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第5話 僕は「友だち」のことが好きです

 自分の気持ちを自覚したら、見える世界が変わった。


 というより、遊馬くんのことしか見えなくなった。メッセージが来てないかな? って、ベッドでゴロゴロしながら無駄にスマートフォンを確認したり、いざメッセージをもらったらテンションがあがって無駄に絵文字を乱打したり。


 遊馬くんの予定は、シフトでみっちり埋まっていたので、会いたいときはカフェに行った。ラテのモコモコの泡は、いつも可愛いラッコだった。ラッコの背景にハートマークを見つけたときは、思わず天を仰いだ。


 あぁ、胸が痛い……。


 そんなことをしていたら、あっという間に夏休みが終わってしまった。


 いつものお昼休み。カフェテリアで、隣には遊馬くんがいる。


 今日、遊馬くんはソースカツ丼を食べている。箸使いが美しいことに今さら気づく。そして、なによりキラキラしている。おかしい。人間はむやみやたらに輝いたりしないはずなのに。


 クロワッサンサンドをかじりながら、遊馬くんをぼけーーっと見ていたら、急に目が合った。


「そんなに見られたら、食べにくいんですけど……」


 遊馬くんが苦笑いしている。しょうがないなっていう顔で見下ろされて、僕はドギマギしてしまった。


「べ、別に……? そんなに見てないよ?」


 苦しまぎれに言う僕の二の腕を、遊馬くんの肘がつつく。


 思わず、ドキンと心臓が反応する。


「ちょっと距離、近くない……?」


 あまりにも至近距離だ。ぴっちりとくっついている。


「いつもこれくらいですよ」


「そ、そう……?」


「初めにこの距離にしたの、七穂さんですから」


 そうだっけ。


 あ、たぶん。オロオロする遊馬くんを見るのが楽しくて、ぐいぐい近づいたような気がする。


「七穂さん、クロワッサンが制服についてます」


「え?」


 遊馬くんに指摘されて確認すると、本当にクロワッサンがポロポロとこぼれていた。真っ白い制服に付着している。


 払おうとした僕の手よりも早く、遊馬くんの手が伸びる。


「ひゃ……!」 


 びっくりして、思わず声が出た。


「さ、触るなら、前もって言ってよ……!」


「触ってないですよ」


「嘘!」


「制服にしか触ってません」


 それは、触ったって言うんだよ……!


 むうっとした顔で遊馬くんを見上げる。


「七穂さんだって、予告なくベタベタ触ってくるじゃないですか」


「それは! 否定できないけど……!」


 僕と遊馬くんが軽い小競り合いをしていると、目の前に大きな壁が現れた。


「あ、熊……」


 遊馬くんが、その壁に向かってつぶやく。


「目立ってるぞ」


 壁がしゃべった……! と思ったけれど、よく見ると壁ではなく人間だった。


 彼は、遊馬くんの幼馴染だ。二メートル近い体躯なので、あだ名が「熊」になったらしい。野生の熊というより、大きなぬいぐるみのイメージに近い。思わず「クマさん」と呼びたくなる感じなのだ。


「場所をわきまえろよ」


「どういう意味だ?」


「公共の場でイチャイチャするなと言ってるんだ」


 小声でクマさんが忠告してくる。


「イチャイチャなんてしてないけど? ですよね、七穂さん」


 遊馬くんに同意を求められ、僕はうなずいた。


「そうだよ。ぜんぜん普通だよ」


「え、普通なんですか……?」


 どういうわけか、クマさんはドン引きしているらしい。


「でも、ピッタリくっついてますよね? 至近距離でなにか言い合ったり、見つめ合ったりしてますよね?」


 クマさんの意見を聞いて、僕は思わず赤面した。


 周囲からは、そんな風に見えているのか……。


「別にいいだろ」


「良くないぞ。周りのこともちゃんと考えろ。ただならぬ雰囲気を察して、他の生徒は遠巻きにしてるんだからな」


「うるさいな。俺たちは二人で楽しくご飯を食べてるだけなんだよ」


 遊馬くんとクマさんの会話を聞いていると、少しずつこめかみがピクピクと反応を始めた。


 ……なんか、すっごく仲が良いね?


