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番外編 湯河原にて

 湯河原ゆがわらに着いたのは午後一時だった。本来は宿の送迎そうげいシャトルの時間に合わせて駅に到着とうちゃくする予定だったが、東京とうきょう駅の混雑が予想以上であったため昼食をキャンセルし出発を前倒しにしたのだ。おかげで三時間ほどの余裕ができたのだが、予定外であったためこの土地の観光を調べられていない。無知むちなわたしはひとまず観光案内所に向かった。

 観光案内所のスタッフは駅近くの神社じんじゃをいくつか、それからコインロッカーの場所を教えてくれた。わたしの荷物の多さを見てだろう、ありがたいことだ。しかし小銭こぜにがないと言えば、「特別ですよ」と笑って、両替りょうがえをしてくれた。本当にありがたい。わたしは駅のロッカーに荷物を預け、手ぶらになった。

 駅で手湯てゆを楽しんでから、紹介された神社に向かった。山々を横目に駅前の商店街通りを抜けた先にあるその神社では、近所に住んでいる方々だろうか、ちょうど一家族ひとかぞく参拝さんぱいをしているところだった。彼らが写真を撮るのに苦労しているようだったので、声をかけ、家族写真を撮った。写真の中心に立っていた赤子を抱いている女性に、これはなんの集まりなのかと聞くと、初宮参はつみやまいりだと教えてくれた。子どもが無事に生まれたことを土地の神様に報告し成長を祈願きがんするものだそうだ。日本にはわたしの知らない文化がまだまだ多くある。わたしもこの土地の神様にこれからの二泊三日の滞在たいざいの報告と、滞在中に論文を書き終えられるように祈願しておいた。

 神社を後にし、駅前に戻る。預けた荷物を引き取って近くの喫茶店きっさてんあたりで執筆しっぴつを始めるのが『正解』だろう。しかし、どうしてもまだ書く気持ちになれなかったわたしは、駅正面にある長い階段を下り、さらに街を散策さんさくすることにした。歩道から車道まで横断するグレーチング(溝蓋みぞぶた)の下からザアザアと流水音が聞こえる。グレーチングの上に立ってみるとすこしあたたかい。この下を温泉が流れているのかと新鮮しんせんに驚いた。こんなにも生活の中に火山が根付いているのだ。さすが、世界の活火山の一割をゆうする日本である。わたしは温泉の流れていく音を楽しみながら、街並みを撮ったり、菓子メーカーの工場を見学したり、土産屋をのぞいたりしてから、駅前に戻った。

 送迎シャトルの待ち合わせ場所は駅前ロータリーであったが、ロータリーにはひっきりなしに様々な車がやってくるため、ロータリー内には必ずシャトルを停められるような定位置はないようだった。とはいえ日本で送迎シャトルに置いていかれたことはないので、あまり心配はせず、ベンチに腰掛こしかけてのんびりとシャトルを待った。時間通りに宿の名前が書かれているシャトルがロータリーに現れ、予想通りシャトルは停められる場所を探し、ロータリー内をぐるぐると彷徨さまよう。ようやくスペースを見つけたシャトルが停車したことを確認してから、のんびりと立ち上がり、そちらに向かった。

 運転手はわたしの名前を確認すると、すぐにシャトルを発進させた。送迎はわたし一人だったらしい。手間をかけたことをびると「イエイエ」と彼は笑った。運転席の彼から滞在理由を聞かれ、締め切り間際の論文が書き終わっていないことと、執筆活動にちょうどいい宿と聞いたことを告げると、運転手はうれしそうに宿のサービスを紹介してくれた。執筆に役立つレンタル品や、コーヒー、紅茶、夜食のサービス、……ありがたい限りだが、代わりに論文を書いてくれるサービスはもちろんなかった。


「集中できることをお約束いたします。きっと書き終わりますよ」


 シャトルはひたすら山道を登っていく。この続く山道から『書き終わるまでは逃げられない』といった圧力を感じる。もちろんそんなはずはない。つまりこれは『面倒くさい』、『書きたくない』といったわたしの深層心理からくる圧力だ。わたしは彼に笑みを返しつつも、心の中でため息をいた。

 今更言い訳のように思えるだろうが、論文を書くことは嫌いではない。事実、今回の論文も一通り書き終わってはいるのだ。しかし、ここから推敲すいこうしていくことは億劫おっくうで仕方がない。

