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番外編 ウィーンにて



 ウィーンに着いたのは午後三時だった。飛行機がヨーロッパ上空に入りだした辺りから片鱗へんりんを感じてはいたが、空港から外に出た瞬間にうめいいてしまうほどの寒さだ。タクシーの運転手に話を聞けば、もちろん気温は氷点下ではあるが例年よりはましらしい。運転手は続けて、市庁舎前しちょうしゃまえがスケートリンクになっていることや、お薦めのクリスマスマーケット、それから今年のオペラの当たり外れなどを教えてくれた。だが今はそういった観光情報よりもあたたかいコートが必要だった。ホテルの前にショッピングストリートに寄るように頼むと「あなたは帽子を買わなくっちゃ。寒いときはまず頭を隠すのよ」と彼女は笑った。郷に入っては郷に従えという先人の教えもあるし、ショッピングストリートでは毛糸の帽子を購入した。たしかにそれだけで体感温度が違うので、チップは多めに払っておいた。

 ホテルでチェックインを済ませ、部屋まで荷物を運んでもらい、備えつけのエスプレッソマシーンでコーヒーを飲み、サービスのチョコを頬張る。ウィーンに来る度に思うのだが、一口目のコーヒーとチョコほど美味しいものはない。家族からも友人からも秘書からも依頼されているためコーヒー豆とチョコレートを山ほど買う予定ではあるが、苦労して持ち帰ってたところでこの一口目に敵うことはないのだ。程よい酸味と芳醇ほうじゅんな香りのコーヒー、こってりと甘いチョコレート、冷え切った口の中でそれらが調和しないはずもない。鼻の奥が鉄くさくなるほどの寒さを耐える価値がここにあるのだ。そんな一口目の贅沢ぜいたくを堪能してから、この国まで来た本題の『出産祝い』のため、友人の家に向かった。

 赤子がいる家においてインターフォンを鳴らすことの迷惑を重々把握していたため、家の前で着いたことと、必要であれば近くのカフェで待つことをメッセージで送ると、意外にも扉はすぐ開いた。

 マリーゴールド柄のカシミヤセーターに無数の車のシールが貼られたジーンズを履いた彼女が、苦笑しながらわたしを出迎えた。

「本当に来てくれたのね。もちろん疑ったわけじゃないのだけど……海を越えてきてくれる友人はあなたぐらいだわ。タイミングもバッチリよ。ちょうど母が子どもたちを散歩に連れて行ってくれたところだったの。さすがね、ドクター」

 彼女と玄関先でハグを交わす。香水は高潔こうけつさを想起そうきさせる百合をベースにしつつ蠱惑的こわくてきなスパイシーさをはらむもので、この芸術の街に似合っていた。普段ならそのまま玄関先で一言二言交わすのだが、寒さに耐えきれず、すぐにリビングに案内をしてもらった。マナー違反で申し訳ないと詫びると、彼女はストーブの上においたヤカンを持ち「マイアミの方が寒いわよ」と冗談をいった。しかしその冗談を笑う前に歯が笑ってしまったし、彼女はそんなわたしを指差して笑った。相変わらず気が置けない彼女だ。

 彼女がおざなりにハンドドリップコーヒーを淹れるのを見ながら、あれこれと近況について話し、淹れてもらった薄味のコーヒーを飲みながら、あれこれと近況を尋ねた。彼女は「二人目は楽ね」と笑い、それから「ドクター、明日は暇?」と聞いてきた。嫌な予感はしたが、余裕がある旨を伝えると「上の子の面倒を見てほしいの」と案の定、彼女は無茶をいい出した。

「明日は下の子の検診けんしんがあるのよ。その時間、母はオペラの準備があるし、……病院に連れて行ってもあの子、退屈だろうから。ほら、病院って体調悪い人しかいないじゃない? 八歳の子どもの遊び場にはならないのよ」

 わたしの職場を的確に表現した彼女に敬意をはらい、その頼みを受けることにした。彼女の長女に会うのは二年ぶりで、おそらく彼女は覚えていない。楽しく過ごせるかな、と聞くと「それはドクター次第よ」と笑われた。ひどい話である。

 彼女に出産祝いの品を渡し、頼まれるままに掃除そうじや夕飯づくりの手伝いをしていると、散歩に出ていた彼女の母と子どもたちが帰ってきた。彼女の母は相変わらず元気そうで、わたしが挨拶し終わる前に頭痛と腰痛ようつうと老後の不安を教えてくれた。一方で長女は人見知りを起こし、柱越しに観察してきた。

