こんな理不尽な話があるだろうか?
オレは異世界に召喚された。
目の前には、メガネをかけたエルフのお姉さん。
彼女は、肩で息をしながらオレをにらみつけている。
──ぼこっ!
重い打撃音が上がり、オレの頭に大きな本が叩きつけられる。
──ぼこっ! ばしっ! ごっ!
座布団ほどもある大きくて分厚い本が、何度も、何度も叩きつけられる。
叩きつけられる角度、本の部位によって異なる打撃音が上がる。
どれも痛い。マジで痛い。生命の危機を感じるほど痛い。
眼から火花が散り、鼻の奥がツンとする。
何度もやめてと言った。
それはもう恥も外聞もなく、哀れっぽく、情けなく、命乞いをした。
でもエルフさんは殴るのをやめない。
言葉が通じないのだ。
オレは赤居一太郎。十八歳。
平凡な受験生だ。
それが突然、異世界に転移し、そして──
メガネのエルフさんに、撲殺されようとしていた……。
◆ ◆ ◆
その日は大学の入試試験だった。
それも本命の学校だ。
学生服姿の男女が、群れをなして校舎へと入って行く。
ほとんどが無言。たまに単語帳に目を落とし、つぶやいているものがいるくらい。
その中に混じり、オレは試験会場の教室へと向かっていた。
会場の教室、その入り口の前に来た時だった。
──ぴろりん♪
スマホの通知音が鳴った。
おっと、試験中はサイレントにしておかないと……。
そう思ってスマホを手に取った時だった。
「え……?」
突然、辺りが真っ暗になった。
廊下も教室も受験生も、みんな真っ黒な闇に呑み込まれ、何も見えない。
その直後、足下が光り輝いた。
下を見ると、オレを中心に光る魔法陣のようなものが現れていた。
暗闇に稲光が走り、息を呑むオレのそばで炸裂した。
「ひ…ひぃいいい!?」
周囲でいくつもの雷が乱舞し、炸裂する。
暴力的な閃光。破壊的な轟音。
オレは悲鳴を上げて目を閉じ、両手で耳をふさいだ。
…………どのくらいそうしていただろう。
閃光と轟音はだしぬけにやみ、静寂が戻った。
おそるおそる目を開けると──
「どこだここ?」
オレは、ぽかんと口を開けていた。
そこは、まるでヨーロッパのお城や豪邸にある書斎か図書室のような場所だった。
壁一面が本棚で、そこに分厚い大きな本が詰め込まれている。
部屋のまん中にはいかにも高級品という大きな木のテーブルがあり、その上にこれまた高価そうなランプやら文鎮やら砂時計やらが乗っている。
そのテーブルのそばに、キレイなお姉さんがいた。
信じられないくらい美しいひとだ。
多分、20代前半。美しいブロンドの髪。整った顔立ち。すらりとしたプロポーション。
リアルでこんな美人と会ったことはない。
彼女はちょうどメガネをふいていたようだった。オレを見つけると、メガネをかけ直し、何事か言った。
まるで聞いたことのない言葉だった。
それほど得意じゃないけど、英語でないことは確かだ。
「えっと……」
困った。
ただでさえキレイすぎるほどの美人さんである。緊張してしまう。そこに言葉が通じないという問題がプラスされ、自分でも情けないくらいへどもどしてしまった。
キレイなお姉さんは、小さくため息をつくと、オレにそばに来るように身振りでしめした。
当然ながら、素直に近づくオレ。
そこで、今さらながら気づいた。
彼女の耳が、長くとがっていることを。
この、メガネをしたキレイなお姉さんはエルフだ!
