チャイナ・タウンに着いたのは午後三時だった。シンガポール空港には午前十時に着いていたのだが、機内で発生したトラブルのためにタクシーに乗るまでに時間がかかってしまったのだ。しかし本来ならホテルに荷物を預けるだけのところ、チェックインできる時間になったため、部屋まで案内してもらえたのは幸運だった。荷物を運んでくれたボーイにお薦めのレストランを聞くと「屋台はいかがでしょう。規模は小さいですが美味しい店の揃ったホーカー(屋台街)がありますよ」とホテルから歩いて五分ほどの場所を教えてくれた。食べ歩きも悪くないだろう、とボーイにチップを渡した。
部屋で休んでから、風通しの良いシャツに短パンとビーチサンダルに履き替えて出かけようとすると、ボーイに呼び止められ「スコールが来たら傘をさしても仕方がありませんから。建物の中に避難してください」と愚痴なのか生活の知恵なのかわからない助言をくれたので、郷に入っては郷に従えという先人の教えの通り、この旅では傘は買わないことにした。
ホテルを出ると、じんわりと湿った熱い空気が肌にまとわりついてくる。強い日差しを感じて空を見上げると、目を焼く青。慌ててサングラスをかけている間に、もう汗をかいていた。ホテルの車寄せを抜け、チャイナ・タウンのストリートを歩き出すと、チャイニーズ・フードの匂いが押し寄せてきた。香辛料を使った油の匂いに涎がこみあげる。明るい色調の看板と提灯、無数の土産が並んでいる土産物屋の列。店員はありとあらゆる言語を使って客引きをしているが、ストリートにはゴミ一つ落ちていない。それが、あらゆる民族と宗教施設が隣り合う混沌が受け入れられている、多民族国家にして唯一の都市シンガポールだ。ここ、チャイナ・タウンでは一見でそれが理解できる。食事の後にモスクにも行こうと決め、唐辛子、花椒、八角、シナモン、ウコン、他にもわたしの知らない香辛料の匂いが混ざり合うストリートを進んだ。
ボーイが教えてくれたホーカーは地元民が集まるところだったようで、観光客の姿はなかった。学校帰りにたむろしていた子どもたちに話しかけると、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。正しい反応である。が、一人が親連れで戻ってきて「なに?」と聞いてきてくれたので、ご馳走するからこのホーカーでお薦めの料理を教えてほしいと頼むと、逃げた子どもたちも戻ってきた。現金で元気なことだ。思わず笑ってしまった。
子どもは好きだ、けれど扱いは得意ではない。だから彼らに逆らう理由も術もなく、腕を引っ張られライス料理や麺料理、飲茶に肉料理を頼んだ。彼らと四角い机を囲み、買った料理を食べながらあれこれと話をする。彼らはわたしのことを気に入ってくれたらしく、シンガポール訛りの英語で、友人や学校の先生の物真似を見せてくれた。似ているのかはわからないが、そういう人っているよね、と笑ってしまった。
「ドクター!」
子どもたちと交流を深めていたら急に背後から声をかけられた。振り返ると『機内トラブルの要因』である青年が立っていた。彼は、驚くわたしに「お礼をするっていったのに、勝手に帰っちゃうなんて……、でもこれも縁っスね! 会えました!」と満面の笑みでとびついてきた。そんな突然の来訪者に子どもたちが興味を持たないはずもなく、結果、十分後には『今日、機内で彼が貧血を起こし、同乗していたわたしが対応をした』ことがホーカー中に伝わっていた。「『お客様の中にお医者様はいらっしゃいますか』を初めて生で聞いたっス!」と笑う青年に、子どもたちは「いいなー!」と笑う。なにがいいのだろう、とわたしは蒸した鶏を食べる。スパイシーなタレが濃厚で、ウイスキーが飲みたくなった。
懐いた犬のように隣に腰かけてきた彼からは花の甘い香りをベースにし、ホップの苦みが混じったお香が香る。『最近』嗅いだ覚えがあるが思い出せない。しかし妙に落ち着く匂いだった。ともかく、機内では会話すらできなかった彼が元気を取り戻していることに安堵した。が、いつの間にか子どもたちは「ドクター」とわたしから距離をおき、彼には「にいちゃん」と親しげな様子だ。やはり子どもの扱いは難しい、わたしはすこしがっかりした。