 推敲が絶対に必要な作業だと分かっているし、しないことには自分の価値を下げることになるとも分かっているし、まず始めないことにはどうにもならないことまで分かっている。なのに、面倒くさいのだ。そもそも今回の論文は始まりから気が重いものであった。いや、……ここで理由を詳細に語るのはやめておこう。とにかくわたしのモチベーションはとてつもなく低かったのだ。

 だからつい友人に愚痴ぐちをこぼしてしまったのは先月のことだ。友人はなぐさめの言葉はくれず、代わりに『缶詰かんづめ』という日本文化を教えてくれた。彼いわく、文豪ぶんごうと呼ばれる小説家は、締め切りが近くなると温泉街の宿に引きこもり、小説を書く風習ふうしゅうがあるらしい。


「あんたもやってみたらどうだ。旅先なら気持ちが変わるかもしれないだろう?」


 現実逃避もはなはだしいとそのときは笑ったが、タイミングが良いのか悪いのか、論文の締め切り一週間前に東京での講演が入ったため日本に行くことになった。さらに講演後の三日間、スケジュールが空いていた。こうなれば、ごうっては郷に従えという先人せんじんの教えにのっとるしかない。それで、わたしも『缶詰』をすることにしたのである(もちろん友人に報告すると、声を上げて笑われた)。

 そういったこれまでの経緯けいいを思い返している内にシャトルは目的地である宿に着いていた。

 入口からジャパン・・・・らしい外観をした宿である。折角なので、観光客らしく写真を撮らせてもらった。それからスマートフォンでのチェックインを行った。食事の時間や食べる場所、チェックアウトの送迎について、ウェブ上から希望を出す形のチェックインである。一通りの希望を出してから、部屋のかぎ浴衣ゆかたを受け取り、部屋に向かった。

 部屋は八じょうほどの和室であり、ビーズクッションが二つも置かれていた。コートを脱ぎ、暖房をつけ、浴衣に着替え、早速クッションに腰掛けてみた。身体が沈み、立ち上がることさえ嫌になるフィット感である。そのまま眠ってしまいそうになったところで慌てて立ち上がり、そのクッションを全て押し入れに仕舞った。眠るわけにはいかないのだ。

 代わりに押し入れにはいっていた座布団と座椅子を取り出し、書き物机にラップトップを置く。しかし、まだラップトップを開く気にはなれないので、車中、運転手から教わったレンタルサービスを利用することにした。スタンドライト、ブックスタンド、タイプライター式キーボード、Bluetoothスピーカー、ポットでのコーヒーサービス……目についたものを片っ端からレンタルするついでに、バニラのこうを買い、部屋に戻る。それらを書き物机にセッティングしたところで、スタッフが夕食を部屋まで運んできてくれた。そういえば初日の夕食は部屋でいただくとチェックインで希望を出していたのである。お礼を述べて夕食を受け取る。

 食事は温かい内に頂くべきだ。なので、早速机の上のセッティングをすべて片した。ラップトップを机の上からどかしたとき、頭の中で友人が『おいおい、書かなくていい理由を探している間は一文字だって書けないんだぜ』と笑ったが、もちろん無視して夕食に舌鼓したつづみを打った。

 アジフライを中心とした夕食は実に豪華ごうかで、しっかりと胃袋はふくれた。ウィスキーを飲みたい気持ちになったが、さすがにそれをし始めたら、最早どうにもならない。渋々セッティングし直したが、今度は腹がいっぱい過ぎる・・・ような気がしてきた。では腹ごなしに温泉につかるべきだろう。わたしはいそいそと温泉に向かった。

 時間の問題か、温泉は貸し切りだった。温泉の入り方のレクチャーが記載されたポスターがあったので、その通りに身体を洗ってから、湯につかる。壁に描かれた満開のさくら富士山ふじさんがまたジャパン・・・・らしく写真を撮りたくなったが、さすがにここを撮るほどの異邦人いほうじんにはなれない。目に焼き付けておくことにした。

 温泉につかっていると、アレ、コレ、ソレ、ドレ、と言い訳が体の外に溶けていく。シャワーを浴びる頃には、思考はすっかりクリアになっていた。浴衣を着て部屋に戻り、セッティングされた机の前に腰掛け、バニラの香をき、深く息を吸う。その香りは嫌味いやみなほどに友人の香水に似ていて、いよいよ脳内で明確な姿となった友人が『で、やるんだろ?』と笑う。やるさ、やればいいのだろう、とわたしはようやく、ラップトップを開いた。