 僕といるときより、遊馬くんは砕けた口調だった。「友だち」より「幼馴染」のほうが近しい関係のように思うのは、僕だけだろうか。 


 なんか、面白くない……。


 僕は、するりと腕を伸ばした。隣にいる遊馬くんに向かって。


 彼の左腕に自分の右腕を絡めた。なんでもないふりをして、食べかけのクロワッサンサンドを頬張る。


 クマさんが目を剥いた。なにか言いかけたけれど、諦めたようにため息を吐く。


「あ、七穂さん。やりましたよ。ほら、熊が退散して行きます」


 遊馬くんは楽しそうだ。大きなクマさんの背中を指さしている。クマさんの後ろ姿には、気のせいか疲労がにじんでいた。


「遊馬くん。『熊が退散』なんて言ったら、本当のクマさんみたいだよ」


 もぐもぐと咀嚼しながら、自分が絡めた腕のことは意識しないようにする。きっと、オロオロしてしまうと思うから。


 ……今さらだけど、遊馬くんの気持ち分かるな。オロオロしていた彼の気持ち。


 クロワッサンサンドをかじりながら、味に集中! と、僕はひたすら自分に言い聞かせていた。







 ある日の夕方、学校から帰ったら自宅に母がいた。


「めずらしいね。たいてい夜遅いのに」


「仕事、早退したのよ」


 そう言った母の顔は、いつもと違っていて。ひどく強張っていた。


 すぐに、何かあったのだと悟った。


「どうしたの」


「……あのひとが、亡くなったらしいのよ」


 あのひと、というのは父のことだ。


「どうして……?」


 突然のことで、頭が真っ白になる。


「それが、よく分からないの。突然、倒れたらしくて……」


 病気だという話は、特に聞いていなかった。


 自分の呼吸がずいぶん浅いことに気づく。ぼんやりしながら、山陰の家へ行く準備をした。


 明日は、学校に行けない。


 明後日も、ムリかもしれない。


 いや、明後日は土曜日だから。もともと学校は休みだ……。


 ふいに、遊馬くんの顔が浮かんだ。


 メッセージを送らないと。明日は一緒にお昼ごはんを食べられないって、伝えないと。


 スマートフォンを持つ手が震える。メッセージで事情を説明した。うまく指が動かなくて、長文を送ったら脱力してしまった。


 着信に気づいて、我に返る。


「もしもし……」


「七穂さん……? 大丈夫ですか?」


「うん……。びっくりして、あの、それでね。メッセージで送った通りなんだけど、明日は学校に行けないんだ。だから、遊馬くんとお昼ごはんが食べられないんだよ。ごめんね」


「……それは、残念ですけど。大丈夫ですから、七穂さんが帰ってきたら、また一緒に食べましょう」


 遊馬くんの声が、穏やかで優しい。たぶん、僕を落ち着かせるためだと思う。


「ありがとう。すぐに戻ってくるから」


 翌朝、母と二人で山陰に向かった。始発電車はがらんとしている。まだ、現実のような気がしない。


 父の最期は、心筋梗塞であっけないものだったという。


 僕は、父が五十を過ぎて出来た子供だった。それでも「死」というのは、まだずっと遠くにあると思っていた。


 あの広い家の主で、唯一の権力者だった父。傲慢で、尊大で、冷酷だった父。


 その父が、死んだ。







 知らないひとの家みたいだ。


 久しぶりに足を踏み入れたとき、そう思った。瓦屋根の大きな屋敷も、手入れされた庭も、何も変わっていない。母と一緒に東京へ出るまで、確かにこの家で暮らしたのに、まるで他人の家のようだと感じた。


