ウィーンに着いたのは午後三時だった。飛行機がヨーロッパ上空に入りだした辺りから
ホテルでチェックインを済ませ、部屋まで荷物を運んでもらい、備えつけのエスプレッソマシーンでコーヒーを飲み、サービスのチョコを頬張る。ウィーンに来る度に思うのだが、一口目のコーヒーとチョコほど美味しいものはない。家族からも友人からも秘書からも依頼されているためコーヒー豆とチョコレートを山ほど買う予定ではあるが、苦労して持ち帰ってたところでこの一口目に敵うことはないのだ。程よい酸味と
赤子がいる家においてインターフォンを鳴らすことの迷惑を重々把握していたため、家の前で着いたことと、必要であれば近くのカフェで待つことをメッセージで送ると、意外にも扉はすぐ開いた。
マリーゴールド柄のカシミヤセーターに無数の車のシールが貼られたジーンズを履いた彼女が、苦笑しながらわたしを出迎えた。
「本当に来てくれたのね。もちろん疑ったわけじゃないのだけど……海を越えてきてくれる友人はあなたぐらいだわ。タイミングもバッチリよ。ちょうど母が子どもたちを散歩に連れて行ってくれたところだったの。さすがね、ドクター」
彼女と玄関先でハグを交わす。香水は
彼女がおざなりにハンドドリップコーヒーを淹れるのを見ながら、あれこれと近況について話し、淹れてもらった薄味のコーヒーを飲みながら、あれこれと近況を尋ねた。彼女は「二人目は楽ね」と笑い、それから「ドクター、明日は暇?」と聞いてきた。嫌な予感はしたが、余裕がある旨を伝えると「上の子の面倒を見てほしいの」と案の定、彼女は無茶をいい出した。
「明日は下の子の
わたしの職場を的確に表現した彼女に敬意をはらい、その頼みを受けることにした。彼女の長女に会うのは二年ぶりで、おそらく彼女は覚えていない。楽しく過ごせるかな、と聞くと「それはドクター次第よ」と笑われた。ひどい話である。
彼女に出産祝いの品を渡し、頼まれるままに
「本当にドクターなの? 名刺見せて。信用できないわ」
毛糸の帽子を深くかぶり、鼻を赤くして、実に
翌朝ホテルでモーニングを済ませ、彼女の家に行くと、彼女は泣きわめく赤子の世話で忙しく、おざなりに長女を渡してきた。彼女の態度はわたしへの信頼の
あまりの事態に、わたしは自分に五秒だけ天を仰ぐ許可を与えた。
「ドクターって、お母さんとどういう関係なの」
しかし、その五秒の間に彼女が
駅に向かう道中、彼女に質問されるままに、彼女とわたしがつき合うことは
「遠足の日に雨だったら行く場所なの。でも、私、雨に好かれないから」
極寒の街で、彼女の手は毛袋越しでも汗ばんでいて、温かい。
博物館は休日ということもあり、それなりの人手だった。彼女とはぐれないように並んで回る。古いパイプオルガンや、今はないクラシックカー、厚みのあるコンピューター、実用性がなさそうなデザインの自転車など、展示品は幅広い。彼女は八歳の
彼女は展示品の一つである巨大な
「興味ってほどじゃないけど、大きいなって。お父さんも背が高くて大きかったわ。ねえ、説明上手なドクター、お母さんはどうしてお父さんと別れたの? どうして弟は精子バンクなの? 再婚するわけでもないのに、どうして子どもを作ったの?」
赤ちゃんだと思っているなら彼女はきみになにもかもを話したよ。きみが物事を理解できるだけ賢くなったことを知っているから話さないのだろう。理解することと受け止められることは、似ているけれど違うからね、と説明してみたが「当たり障りがない言葉ね」と切り捨てられた。わたしは溶鉱炉を仰ぎ見る。
「……きみの父親は、
彼女と目を合わせると、彼女は驚いてはいなかった。けれど傷ついていないわけではないらしく、わたしを
「けれど離婚の影響できみは不安定になった。だから彼女は実家のあるウィーンに戻ったんだ。……おばあさんは、元気で、良い人だろう?」
彼女は、「うん、一緒にいると元気になるの」と頷く。それはよくわかる。
「きみのお母さんもそれがわかっていたから、きみをおばあさんに預けたんだよ。現にきみは元気になった。……だから、彼女はもう一人、子どもが欲しくなったんだろう。きみのお母さんは、たくさんの子どもを幸せにしたくて小児科医になった人だからね。きみのお母さんのような経済力のある健康な女性にとって、精子バンクは合理的な考えだ。そのうち、養子も……考えてるかもしれない。でも、事前にきみに、相談がなかったのはひどいね。きみはとても驚いたんだろう? だから、わたしにも同じように驚いてほしくて、……傷ついてほしくて、あんな聞き方をしたんだね」
彼女の目から力が抜けて、あっという間に涙がたまっていく。「うん」と呟いた彼女の声は、真っ暗な夜、深い井戸に小石を投げ落とすような、そんな拠り所のない声だった。わたしは彼女の小さな手を握る。
「勝手よ、お母さん、お父さんと仲直りもしてないのに、……なにも終わってないのに……ねえ、ドクター、
声が涙に濡れ、言葉に感情が乗り、彼女の心が赤く火をまとう。
「そうよ、ひどい人だ……私だって、嫌い。嫌いよ。あんな人、大嫌い! 私が赤ちゃんのときに別れてくれたら良かったのに!」
カッと燃え上がる炎、飛び散る火の粉、燃える怒りがそこにある。彼女がわたしの腕にしがみついて、ワッと泣く。けれど、彼女の炎はわたしには燃えうつらない。それはわたしが大人であり、彼女が子どもだからだ。
だから、溶鉱炉のように、静かに彼女を受け止められる。
「ひどい! ひどい! ひどい!」
自分の怒りに振り回される彼女を抱きしめて、そうだね、と答えた。彼女はわたしの肩を叩いて、「ずるいよ」と泣く。
「あの子、ずるい! だって! 優しい親しか知らないなんて、私だってそうならいいのに、……どうしてもっと上手くやってくれなかったのよ! あの子ばっかりずるい! おばあちゃんもおかあさんも、あの子が取っちゃう! やっともらえた、私の家なのに! やっと! どうしてあの子には最初からこの家があるのよ!」
この子の怒りに大人として謝らなきゃならないと思い、けれど、謝られなきゃならないことだと彼女に思わせたくなかった。だからなにもいえず、彼女を抱きあげて、博物館の人気のないフロアを歩き続けた。夕方、泣き疲れて眠ってしまった彼女を家に連れ帰り、彼女を弟の隣で寝かせてから、そういったことがあったと友人に報告をしたら、想定通り、腹を殴られた。そして彼女は殴ったその手でわたしを抱きしめる。
「ありがとう、ドクター。あなたは大人気なくて、最高の友人だわ」
「うん。だから、きみの恋人だと思われたことを謝ってくれ。本当に
「なによ、それ。フフ、……いいえ、そうね、本当にごめんなさい」
彼女は少し泣いたが、それから笑った。彼女の笑顔はいつの間にか大学生の頃のものに戻っていた。そのことに安堵し、また来ると約束し、帰国した。
半年後に届いた絵葉書に、九歳になった彼女から「ドクターみたいなドクターってどうやってなるの?」と新しい質問が来ていたので、パートナーに
大変不名誉であったが、つい、笑ってしまった。