「朝食のお時間ですよ」


 という、スタッフの声掛けとノックの音で、徹夜てつやしてしまったことに気が付く。

 ノックに応えるために立ち上がると、腰が固まっていた。よろめきながらドアを開け、スタッフに礼を言い、時間を聞く。すでに朝の八時を過ぎていた。すぐに食事会場に向かうことをげ、急ぎ身支度を済ませた。

 朝食はアジの干物の素揚げと、湯葉ゆばの入った汁物を中心とした定食であった。スタッフから、湯葉を楽しんだ後に卵と米をいれて雑炊ぞうすいにすることをすすめられたので、その通りにしてみると徹夜明けの胃にも優しい味わいをしていた。一匙ひとさじ、一匙味わいつつ、辺りを見渡す。食事会場には朝日が差し込み、太陽のあたたかさが心に染みる。また、部屋と同様にビーズクッションが置かれており、面白そうな本ばかり陳列した本棚もあった。締め切りさえなければ本棚から本を選んで、コーヒーやウイスキーを楽しみながら、日がな一日過ごしたくなる空間だ。しかし締め切りは依然いぜんとしてあるのである。

 食事を終え、スタッフからタオルと浴衣の替えを受け取り、部屋に戻る。徹夜したおかげで論文の推敲は一通り終わっていた。あとは再確認をするだけだ。データをスマートフォンに移し、押し入れからビーズクッションを引っ張り出す。そしてクッションに沈みながら、スマートフォン上で再確認を始めると、ある程度予想をしていた通り、気が付いたら眠っていた。


「ドクター、昼食のお時間ですよ」


 再びのノック音で、目を覚ます。

 毎回呼んできてもらって申し訳ないとスタッフに謝ると、スタッフは笑顔で「ちなみに夕食は六時ですよ」とわたしがチェックインで設定した時間を教えてくれた。次は忘れないようにするよと謝ると、「構いませんよ」とスタッフは笑ってくれた。こういった日本のおもてなしの心意気に、わたしはこれまでも、これからも、数えきれないほど助けられることになるだろう。

 昼食は揚げ鶏であった。食べ終えてから三食連続揚げ物であることに気が付いたが、ずっと頭を使っていたためか、さほど気にならなかった。体重の変動に構っていられるのであれば、缶詰になるなどという現実逃避はそもそも行わないのだ。

 部屋に戻ったらまた眠るだろうと思い、食事会場でもある喫茶スペースのソファーに腰掛け、論文の確認を行った。いくつかの誤字脱字ごじだつじ訂正ていせいと、章の入れ替え、グラフの挿入そうにゅうなどを行い、最終確認を終え、秘書に論文を送付できたのは午後五時だった。

 想定よりもずっと早く論文が書きあがったことに、わたしは心底安堵あんどした。

 立ち上がり伸びをすると、腰から肩までの関節が音を鳴らした。これはまずいと、替えの浴衣を持って温泉に向かう。また時間の問題か、貸し切りであった。

 体をよく洗ってから湯につかる。全身が溶けていくようだ。しばらく無心になって温泉に癒やされていたが、ふと、宿に来てから他の客に会っていないことに気が付いた。そして、今日がハロウィンであることも思い出した。

 ハロウィンは温泉街ではなく繁華街はんかがいで仮装をする人が多いだろう。事実、東京駅は混雑していた。つまり、どうやら今、この宿はわたしの貸し切りである。申し訳ない気持ちになりつつ、湯から上がった。

 浴衣を替えて、夕食会場に向かう。夕食が用意されている席は一席だけであったし、部屋番号すら置かれていなかった。いよいよわたしは本当に申し訳なくなった。が、しかしできることはない。わたし一人でこの宿を満喫まんきつしつくそうと気持ちを切り替え、席に着く。夕食は手巻き寿司であった。折角なので、日本酒も頼む。スタッフに聞かれる前に、執筆は終わったと告げると、スタッフは微笑んでくれた。その笑顔に裏はなさそうに思えたので、わたしは心置きなく勝利の美酒びしゅを楽しんだ。