驚くと同時に、オレは納得した。
目の前にいるメガネの美人さんはエルフ。
つまり、オレは異世界転移したんだ。さっきの現象は転移のプロセスだろう。
異世界ファンタジーものは小説、漫画、アニメ、ゲームで慣れ親しんでいる。この後の展開も予想できる。
オレにこの世界を救ってとか、そういう展開になるに決まっている。
この手の作品に詳しいオレは安心した。
それにしても、言葉が通じないところからはじまるとは古典的だな。
まあ大丈夫だろう。
すぐに魔法の薬か何かで会話できるようになるはずだ。
メガネのエルフさんは、そばに来たオレにイスに座るよう促した。
肘掛けのないイスはやはり高価そうだった。座ると小さく軋む音を立てたので、オレはちょっと緊張した。
エルフさんはテーブルにあった金属のコップを手に取ると、オレに渡した。
にぶい銀色のコップには足がついており、小さな宝石がはめこまれている。ゴブレットというやつだ。
中には、ちょっとどろっとした赤い液体──ワインみたいなものが入っていた。
エルフのお姉さんは、それを飲むようを手振りで勧める。
なるほど。これは言葉が通じるようになる魔法の薬だな。オレは詳しいんだ。
オレはゴブレットに口をつけ、その中身を飲んだ。
「……ちょっと、渋いね」
いや、かなり渋い。この世界のものだからなのかどうかはわからない。
「実は、ワイン飲むのはじめてなんだ。ブドウから作るものだから、もっと甘いと思っていたけど違うのかな。あははは……」
ちょっと恥ずかしいけどカミングアウトした。
でもエルフのお姉さんは無反応。
メガネのレンズの向こうにある彼女の瞳。ブドウみたいな紫色の瞳は無感情で、何を考えているのかわからない。
まだ言葉が通じないのか。
それとも、このエルフのお姉さんは無表情系ヒロインとか。
なんか気まずいというか、間が持たない。
「あのう……」
五分くらい後、オレは彼女に話しかけた。
さっきのが翻訳魔法の薬なら、そろそろ言葉が通じてもいいはずだ。
メガネのエルフさんが何かつぶやいた。
しかしその言葉を、オレはまったく理解できなかった。
さっきのワインらしきものは、翻訳の魔法薬じゃなかった?
そう思った時、オレは自分に起きている変化に気づいた。
身体がしびれる?
指先からつま先まで、全身が、微かなビリビリした感触に包まれている。
「えっ? ええっ?」
声は出せるが身体は指一本動かせない。
さっきのはしびれ薬?
なんで? なんでそんなことされるの?
パニックになったオレを見て、エルフさんはうなずくと、テーブルにあった大きな本を手に取った。
デカい。大きさは座布団くらい。厚さは座布団三枚ぶんはありそうだ。表紙は皮だか紙だかわからないが板状で、かなりごつい。
魔導書だ。
異世界ものに詳しいオレにはピンと来た。
ピンと来たついでにイヤな予感がひしひしとする。
しびれ薬。魔導書。
ロクでもないことが起きようとしている。
「た、たすけて…!」
オレは本能的に逃げようとした。でも身体がしびれて動けない。
エルフのお姉さんは、魔導書を両手で持つと、呪文を唱えはじめた。
すると、表紙に光る魔法文字が現れたかと思うと、魔導書が宙に浮いた。
彼女は呪文を唱えながら、宙に浮いた魔導書をオレのそばへと持ってきた。
ふわふわ浮かぶ分厚い魔導書が、オレの頭上に置かれる。
エルフさんの詠唱が再開された。
さっきよりも強い声。メリハリも大きい。詠唱の最後の部分なんだろう。
何が起きるのか…生きた心地がしないオレは目を閉じた。
突然、エルフさんの詠唱が止まった。
いや終わったのだろう。
おそるおそる目を開けると……。
メガネのエルフさんが、困ったような顔でオレを見下ろしていた。
呪文が失敗したのだろうか?
