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第3話 旦那様と出会ったとき、なぜか胸が苦しくなった

 もうずいぶんと昔のことだけど、獣人は奴隷として扱われていた時代がある。良い印象を持たないひとがいるのは、その頃の名残なのかもしれない。


 僕は獣人に助けられた過去があるから、悪いイメージどころか逆に好印象を抱いている。


 まだ幼かった頃、父と一緒に出席したパーティーでのことだ。庭にあるバラ園で従弟たちに揶揄われて、僕は半べそをかいていた。


「お前さ、男なのに妊娠できるってマジなの?」


「それって男じゃなくて女っていうんだよ」


「顔も女みたいだし。本当は男じゃないんじゃねーの」


 下卑た表情を浮かべた三人組だった。いつも何かと僕に突っかかってくる。それも大人たちのいないところで。


 その日は、いつもより執拗だった。リーダー格の少年は目をギラギラさせていて、バラ園の奥まった場所で僕は押し倒された。


「お前と子供を作ったら、俺がかわりに王太子になれるんじゃねぇか?」


 僕の体を押さえつけながら、おぞましいことを口にした。


「ずるいよ、それなら俺だってリアを妊娠させたい」


「俺だって。リアはどんな子よりもかわいいし、自分の物にしたいよ」


 無邪気に笑う三人の姿を見て、ぞっとした。怖くて抵抗するどころか、震えて声も出せなかった。


 衣服を脱がされそうになったとき、背後から重低音が聞こえた。


 グルルルル……。


 動物の唸り声だとすぐに分かった。人間には敵わないと、本能が察する声だった。声がするほうに視線をやると、咲き誇ったバラの影から何かが飛び出して来た。


「ぎゃっ!!」


「うわ、なんだよコイツ!?」


「ケモノだ! 獣人だよ!!」


 栗色の毛に覆われた獣人。


 成人しているようには見えなかったけど、子供三人を追い払うには十分だった。牙を剥き、激しく威嚇された三人組は僕の体から離れた。そして、慌ててバラ園から逃げていった。


「あ、ありが、と……」


 途切れ途切れの声で僕が言うと、獣人はスンッと鼻を鳴らした。


 彼は正装していた。きちんとした身なりだけど、栗色のふかふかの毛が服の隙間から飛び出していて、それを見ていると何だか気が抜けた。


 強張っていた体の力が抜けて、ほっとした。


 改めて「助けてくれてありがとう」と、僕は彼に言った。


「僕はリア。今日は父上といっしょに来てるんだ」


「…………」


「あの……?」


 彼は無言だった。何か言いたそうにはしているものの、グルルルと唸るばかりだった。


 無意識に、僕は手を伸ばしていた。


 僕の手に気づいて、彼が右手を差し出してくる。ほわほわの手。そっと触れようとすると「違う」と言われた。


「きみ、しゃべれたんだ?」


 口にした瞬間、失礼なことを言ったと自覚した。案の定、ぎろりと睨まれた。


「ご、ごめんなさい……!」


 ぺこぺこと謝っていると、またしても彼はスンッと鼻を鳴らした。


「握手の仕方」


 彼は、ぶっきらぼうな声だった。


「知ってるよ? お互い握るんでしょ」


 僕が首をかしげると、わずかに牙を剥かれた。


「人間と獣人が握手するときのやり方があるんだよ」


 獣人の爪が人間の手を傷つけないように、特別な方法があるのだという。ほわほわの毛と、ぎらっと黒光りする爪と、少しざらついた肉球。彼に教えてもらって握手を交わしながら、僕は今まで感じたことのない感覚に陥った。