 論文が終わったからだろう、これまでいただいた三食よりもずっと、味が頭に伝わってきた。魚から染み出す脂、ローストビーフの甘味、それらを包み込む酒のまろやかさ。昨日我慢した分もねて、平時へいじよりも多めにアルコールを摂取せっしゅしてから、スタッフに喫茶スペースに置かれている本は借りていいのかを尋ねる。許可をもらってから、一冊、手に取る。

 日本語は日常会話はできるつもりだが、読み書きには不安が残る。ひらがなとカタカナだけであれば音はわかるが、漢字が混じると難しいのだ。ルビがあるものはないかと思いながら手に取った本は、日本の古語を現代語で説明している辞典じてんであった。古語にはルビがあるので、音はわかる。挿絵さしえも入っているので、なんとなく意味もわかる。これなら読めそうだと本の名前を写真におさめ、部屋に戻った。

 布団をき、横になってから、先ほどの本を電子書籍で購入し、古語の音だけ読み進める。意味は分からずとも、歌のような調しらべだけで十二分に面白い。しかし、やはり気が付いたら眠っていた。夢の舞台は京都きょうと、友人の家であった。いつものように縁側えんがわに腰掛けていた友人がわたしを見ると『秋だから、金木犀きんもくせいの匂いがするだろう』と笑う。確かに特徴的な花の匂いがする。いい匂いだね、と当たりさわりのないことを言うわたしに、友人は『桂花露香けいかつゆかぐわし』と夢のような響きの言葉を呟く。どういう意味かと聞けば、『明日、俺に聞けよ。ここはあんたの夢なんだから、あんたの知識以上のことは出てこないぜ、ドクター』と彼は笑った。

 そこで目を覚ましたので、朝から本当に不愉快ふゆかいな気持ちになった。

 友人に電話をかけて夢の内容を説明すると、寝起きの彼は不服ふふくそうに「勝手に夢に出しておいて勝手に機嫌きげんを悪くするのはやめてくれないか」と真っ当なことを言った。それすら不愉快だったので、早く意味を教えてくれと頼むと「そうさなぁ……マア、俺はその言葉で真っ先に思い出すのはあんただよ」と彼は電話を切った。意味が分からなかったので、渋々しぶしぶ、昨日買った本で調べることにした。一つ一つの漢字を調べて、一つ一つ翻訳ほんやくし、なんとか意味を理解したとき、すこし恥ずかしく、とても嬉しくなった。

 朝食をとり、チェックアウトを終えて、行きと同じように送迎シャトルに乗る。

 行きと同じ運転手に進捗しんちょくを聞かれて、とどこおりなく終わったことと面白い本を見つけたから購入したことを告げる。運転手は行きと同じように嬉しそうに、わたしが買った本について、彼なりの感想を共有してくれた。おかげでさらに読みたくなったので、早速、帰りの電車の中でも読み進めた。

 一つの単語を調べるのに十分はかかる。日本語がスムーズに読めるようになればきっと楽であろう。けれど調べながら読むことはさほど苦ではなかった。日本語は努力をしながら読むに値するほど美しく、興味深い言語だ。

 わたしは『桂花露香』にマーカーを引き、写真を撮る。

 友人にこのように思われていることは、ほこっていいことだろう。自慢じまんも兼ねて、パートナーに写真をメールで送った。わたしよりも日本語が不得手なパートナーからは『きれいな字ね』と返事が来た。その返事も、とても嬉しかった。

 今回の日本滞在、観光らしい観光こそあまりできなかったが、存分に満足のいくものであった。


「ドクター、初めての缶詰はいかがでしたか?」


 いつも通り空港まで迎えに来てくれた秘書は、わたしの返事がわかっているのか、すでに笑っていた。そんな秘書の期待に応えるため、こんな胃が痛くなる旅はいやだよ、日本の文豪は変人だと返せば、やはり秘書は満足そうに笑った。

 秘書が論文は無事に雑誌社に受理されたことを教えてくれたので、覚えたばかりの美しい古語を自分の座右ざゆうめいにしようか考えていることをお返しに教えると「努力家のドクターにはぴったりかもしれませんけれど……、どんどん日本かぶれしていきますね、ドクター」と無垢むくな笑顔を浮かべた。さすがのわたしも注意しなくてはいけないと思い、秘書の額をこづいてから、家路いえじいた。 

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