最後に子どもたちにアイスを奢り、その場を後にしようとした。しかし「どこ行きますか、ドクター!」とわたしにとっては子どもの一人である青年はついてきてしまった。ショッピングストリートを歩いてると「これがいいっスよ」と彼は『シンガポール』と書かれたTシャツを選んでくれたので、無視してマーライオンの形をしたクッキーを購入した。モスクに立ち寄ると彼はなにかいいたげな顔をしたが、なにもいわなかった。道中、そのように彼はずっとなにかを話したそうにしながら、結局、当たり障りのないことばかり話した。彼がようやく本題を始めたのは、スコールに当たってしまい、喫茶店のテラス席のパラソルの下に逃げ込んだ、夕方のことだ。
びしょ濡れの彼はまず「ラマダーンのときは日中食べないってだけで、敬虔なムスリムではないんスよ」と嘘から始めた。わたしはビールを飲み、彼は水を飲み、喉を潤す。彼はわたしが返事をしないのが不安だったのか「酒だって頑張れば飲めますし、豚肉だって気が付かなければ食べられるっスよ……」と、『だから』と訴えようとするので、手で制し、首を振る。彼が酒を飲まないことも豚肉を食べないことも、わたしとは違う神を持つことも弁明するようなことではないし、許可など必要ない。そもそも、ここはチャイナ・タウンだ。彼は水を飲んでから、俯いた。
パラソルの縁から滝のように水が落ちる。髪からも水が落ちる。けれど、すでにスコールは止んでいた。空は青に戻り、肌を焼き始める。何事もなかったかのように、世界は晴れ渡り、遠くの空に虹がかかる。香辛料の匂いが洗い流されたストリートには、土産屋からするバニラとムスクの混じったお香の匂いが広がる。その香りの変化と気候の変化と美しい虹には現実味がなかった。濡れた土の匂いだけが、そこに雨があったことを教えてくれる。
青年は虹を見て、それからわたしを真っ直ぐに見た。
「ドクターが『メッカは夜だ。だから食べていい』っていってくれたとき、……アッラー(唯一神)がいるってわかったっス。本当に、ありがとうございました」
彼が一日いいたかったであろう言葉を受け止めて、機内で手を挙げる経験ができてよかったよと答えると、彼は力が抜けた顔で笑った。
それから数日の滞在を経て帰国すると、やはり空港に秘書が迎えに来ていた。
今回は匂いがついていないはずだと思ったが、秘書はわたしのスーツケースを受け取ると「シンガポール航空の匂いですね」と笑った。そういえばシンガポール航空は香りでブランディングをしているのだったとわたしが天を仰ぐと、「ドクターはいつも旅先の匂いを連れて帰ってきてくれます」と秘書は笑った。その笑顔は力が抜けていて、青年のものに少し似ていた。
「ドクター、いくつかの航空会社からドクター登録の依頼が来ていましたよ。休暇にお仕事されたんですね? ……ちゃんと楽しまれたんですか?」
たしかに機内トラブルは大変だったと思い出す。
あの日はムスリムの宗教行事ラマダーンの日だった。ラマダーンは日が落ちてから食事を摂る宗教行為なのだが、あの便はよりにもよって夕方から朝に向かって飛んでしまうものだった。急な出張のせいでそんな便に乗ってしまった彼は宗教食の予約もしておらず、どこまで信仰を無視していいかを思い悩み、結局、長時間水しか飲めなかった。そのために機内で体調不良を起こしたのだ。だが、あのときの彼に経緯を説明する体力は残っておらず、結果、彼は黙って点滴を拒絶するに至った。
そんな彼の目を見たとき、なにかに囁かれたかのようにわたしの口をついて出た言葉が、メッカは夜だ、だった。そして彼が点滴に同意をしてくれた瞬間に、これで助けられると安堵し、神に感謝した。あのとき、わたしたちはそれぞれの神を見ていた。そして『あのとき』、わたしは彼のお香を嗅いだのだ。だからこそ、あの匂いはわたしにとってもあれほど落ち着くものになったのだろう。たしかに彼とわたしが、あらゆる神が同居する街で再会できたことは、なにか特別な理由があったのかもしれない。
「チャイナ・タウンは、発見の多い街だった。たまに神もいるしね」
秘書はあいまいに微笑んでわたしを見てきたので、こら、と叱ってからクッキーを渡した。