 ふわふわと宙に浮いたような、心臓がバタバタと忙しなく動くような。そして妙に息苦しかった。握手した感触を、僕はその日以降もしばらくのあいだ思い返していた。


 獣人を目にするのは、あのバラ園のとき以来だ。


 僕の向かいに、艶やかな銀色の毛を靡かせている狼獣人がいる。ピンと立った両耳と、長くて立派なマズル。言葉を発する度に、真っ白な牙が見え隠れしている。


 今は、お見合いの真っ最中だった。


「……あんまり、きょろきょろするなよ」


 狼獣人イヴァノフ・モルガンは、隣の席の母親をたしなめるように低い声で言った。


「だって、コスティールの王宮に招かれたのよ? もう二度とないかもしれないんだから、しっかりと目に焼き付けておかないと!」


 ばっちりメイクのモルガン母が、興味深そうに周囲を見渡している。立派な額縁に入れられた絵画も、大小様々な調度品も、僕にはすべて見慣れたものだ。


 客人が王宮内のものに見惚れることは間々あるので、モルガン母に声をかける。


「お好きなだけご覧になってください。よろしければ、メラニーに王宮のなかを案内させましょうか」


「ぜひっ! よろこんで!!」


 モルガン母が食い気味に反応する。


「リア様、うちの子と二人っきりになってもご心配には及びません! 見た目はこんなですけど突然襲い掛かったりしませんから。どうか、ご安心くださいませ!」


 モルガン母が高らかに宣言する。彼女とメアリーが席を離れた場合、僕とイヴァノフの二人が残されるかたちになる。


 この場にいるのは、僕とイヴァノフ、モルガン母とメアリーの四人。コスティールでは、お見合いの席は当事者二人と付き添いが各一名と定められているのだ。 


 イヴァノフが、ふんっと鼻を鳴らした。


 自分の母親をうんざりした表情で眺めている。なんだか反抗期の少年みたいな顔だ。僕はくすっと笑いながら、モルガン母に「大丈夫ですよ」と伝えた。


「そういった心配は、まったくしていませんから」


 モルガン母とメラニーが席を立ったあと、僕はイヴァノフに手を差し出した。


「ちゃんと挨拶ができなかった気がするので。改めまして、僕はリア・シュヴァリエです」


「……俺は、イヴァノフ・モルガン。落ち着きのない母で申し訳ない」


 広間に入ってきた瞬間から、モルガン母は大興奮していた。「広い! 豪華! 綺麗!」と目をキラキラさせながらハイテンションになり、おかげで挨拶も出来ないままだった。


 おそるおそる、といった感じでイヴァノフが手を伸ばしてくる。


 僕はそっと爪に触れ、やさしく撫でる。それから銀色の毛と肉球にも触れ、爪の先端をきゅっと握った。


「……挨拶の仕方、よく知ってるな」


「子供の頃に教わったんだ。きみの毛、ふわふわだね。もっと硬いのかと思った」


 失礼かと思ったけれど、触り心地が良いのでさらさらと撫でてみる。


 なめらかで、しっとりして、触り心地がいい。光沢があるせいか、撫でると銀色の体毛が輝いて見えた。


「あんまり触ると、抜けるぞ」


 視線を逸らしながらぶっきらぼうに言う。その表情が、なぜか傷ついているように見えた。痛そうな、なにかを怖がっているような。


「ごめん、もしかして痛かった?」


「そうじゃなくて。抜けたら嫌だろ」


「イヤじゃないけど」


 弾かれたように、イヴァノフが僕を見る。彼の瞳がきれいな色をしていることに、ようやく気付いた。どこまでも透き通った海みたいな色。淡いブルーだった。


 きれいな瞳に見られて、胸の奥がぎゅっと痛くなった。上手に息ができなくて、浅い呼吸を繰り返す。


「ぼ、僕の名前、本当はすごく長くてね。リア・シュヴァリエの続きは……」


 会話が途切れて、沈黙が流れていることに落ち着かなくなる。聞かれてもいない名前のことを言い出したのは、他に話すことが見つからなかったからだ。


「知っている」


 イヴァノフが僕の言葉を遮った。


「身上書に記してあった」


「あ、そういえば、そうだね」


「リア・シュヴァリエ・ファン・スチュワート・クリステル・トトゥ」


 まさかフルネームで呼ばれるとは思わなかった。覚えてくれたんだ……。


「練習した」


「覚えるために? 長いものね」


「違う。発音が苦手だ」


 発音……? 外国で暮らしていたのだろうか。意味がわからなくて首をかしげると、イヴァノフがぷいっと視線をそらした。


 少し不貞腐れたような、またしても反抗期の子供みたいな顔。


「……鼻口部が人間と違うから、苦手な言葉がある」


 なるほど。それは考えたことがなかった。どうやら、彼は「ティ」と「トゥ」が不得意らしい。真面目に「トゥ」の発音を練習する彼を想像したら、なんだかほっこりした。


「ふふっ」


 思わず微笑むと、むすっとした顔のイヴァノフに睨まれた。


 キリッとした目で凄まれても、少しも恐怖を感じない。牙があって、爪があって、自分より一回り以上も体が大きくて。でも、ぜんぜん怖くない。


「イヴァノフ・モルガンって、とても良い名前だね」


 身上書を見たときから、ずっとそう思っていた。


「……そうか?」


「モルガンって、僕も名乗っていい?」


 握った彼の爪がわずかに震えた。驚いたように、淡いブルーの瞳が見開かれる。


「……だめ?」


 泣きそうに震える声に、自分でも驚く。


「名前、もっと長くなるぞ」


「ほんとだね。練習しないと」


「覚えられるだろ」


 気づいたら握り返されていた。掴んでいた爪の硬い感触だけじゃなくて、少しだけザラついた肉球から体温を感じた。とても温かくて、やさしいぬくもりだった。


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