第8話 村上
二〇二二/〇八/十三 記録作品
村上に着いたのは午前九時だった。駅前でバスに乗り、鮭の博物館に向かう道中「なにをしに?」と乗り合わせた男性に聞かれた。日本橋で知り合った人々に村上を薦められたこと、昨日まで越後湯沢で日本酒の飲み比べや越後のミケランジェロと呼ばれる石川雲蝶の作品を辿っていたこと、そしてようやく今日足を伸ばして村上を巡ることを説明した。彼は経緯を面白がった後、鮭が食べられるレストランを教えてくれた。
博物館の入り口には生け簀が設置され、釣り体験イベントが行われていた。スタッフに声をかけられ、釣りはしたことがないと答えると「やろ!」と竿を渡された。郷に入っては郷に従えという先人の教えもあるが、全くやり方がわからない。コツを聞くと「竿を離さないこと。後始末が面倒だから」と笑われた。それはたしかにまったくそうだ。竿を離さないことだけを意識して、元気に泳ぎ回るニジマスたちの中に釣り糸を垂らす。想定よりも早く食いつかれ、ワオと叫ぶとスタッフがすぐに集まってくれたので、事なきを得た。ニジマスの口から仕掛けを外し、元気な魚をまた放流する。持ち帰らなくていいのかと聞かれ、旅先で捌くわけにもいかないからと断る。釣りは想像よりずっと面白く、今度は友人を連れて釣りするのもいいかもしれないと心に留めた。
英語の館内マップを見ながら、博物館で鮭について学ぶ。この博物館の名前となっているイヨボヤは鮭を意味する村上の方言だそうだ。日本は国土が縦に長く広がっているため、面積からは考えられないほど方言が多様化している。余談だが京都の独特の言葉遣いについて、それは方言かといおうものなら友人からは百の文句が返ってくるだろう。
博物館の展示の一つとして、イクラが孵化する様子を眺めていると隣にいたカップルが「今日のお昼の店な、イクラが絶品だよ」「楽しみー」とニコニコ話していた。とにかく日本という国はなんでも美味しく食べてしまう。本当に魅力的な国民性だ。
地下では施設の隣を流れる川の中を観察することができた。ぼんやりと水の流れを眺めていると、一匹の魚が上流へのぼり始めた。鱗がキラキラと輝く。岩石の中で眠る原石のような、水たまりに張った油のような、宇宙の輝き。ガラスを隔てた向こうの世界では、種を増やす命の季節が謳歌されているのだ。
博物館を出て街歩きをしていると、酒屋の前で地酒の飲み比べセットを勧められた。酒屋の隅で立ち飲みができるらしい。パブみたいなものかなと聞くと、奥からマスターの息子が出てきて『角打ちとは』という英語のレポートを見せてくれた。そのレポートで角打ちなる日本文化を理解し、彼に礼を告げる。すると彼は申し訳無さそうに「実はそれ、高校のホームワーク。添削して」と頼んできた。そんな頼まれ方をしては仕方ない。地酒の飲み比べをしながら、彼のホームワークを読んだ。彼と会話をする中で、村上が観光都市として有名になったのはここ数年であることや、英語圏の観光客が増えていて英語の需要が高まっていることなどがわかった。そしてその頃にはもちろん、飲み比べセットは飲み干していた。
日本酒は日本で飲むのが一番美味しい。他の国でも高品質なものが取り扱われるようになったが、夏空に合わせるならばこれだと選んで出せるほどは揃えられない。とはいえこれは日本に限らず、日本酒に限った話でもない。ワインを飲むならフランスであるし、ビールを飲むならチェコであり、ウイスキーならスコッチで、スコッチならスコットランドと昔から相場は決まっている。要するに、この日本で日本酒を飲み始めたならば、飲み比べセットなどでは終えられず、追加を何杯か頼んでしまうのは自明であった。そんなわたしの弁明に彼はケラケラと笑った後、すこし聞きにくそうに香水のブランドを聞いてきた。突然の話題転換に訝しむと、彼は「モテそうだから」と白状した。
「周りに香水つけてる人あんまいないし、そんな好きじゃないんだけど、ドクターのは柚子のいい匂いっていうか、……すいません、やっぱこれはセクハラですか?」
東京のホテルで頂いたサシュの香りだろう。やはりこの夏に必要なものだったらしい。彼にサシュを渡し、四合瓶の日本酒を何本か買う。まだ彼は話したそうであったが『魔法の言葉』を唱えるとまた笑われ、穏やかに店を後にすることができた。
バスの中で教えてもらったレストランで鮭のコース料理を楽しみながら、イクラは日本以外では食べられないことをスタッフに話すと「もったいない!」と笑われた。しかし博物館でイクラの製法を学んだ今では、日本でしか安心して食べられない食べ物と理解していた。だからこそ、より一層美味しく感じてしまう。締めのおにぎりにのせられていたイクラがあまりにも美味しくて、それだけで日本酒を二合空けてしまった。
夕方の街を歩き、駅に向かう。土産の酒が重たく、しかしそれが愉快である。日本酒の甘い香りがまとわりついてくるように思うのは、きっと酔っているからだろう。飛行機に乗る前に酔いを覚ましておかなくてはいけない、とペットボトルの水を飲む。じんわりとぬるい水の硬さもまた自国のものとは違い、旅先にいることを実感させる。
何度も手は拭っているのに、指先に魚の香りがする気がした。気のせいだろう、けれど瞼の奥に宇宙の輝きが蘇る。今日はきっと魚の夢を見る。すこし楽しみであった。