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第2話 先輩は美人で小悪魔だから心臓がヤバいです

「遊馬くんが、早く僕に慣れてくれたら良いなと思って」


 俺の手に触れた七穂さんは、そう言って上目遣いに微笑んだ。


 きゅっと上がった口角に目を奪われる。長い睫毛にも、透き通った肌にも、色素の薄い髪にも。


 心臓が反応する。痛いくらいにドキリと跳ねる。


 初めて会ったときから、俺はこのひとに支配されている。







 あれは、高校に入学してすぐのころだった。


 幼馴染の下川流生しもかわりゅうと、渡り廊下を歩いていた。この下川は、皆に「熊」と呼ばれている。熊としか表現できない外見だからだ。


 俺はそのとき、熊と冗談を言い合っていたと思う。熊に肩を小突かれた俺は、ちょっとよろけた。


 気づいたら、目の前にひとがいて。それが七穂さんだった。ネクタイの色で上級生だと分かった。


 やばい、二年生に体当たりした……。


 相手は俺よりひと回り以上小さくて、明らかに華奢だった。


『おい、水村! 危ないだろ。ちゃんと前を見て歩けよ』


 幼馴染が俺を叱る。


 いや、お前のせいでもあるから。


『うるさいな。あの、すみません……! 大丈夫ですか?』


 熊を睨みつつ、上級生に頭を下げる。


『平気だよ』


 静かな声だった。でも妙に艶っぽくて。


 綺麗なひとだった。冴え冴えとした美しさ。冷たそうな印象で、目が合うと妙に居心地がわるかった。


 怒られるな……。


 そう思ったけど、予想外な「大丈夫?」という声が聞こえた。


『え……?』


 大丈夫って、何がだ?


『濡れなかった?』


 水道の蛇口を閉めながら、こちらをうかがってくる。


『あ、やっぱり。ちょっと濡れてるね』


 ハンカチを取り出して、俺の制服をちょんちょんと拭ってくれた。白い手だった。長い指で、爪の形まで美しい。手に見惚れたのは初めてだった。


『いや、先輩のほうが濡れてますけど……』


 蛇口から近いのは彼のほうだったから、濡れるのは当然で。俺が指摘すると、今さら気づいたように、こめかみの水滴を手の甲で拭った。


『本当だね』


 そう言って、くすりと笑った。ちょっと目を細めて、口角を上げて。その瞬間、俺は心臓をぎゅうっと掴まれたみたいになった。ひどく痛かった。


 何だこれ。思わず心臓のあたりの制服を掴んだ。


 その日から、先輩が自分の中から消えない。時間が経って薄れていくどころか、どんどん輪郭が濃くなっていく。気づいたら、あのひとを見つけるのが得意になっていた。


 俺の目は、高性能の望遠カメラになった。どんなに遠くにいても、自動的にあのひとに照準を合わせる。


 いつも静かな空気を纏っていた。有澄七穂という名前を知った。美術部に所属していることも。


 どこか、他人を寄せ付けない雰囲気が彼にはあった。でも、あのひとは自分よりも先に相手を気遣うひとだ。そして、それは俺に対してだけじゃなかった。


 大量の資料を抱えている女性教諭を手伝ったり、休み時間に怪我をしたクラスメイトを保健室に連れて行ったり。


 先輩は、とても優しいひとだ。顔の造作が整い過ぎているのと、無表情でいること冷たい印象だから、俺も誤解していたけれど。


 七穂さんの情報を得ると、自分の中の何か、エネルギーのようなものが満たされていった。それが満タンになれば幸せになると思ったけど、不思議と苦しさのほうが勝った。


 他人を気遣うことはやめて欲しい。俺以外の人間には笑いかけないで欲しい。表情がなくても美しいから、その顔も俺以外には見せじゃダメだ。


 だって、きっと皆が先輩を好きになる。先輩のことが欲しくなる。


 俺のものにならないなんてイヤだ。でも、きっと俺のものにはならない……。


 考えれば考えるほど苦しい。身勝手な、ドロドロした汚い感情が、体の中でいっぱいになって辛い。


 寝ても醒めても苦しくて、俺はその苦しさから逃れるために七穂さんに好きだと言った。


 はっきり拒絶されたら、気持ちが切り替えられると思った。どんなに望んでも、手に入らないものがあることは知っている。


 七穂さんという存在も、同じ。俺が決して手に出来ないもの。


 そう思っていたのに……。


『泣かないでよ』


 あの日、七穂さんは困惑していた。


 俺の頬にハンカチを押し当てながら、弱り切った声で『……泣き止んで?』と言った。


 涙の止め方なんて知らない。勝手に溢れてくるのだから、どうしようもない。


 気づいたら、雨が降っていた。


 泣きながら告白するなんて、格好わるいヤツだなと自分でも思った。


『……ずるいよ』


 七穂さんは、思案するみたいに何度も瞬きをしていた。何か言いかけて、その度に言葉を飲み込んだ。どんな言葉なら俺が傷つかずに済むのか考えてくれているのだろう。優しいひとだ。


『ともだち』


 え……?


