しかし、魔力が無い僕のような人間にはそれさえも使えないのだ。
お金のある貴族なんかは、魔力を溜めておける宝石や鉱石を購入して魔導具使用の補助に使ったりするが、当然平民だとそうはいかない。
魔力の含まれる食べ物や飲み物を、日常的に摂取して体内に取り込むのが一般的だ。それでも飲食で得られる魔力はごくわずかな量で、体内に溜めおくこともできない。生活に必要な魔導具を使うのでやっと、というのが実情だった。
治療用の魔道具など特殊な性能を持つものは、日常生活に使用するものより必要な魔力量が多い。家の中にいる分はいいけれど、外に出て働くとなると圧倒的に魔力が足りないのだ。
魔力の含まれる食べ物や飲み物は価格的に高いものではないのだが、魔力なしはとにかく生きるのに苦労する。必然的にそればかりを摂取しなければならないし、ろくな仕事にも就けない。
国の勧告で魔力の持たない人を不当に就業拒否してはならないとされているから国立の治療院で働かせてもらうことができたが、永遠に下っ端で給料が上がることもないだろう。
そんな未来しかないから、魔力を持たずに生まれてきた子どもは親に捨てられることが多い。僕も孤児院で育った。
孤児院は温かい人ばかりで、魔力無しが生まれたことを嘆くような親元で育つよりは幸せだったように思う。ただ、成人して働き始めてからは否応もなく現実の冷たい視線にさらされた。
だけど、それももう慣れたものだ。
24歳の僕は、休みの日に少ない友人と遊んだり、それなりの外見を活かして男を引っかけて遊ぶくらいには普通の青年だ。
自分のことを可哀想だなんて思ってない。仕事が嫌いなのも、普通ったら普通なのだ。