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第4話 お嫁様に笑われるのは嫌じゃない

 王太子との初対面を迎える前。


 俺は毛繕い部屋で全身の毛を櫛で梳きまくっていた。先端が鋭くなっている爪は短く切りそろえて、さらに念入りにヤスリをかけた。


 万が一にでも爪で王太子を引っ掻いて傷でもつけたら、弱小モルガン家は木っ端みじんに吹き飛んでしまうかもしれない。爪は尖っているほうがイケているのだが、仕方がない。先端に少しだけ丸みを作った。


 王宮へ出向くのは正直にいって気が重い。正装をするのも面倒だ。俺は普段、ハーブ畑で土にまみれている。動きやすさ重視の衣類しか持っていないのだ。


 コスティール国内には、一店舗だけ獣人衣類を揃える店がある。もちろんフォーマルウエアも取り扱っている。問い合わせるとすぐにカタログが届いた。


 自分の毛並みが最も映えるのは……いや、この光沢は良い生地だな……あ、やっぱり値段が張るな……。ページをめくりながら慎重に吟味した。


 数日後、オーダーした最上級品が仕上がって無事に届いた。鏡の前で袖を通してみる。毛を梳きまくったせいで毛並みは美しいし、オーダー品は体にフィットして自分に似合っている。高額な代金を支払っただけのことはあった。


 俺はその格好のまま、テーブルに着いた。気ままな一人暮らしのせいで記憶の彼方に消えたテーブルマナーを再び習得しなければ。


 これでも俺はモルガン家の生まれだ。王家と比べたら弱小でも、北の領地を治める立派な一族の一員なのだ。当然、子供の頃からみっちりと叩き込まれた。


 どんな高級レストランに行っても余裕で振る舞えた。まぁ、良い思い出はないのだが……。


『ねぇ、あのワンちゃんお利口さんだよ!』 


『ほんと、吠えずにお行儀が良い子ね』


『でも椅子に座ってる姿、なんか笑えるよな』


『しっ、聞こえるわよ。でも見て、ちゃんとスプーンとフォーク使って食べてるわ』


 ひそひそとクスクス。思い出すと恥辱で顔がカッと赤くなる。俺は過去の記憶を振り払い、少しでもバカにされないようテーブルマナーの習得に励んだ。


 そして次は、発声練習。


「リア・シュヴァリエ・ファン・スチュワート・クリステル・ト……ト……」


 駄目だ。最後が言えない。


「ト……ト、トォ……!」


 どうしても最後の「トトゥ」で躓く。俺は「ティ」と「トゥ」が苦手だ。それ以外ならまったく問題がないのに、よりにもよって王太子の名前に「トゥ」が入っているなんて。忌々しい。嫌がらせもいいところだ。


「でも、相手の名前をきちんと言えないのは失礼だしな……」


 俺は力いっぱい、口先を尖らせて「トゥ」と発音してみる。


「ピュー……!」


 空気と一緒に、声にならない「ピュー」という音が出た。口笛みたいだ。自分は何をやっているんだろう。滑稽で情けなくて、涙が出そうになる。


 それでも諦めずに練習していると、「ピュー」から「てゅ」になった。「てゅ」なんてもう、ほとんど「トゥ」みたいなものだ。あとはもう勢いと雰囲気で「トゥ」と言っている風に装えばいい。


 そんなことを考えながらほっとしていると、ついに初対面の前日。


「トゥ! トゥ! トトゥ!」


 俺は、ついに「トゥ」を完全克服した。


「リア・シュヴァリエ・ファン・スチュワート・クリステル・トトゥ……!」


 やったぞ!


「リア・シュヴァリエ・ファン・スチュワート・クリステル・トトゥ……!!」


 いけた!!


「リア・シュヴァリエ・ファン・スチュワート・クリステル・トトゥ……!!!」


 完全に問題なし!!!