「本当にドクターなの? 名刺見せて。信用できないわ」

 毛糸の帽子を深くかぶり、鼻を赤くして、実に利発りはつそうな子どもだ。名刺を受け取るとすぐにスマートフォンで調べ始める。疑り深くてきみに似ている、と彼女にいうと「だから仲良くなれそうでしょう?」と笑った。彼女は長女にわたしを紹介し、明日はわたしと遊んでいるようにと告げた。長女の目に母への怒りが灯る。しかし赤子の世話を理由に出されて怒れるほど子どもではないらしく、彼女はぶっきらぼうに「よろしく」と吐く。その声色が彼女の母が怒っているときに似ていて、嫌われたとわかった。が、どうしようもない。明日はよろしくと返し、ホテルに戻った。

 翌朝ホテルでモーニングを済ませ、彼女の家に行くと、彼女は泣きわめく赤子の世話で忙しく、おざなりに長女を渡してきた。彼女の態度はわたしへの信頼のあらわれであろうが、もちろんわたしと長女の関係はその瞬間にさらに悪化した。おかげで、こんにちはと声をかけても目が合わない。どこか行きたいところあるかなと聞いても、舌打ちが返ってくる。まつげさえも凍る寒さの中、一言も話そうとしない八歳。

 あまりの事態に、わたしは自分に五秒だけ天を仰ぐ許可を与えた。

「ドクターって、お母さんとどういう関係なの」

 しかし、その五秒の間に彼女が奇襲きしゅうを仕掛けてきた。大学の頃の友人だと答えると「恋人になりたいの? お母さん、フリーよ。弟は精子バンクだし」と追撃ついげきされる。たしかに子どもはプライベートを外で話すものだ。しかし彼女の場合はわたしを試しているようだった。ならば誠実に答えなくてはいけないだろうと、パートナーがいることを説明した。彼女は納得してくれたのか、わたしの手をとって歩き出してくれた。

 駅に向かう道中、彼女に質問されるままに、彼女とわたしがつき合うことは未来みらい永劫えいごうありえないことと、自分のパートナーが素晴らしいことと、ドクターの仕事は暇ではないことを説明した。そのお返しとして行きたい場所を教えてもらうと、彼女はスケートリンクでもクリスマスマーケットでもなく、ウィーン産業技術博物館を挙げた。

「遠足の日に雨だったら行く場所なの。でも、私、雨に好かれないから」

 極寒の街で、彼女の手は毛袋越しでも汗ばんでいて、温かい。

 博物館は休日ということもあり、それなりの人手だった。彼女とはぐれないように並んで回る。古いパイプオルガンや、今はないクラシックカー、厚みのあるコンピューター、実用性がなさそうなデザインの自転車など、展示品は幅広い。彼女は八歳の好奇心こうきしんで次から次へと質問をしてくるので、灰色の脳みそをフル活用して次から次へと答えた。これほど今まで勉強をしてきたことの成果を見せられる機会はないだろう。

 彼女は展示品の一つである巨大な熔鉱炉ようこうろを指差して「これはなにするの」と聞いてきた。鉄を溶かすんだよと答えると「なら、これはどうして溶けないの? 鉄でしょう?」と聞いてきたので、ねつ伝導でんどう、素材、冷却水の説明をする。彼女は「説明が上手ね」と女王様のような言葉をくれた。一介のドクターにすぎないわたしは一礼し、溶鉱炉に興味があるのか、と聞いてみた。

「興味ってほどじゃないけど、大きいなって。お父さんも背が高くて大きかったわ。ねえ、説明上手なドクター、お母さんはどうしてお父さんと別れたの? どうして弟は精子バンクなの? 再婚するわけでもないのに、どうして子どもを作ったの?」

 辻斬つじぎりだ。お母さんに聞いてごらんとなんとか返すと、「答えてくれないわよ、どうせ。私のこと、赤ちゃんと同じだと思ってるんだもん、あの人」とそっぽを向いてしまう。その態度は八歳らしい。しかし愛らしさよりも痛々しさがあった。

 赤ちゃんだと思っているなら彼女はきみになにもかもを話したよ。きみが物事を理解できるだけ賢くなったことを知っているから話さないのだろう。理解することと受け止められることは、似ているけれど違うからね、と説明してみたが「当たり障りがない言葉ね」と切り捨てられた。わたしは溶鉱炉を仰ぎ見る。 