「東京からわざわざ、ご苦労様です」


 父の正妻の冷たい声にびくりとする。


「……ご無沙汰しています」


「何かあれば、手伝いのひとに申し付けてください」


 他人行儀だなと思ったけれど、仕方ない。このひとにとって僕は本当に他人で、夫の愛人が生んだ子どものひとりに過ぎない。


 僕はずっと、この広い家で他人のように扱われてきた。ひとりぼっちだった。


 だって、母は南京錠がついた部屋の中……。


「七穂」


 母の声にハッとする。


「大丈夫? あなた、顔色が真っ青だけれど……」


 僕はかぶりを振った。


「ぜんぜん平気だよ」


 僕が、しっかりしないと。 


 今、この家の中で母を守れるのは僕だけだ。


「おい、七穂」


 ふいに呼び止められて振り返ると、長兄がいた。ずっと「一」だった、正妻の長男だ。


「相変わらず、お綺麗な顔だな」


「……お久しぶりです」


 綺麗、と言いながら汚いものでも見る目つきだった。


「まだ高校生だったか? 俺には、どこかの成金の愛人にしか見えないんだがな。売女の母親と同じように、売春か愛人稼業で稼いだらどうだ? そのいやらしい顔なら、よほど金になるだろう」


 長兄は、相変わらずだ。


「お前、色目を使うなよ? 参列者が淫売のお前に誘惑されないか心配で、俺は喪主どころじゃないんだからな」


 僕が睨むと、肩をすくめて去っていった。 


「……七穂、ごめんね」


「母さんが謝ることじゃないよ。もう、ここに来るのも、あのひとたちと関わるのもこれが最後だ」


 だから、もう大丈夫。


 火葬が終わると、すぐに荷物をまとめて、僕と母は屋敷を後にした。


 もう二度と、ここには来ない。


 新幹線に乗ったら急に力が抜けた。ずっと気を張っていて、疲れたのだろう。僕は座席に身を預けるようにして、いつの間にか眠ってしまっていた。


 ふと気がつくと、終わったはずの告別式の最中にいた。


 父が穏やかな顔で横たわっている。まるで眠っているみたいだった。そんな顔で死ぬなんて許せないと思った。


 たくさん傷をつけたくせに。


 もっと苦しんで欲しかった。


 こんなことなら、いっそ僕が殺したかった。


 仄暗い感情が、体にあちこちからあふれてくる。真っ黒な塊が怪物になって、大きな口を開ける。その怪物に喰われそうになったとき、ふいに声が聞こえた。


『七穂さん』


 ……遊馬くんだ。


 振り返ると小さな人影が見えた。だんだん近づいてくる。人影はキラキラしていて、ひどく眩しかった。世界が真っ白になるくらいに眩しくて、僕は目を閉じた。


 まるで飛び起きるようにして、新幹線の座席から体を起こした。


 呼吸が荒い。びっしょりと汗をかいていた。


 かたく握りしめた手の中に、スマートフォンがあった。メッセージを開くと、遊馬くんがいた。いくつかのラッコと、文字の羅列。


 そうだ。僕には、遊馬くんがいる……。


 強く握りしめていたせいで、手がしびれていることに今さら気づく。


 うまく力が入らない指で「今日中に帰ります」とメッセージを送った。すぐに既読になり、返信がくる。


『待っています』


 その文字を見たとき、泣きたくなった。ぎゅんと喉の奥が痛い。


 帰りたい、と、どうしようもないほど強く思った。遊馬くんに会いたい。僕を待っていてくれるひとのところに帰りたい。


 最寄り駅に着いたときには、すっかり深夜になっていた。


 母とはそのまま駅で別れた。「これから友だちに会う」と言ったら心配していたけれど、僕はどうしても今日中に遊馬くんの顔が見たかった。


 駅舎に留まってしばらくすると、霧のような雨が降ってきた。


 足音が近づいてきて、遊馬くんの姿を見つけたとき、僕は胸が苦しくなった。


「……ただいま」


「おかえりなさい」


 優しい顔をしている。遊馬くんだけが、世界から切り離されたようにくっきり見える。


「急に、雨が降ってきました」


「そうだね」


 隣に座った遊馬くんの髪から、雫がポタリと落ちる。