 軽快な舌さばきに心が躍る。これでもう怖いものなしだ。嫁になるかもしれない王太子の名前を、俺は得意気に何度も呼んでいた。





 獣人に対する人間の態度は、おおよそ決まっている。怯えるか、差別するか。だいたいそのどちらかだ。ごくまれに「自分は獣人を理解しています」という人間がいる。


 正しく訳すと「私はかわいそうな獣人を理解してあげている立派な人間です」ということになる。彼らには、残念ながら獣人を見下しているという自覚がない。なかなか厄介な存在だった。


「僕はリア・シュヴァリエです」


 王太子が俺に向かって手を差し出したとき、この人間もそうなのかもしれないと思った。怯える様子がまるでなかったからだ。


 見下されているのだろうか。気が重いなと思いながら手を差し出すと、王太子はまず爪に触れ、少し撫でるような仕草を見せてから毛並みを確かめ、肉球にも手を伸ばした。


 最後に、爪の先端をきゅっと握る。驚いたことに、王太子は獣人の握手の仕方を知っていた。


 自分の真っ黒な爪を握るすべすべの白い手を見る。小さな手だ。薄くて柔らかそうな皮膚をしている。もちろん傷ひとつない。丹念にヤスリをかけてよかったと思った。鋭いままだったら、きっと簡単に先端が柔肌に食い込んでしまう。


「ふわふわだね」


 王太子にうっとりした声で言われて、毛を梳きまくった甲斐があったと密かに満足する。


 白い手が、さわさわと俺の毛並みを撫でている。


 めずらしいのだろう。悪い気はしないのだが、ひとつ心配なことがある。換毛期が近いのだ。憂鬱な季節。抜け毛が気になる時節……。


 換毛期には嫌な思い出が多い。子供の頃の話だが、友達と食事中にもっふもっふと毛が抜けて眉を顰められたり、お気に入りのぬいぐるみにうっかり触れて大量の毛を付着させて泣かれたり。


 悪気はゼロなのだが、悪気がないからといって「はいそうですか」と許されるものではない。俺だってスープの中に狼の毛が混入していたら嫌だし、大事な物には他人の毛なんて一本でも付けられたくはない。


「あんまり触ると、抜けるぞ」


 わざわざ忠告してやったのに、なにを勘違いしたのか王太子は「もしかして痛かった?」と訊いてきた。撫でまわしているだけで痛いはずがない。たとえ引っ張られていようとも、彼の非力さではむず痒いだけだろう。


「そうじゃなくて。抜けたら嫌だろ」


 改めて忠告する。


「イヤじゃないけど」


 王太子が、何でもないことのように言った。


 あっさりと返された瞬間、何か鋭いもので心臓を抉られた気がした。ぎゅーーっと絞られるような感じがする。とてつもなく胸が痛い。なんだこれは。病気か? 急に病を発症したのか?


 ひとりでパニックになっていると、王太子は急に自分の名前が長いのだと説明を始めた。何をいまさら。そんなことは身上書を見たので知っている。


「リア・シュヴァリエ・ファン・スチュワート・クリステル・トトゥ」


 フルネームを口にすると、王太子は驚いた顔をした。妙にうれしくなって、俺はつい正直に発声練習をしたことを打ち明けた。「ふふっ」と、彼はくすぐったそうに笑った。


 笑われるのは大嫌いなのに、なぜか嫌な感じはしなかった。


 美貌のせいか冷たい印象だったが、笑うと幼く見えるのだと知った。身分をかさに偉そうな態度をとることもない。


 もしここが王宮でなければ、仰々しい衣装を身に纏っていなければ、彼はただ優しく笑うきれいなお兄さんだろう。そんな彼に、手を握られている。改めて認識すると落ち着かない。またしても心臓がぎゅうぎゅうと痛くなってきた。


「モルガンって、僕も名乗っていい?」


 手を握ったまま、王太子が俺に言った。


 言葉の意味を理解した瞬間、全身の毛がばっさばっさと靡いた。いや、実際は靡いてはいないのだが、そういう感覚だった。


 それにしても、一生の不覚だ。嫁になる相手からプロポーズをされるとは。先を越されてしまった。まぁ、嫁といっても男だしな。俺のほうが年下だから、顔を立てるという意味で譲ってやってもいい。


 頭の中では王太子を相手に偉そうなことを考えていたが、実際のところ俺はめちゃくちゃ赤面していた。顔から火が出るほど真っ赤だった。


 しかし毛に覆われているおかげで、その事実は誰も知らない。王太子にはバレていない。今日ほど獣人でよかったと思った日はなかった。


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