「……きみの父親は、粗野そやで乱暴で無鉄砲むてっぽう無遠慮ぶえんりょで自己愛が強く……きみたちを不必要に追い詰めた。彼女は、自分だけならいい、と、……けれど、彼はきみを傷つけた。痛みのある言葉で、尊厳そんげんを傷つけていた。それを知ったから彼女は彼と別れた。彼にはきみたちへの接近禁止令が出ている」

 彼女と目を合わせると、彼女は驚いてはいなかった。けれど傷ついていないわけではないらしく、わたしをにらんだ。彼女の前に膝をつき、その瞳を覗き込む。

「けれど離婚の影響できみは不安定になった。だから彼女は実家のあるウィーンに戻ったんだ。……おばあさんは、元気で、良い人だろう?」

 彼女は、「うん、一緒にいると元気になるの」と頷く。それはよくわかる。

「きみのお母さんもそれがわかっていたから、きみをおばあさんに預けたんだよ。現にきみは元気になった。……だから、彼女はもう一人、子どもが欲しくなったんだろう。きみのお母さんは、たくさんの子どもを幸せにしたくて小児科医になった人だからね。きみのお母さんのような経済力のある健康な女性にとって、精子バンクは合理的な考えだ。そのうち、養子も……考えてるかもしれない。でも、事前にきみに、相談がなかったのはひどいね。きみはとても驚いたんだろう? だから、わたしにも同じように驚いてほしくて、……傷ついてほしくて、あんな聞き方をしたんだね」

 彼女の目から力が抜けて、あっという間に涙がたまっていく。「うん」と呟いた彼女の声は、真っ暗な夜、深い井戸に小石を投げ落とすような、そんな拠り所のない声だった。わたしは彼女の小さな手を握る。

「勝手よ、お母さん、お父さんと仲直りもしてないのに、……なにも終わってないのに……ねえ、ドクター、喧嘩けんかをしたら仲直りをしなさいって大人はいうのに、どうして大人はそうしないの? どうして、許してあげられないの? ……ねえ、どうして? たしかに……お父さんは、ひどい人だったけど……」

 声が涙に濡れ、言葉に感情が乗り、彼女の心が赤く火をまとう。

「そうよ、ひどい人だ……私だって、嫌い。嫌いよ。あんな人、大嫌い! 私が赤ちゃんのときに別れてくれたら良かったのに!」

 カッと燃え上がる炎、飛び散る火の粉、燃える怒りがそこにある。彼女がわたしの腕にしがみついて、ワッと泣く。けれど、彼女の炎はわたしには燃えうつらない。それはわたしが大人であり、彼女が子どもだからだ。

 だから、溶鉱炉のように、静かに彼女を受け止められる。

「ひどい! ひどい! ひどい!」

 自分の怒りに振り回される彼女を抱きしめて、そうだね、と答えた。彼女はわたしの肩を叩いて、「ずるいよ」と泣く。

「あの子、ずるい! だって! 優しい親しか知らないなんて、私だってそうならいいのに、……どうしてもっと上手くやってくれなかったのよ! あの子ばっかりずるい! おばあちゃんもおかあさんも、あの子が取っちゃう! やっともらえた、私の家なのに! やっと! どうしてあの子には最初からこの家があるのよ!」

 この子の怒りに大人として謝らなきゃならないと思い、けれど、謝られなきゃならないことだと彼女に思わせたくなかった。だからなにもいえず、彼女を抱きあげて、博物館の人気のないフロアを歩き続けた。夕方、泣き疲れて眠ってしまった彼女を家に連れ帰り、彼女を弟の隣で寝かせてから、そういったことがあったと友人に報告をしたら、想定通り、腹を殴られた。そして彼女は殴ったその手でわたしを抱きしめる。

「ありがとう、ドクター。あなたは大人気なくて、最高の友人だわ」

「うん。だから、きみの恋人だと思われたことを謝ってくれ。本当に不名誉ふめいよなんだよ」

「なによ、それ。フフ、……いいえ、そうね、本当にごめんなさい」

 彼女は少し泣いたが、それから笑った。彼女の笑顔はいつの間にか大学生の頃のものに戻っていた。そのことに安堵し、また来ると約束し、帰国した。

 半年後に届いた絵葉書に、九歳になった彼女から「ドクターみたいなドクターってどうやってなるの?」と新しい質問が来ていたので、パートナーに自慢じまんをした。大切なパートナーは、初恋泥棒はつこいどろぼうさん、とわたしの鼻をつついた。

 大変不名誉であったが、つい、笑ってしまった。




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