オレの頭の上には魔導書が乗ったままだ。魔法で浮いているため、重さは感じないが、乗っけられていることは感触でわかる。
エルフさんがまた呪文を唱えはじめた。
しかし、特に何も起きない。
……三度目、そして四度目の詠唱が終わった。
しかし、何も起こらない。
エルフのお姉さんの眉間にしわがよる。
キレイな人は不機嫌な顔もキレイだな…なんて、オレは思った。
何も起きないので心に余裕ができた。
一方、エルフさんのほうは余裕がなくなっていた。
不機嫌な、強い調子の声で彼女は呪文を唱えた。そして──
ぐいぐい。ぐいぐい。
魔導書をオレの頭に押しつける。
「さっきから、何をしているんですか?」
思わずオレは尋ねた。
そんなオレをエルフのお姉さんは、きっとにらんだ。
何かマズいこと言った?
その直後、メガネのエルフさんは魔導書を両手で持ち上げると、それをオレの頭に振り下ろした。
「いだっ!」
眼の前に星が飛び散り、鼻の奥がツンとする。
座布団三枚ぶんくらいはあろうかという分厚い本である。その重量はもう凶器だ。
エルフのお姉さんが、うなり声を上げた。
彼女は呪文を詠唱しながら、また魔導書をオレに叩きつけた。
「ぐえっ! 痛いっ! やめて! へべっ! お願いたすけて!」
何度も何度も、分厚い魔導書がオレの頭に叩きつけられる。
逃げようにも身体はしびれて動かない。
たすけてと言っても言葉は通じない。
言葉が通じないって、こんなにヤバいことだったんだな。
ああ、痛みと衝撃で、だんだん意識が遠のいてゆく……。
……オレ、何のために異世界に召喚されたんだ?
何か悪いことした? うっかり気に触ることでも言っちゃったのか?
何気ない日本の言葉が、こちらではセクハラとかヘイトみたいなことになっていたのだろうか。
いや、そうだとしてもこれはない。これはヒドい。魔導書で撲殺されるなんて……!
理不尽だ。理不尽すぎる……。
ぼくっ! ばこっ! どごっ!
魔導書による打撃は続く。
もう悲鳴を上げることもできない。
わけもわからず召喚されたと思ったら、わけもわからず殺されるなんて。こんなの、オレの知ってる異世界ものにはなかったよ。
オレの十八年の人生は、ここで終わるのか。
あえてタイトルをつけるなら──
「異世界転移したら、メガネのエルフさんに撲殺された件……」
「──やっとうまくいった」
やわらかな美しい声が近くでした。
「どう? わたしの言葉、わかる?」
アニメやソシャゲで聞いた声に似ている。ツンデレ系のキャラをよく演じている声優さんだったかな?
ちょっと舌足らずだけどキレイな声。吐息が混じるような話し方がちょっと色っぽい。
「ええ、わかりますよ……ええっ?」
我に返ったオレは驚いた。
「言葉が通じてる!」
「そうよ。今、あなたの頭には〈万金鈴の書〉がインストールされたの。つまり、この世界のあらゆる種族の言語を話し、読み書きができるようになったというわけ」
エルフのお姉さんが、疲れた様子で言う。
オレは自分の手を見た。いつの間にかしびれはなくなっていた。
身体が動くことを確認してから頭に手をのばす。
コブとかはできていない。あれだけ殴打されたのに今はなんともない。
そこでふと気づいた。
あの座布団みたいな魔導書はどこかに消えていた。
「あのでっかい本は?」
「だから言ったでしょう。〈万金鈴の書〉はあなたの頭の中よ」
「つまり、さっきの連続殴打は、インストール(物理)だったというわけですか。さすが異世界……」
オレの言葉を、エルフのお姉さんは文句を言われたと思ったのだろう。
「乱暴な方法をとって悪かったわ。読み込みが進まないから、つい焦っちゃって」
視線を下げて言うメガネのエルフさん。
「でも、これはあなたのためであるのよ」
「魔導書で殴打することがですか?」
「もうっ、だからそれは悪かったと謝っているじゃない。イジワルね」
ちょっと顔を赤らめ、ムクれるエルフのお姉さん。
知的な美人がこういう顔をするとかわいいんだな。
「自己紹介がまだだったわね」
見とれているオレに、エルフのお姉さんは言った。
「わたしは森 花子。花子でいいわ」