 彼の頬を伝う雨を、僕は拭った。


 ぽつりぽつりと、子どものころ頃の話をする。ごく自然に打ち明けていた。遊馬くんはずっと、黙って話を聞いてくれていた。


 話しているあいだは苦しかったけど、仄暗い感情に支配されることはなかった。真っ黒な怪物が姿を現すこともない。


「誰のことも好きなっちゃいけないと思ってた」


「どうしてですか」


「自分の中にも、父と同じものがある気がしてたから……」


 父の異常な支配欲を知っている。母が監禁され、暴力を受ける姿を見て育った。


「……いつだったか、七穂さん俺のこと『守りたい』って言ってくれたじゃないですか」


「うん」


 遊馬くんが子どものころ、ずっと寂しかったんだって知ったとき。僕が守ってあげるんだって思った。


「そんな風に思うひとが、好きなひとを傷つけるはずないです」


 遊馬くんが優しく、けれど力強く言い切る。


「……僕は」


「はい」


 僕は。


 何度も言いかけては止める僕を、遊馬くんは決して急かしたりしなかった。


「遊馬くんのことが好き」


 やっと気持ちを伝えることができた。


 遊馬くんが、嬉しそうに微笑む。


「俺も七穂さんのことが好きです」


「……もう『友だち』じゃ、なくなっちゃうね?」


「そうですね……」


 遊馬くんが視線を逸らす。覗き込もうとしても、顔を背ける。


 あ、これは照れてる。


「恋人だね」


 ごくり、と遊馬くんの喉が鳴った。


「恋人の響きはやばいです。独占欲が爆発しそう……」


「これからは、僕が守ってあげるね」


「俺は、やっぱり守られる側なんですか?」


「うん。だって、告白するだけで泣いちゃう子だもん」


 だから、大切に僕が守ってあげるんだ。


 肩を抱かれて、僕はごく自然に遊馬くんの腕の中におさまった。


 僕も腕を伸ばして、彼の体を抱きしめる。手を握り合う。


「好きって言ってもらったすぐあとで、こんなこと考えたくないんですけど……」


「どうしたの?」


 遊馬くんの表情が暗い。


「嫌われるのが怖いです」


「心配?」


「……はい」


 遊馬くんが、こくんと頷く。あ、ちょっと涙目だ。可愛い。


 僕は、手を伸ばして彼の頭を撫でた。よしよしする。


「泣かないで?」


「すみません」


 ズッと洟をすする。あ、本当に泣いちゃったかも。


 胸がぎゅんっとする。もっと、よしよししてあげないと。


 背中をさすったり、手を握ったり。頬を撫でたり、にこっと笑いかけてみたり。


「そういうのされたら、余計にダメです……」


 遊馬くんの涙声。


「どうして?」


「失ったときのこと考えるから」


 なるほど。


「僕は、ずっと同じものが好きだよ?」


「え……?」


 不思議そうな顔をした遊馬くんと目が合う。


「クロワッサンいつも食べてるでしょ」


「あ……」


「ずっと食べてても飽きないの。食べるたびに好きだなって思うし、これがないとダメって思う」


「……俺は、クロワッサンになれますか?」


「うんっ!」


 笑顔で元気よく返事をした僕に、遊馬くんが抱き着いてくる。


 ぎゅうぎゅうと腕に力を込められる。


 苦しい。でも、きっと苦しいほうが良い。僕はきっと、遊馬くんに執着すると思う。


 初めて、好きになったひとだから。


 霧のような雨が、降り続いている。音もなく静かに。


「……傘、二人とも持ってなかったね」


「そうですね。でも、もう必要ないです」


 遊馬くんがいるから、いらない。もう傘はいらないんだ。


 離れないように、ぴったりと体を寄せ合う。遊馬くんの体から熱が伝わる。じんわりと温かい。決して届かないはずの体の奥のほうまで、満たされていく感じがする。


 僕がきゅっと手に力を入れると、遊馬くんもちゃんと握り返してくれた。それだけで僕は、全身がしびれるくらいに幸せだった。





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