『友だち、なら。良いけど。そういう意味で、好きになるのはムリだと思う。それでも良ければ』


 雨の音が遠くなった。


 俺は、彼のそばにいる権利を得た。友だちとして。


 望遠カメラは必要なくなった。至近距離で彼を見られる。そばにいることが出来て、幸せだ。


 でも同時に、真綿で首を絞められているようでもあった。結局は苦しいままなのだ。それでも俺は、どんなに苦しくても七穂さんのそばにいたい。 







「小悪魔なんだよ……!」


 夜のファミレス。俺は熊を呼び出して、思いの丈をぶつけた。


「悪魔?」


「違う、小悪魔!」


「あっそう」


「冷たい美人だと思ったんだけどさ! けっこう笑ってくれて! ニコッてしたときとか最高に可愛くて! 笑顔で首をかしげる仕草まで……!」


 俺は思わず両手で顔を覆った。感情が爆発して泣きそうだ。泣かないけど。


 今、俺はとても大事な話をしている。


 俺の「友だち」である七穂さんが、いかに魅力的かという説明をしているのだ。


 もちろん、七穂さんには了承を得ている。新しい友だちが出来たことを幼馴染に打ち明けたいと申し出たところ、快く了解してくれた。


「……お前、あの先輩に弄ばれてないか?」 


 向かいに座った熊が、俺を冷めた目で見ている。ちょっと憐れんでもいる気がする。


「小悪魔ってそういうもんだろ?」


 俺が大真面目に答えると、幼馴染は天を仰いだ。


 もう、かれこれ二時間ほど七穂さんの話をしている。呆れつつも俺の話に耳を傾けてくれる熊には感謝しかない。さすがは俺の幼馴染だ。


「バイトの後で、よくそんなにしゃべる元気があるな」


「今日はシフトが短かったから!」


 俺は元気よく熊に答えた。


 バイトは、高校入学と共に始めた。オフィス街のカフェだ。フロアはそこまで広くない。それゆえ、あまり体力は消耗しない。


「七穂さんの手、すっごい綺麗だったんだよ~~! 爪の形まで整ってるとかある? たぶんさ、全身が美しいんだと思う。精巧に作られた彫刻みたいな。アフロディーテって知ってるか? 愛と美の女神って言われてるんだけど。いや、聖母マリア像のほうが近いかな……」


 アフロディーテかマリアで迷う。真剣に悩む。


「どっちも性別が違うだろ。あの先輩は美人だけど男だぞ」


 熊がうんざりした顔で言う。


 初めは真剣に相槌を打っていた熊は、気づいたら異星人でも見るかのような目で俺を見ている。


 ドン引きされているのが分かる。でも止まらない。もっと言いたい。七穂さんが存在することの尊さを叫びたい。もしかしたら、オタクにとっての「推し」と近い存在かもしれない。


 オタク的な趣味がないから、俺はオタクと分かり合えることは一生ないと思っていたのに。嬉しい。猛烈な仲間意識が芽生える。


「なんか、全国のオタクと肩を組みたい気分だよ」


 うんうんとうなずく俺を見て、熊が大きなため息を吐く。


「急に突拍子もないこと言い出すなよ。そもそもオタクは逃げると思うぞ」


「え、なんで?」


「中身は残念だけど。お前、外見だけは良いだろ?」


「えぇ……」


 俺ってそうなの? 外見だけなの?


「お前みたいなのを残念イケメンって言うんだよ」


 ……ちょっとひどくないか?


「こんなピカピカのさ、女子にモテまくってそうな爽やかイケメンに肩を組まれるのは絶対にムリだ。口も利いてもらえないと思う」


「そうなのか……」


 俺はがっくりと肩を落とした。


 せっかく推し談議に花を咲かせられると思ったのに……。


「熊」


「なんだ?」


「俺、男子が好きなんだ」


「そうかよ」


 熊が呆れたように俺を見ている。


「知ってた?」


「いいや。でも、あの先輩のことを好きだってお前が喚き始めたころに察した」


「喚くとか言うなよ」


 失礼だな。俺はひたすら健気な思いを叫んでいるだけなのに。


「……水村」


「なに」


「夜に男と一緒にいて良いのか?」


 メロンソーダをストローでかき混ぜながら、熊が俺を見る。


「男?」


「俺」


 熊が自分を指さす。


「残念ながら、熊は俺の好みじゃないんだ。だから安心して夜でも朝でも俺といてくれ」


 熊はデカい。そしてむさくるしい。めちゃくちゃ圧を感じる。期待の柔道部員なのだ。華奢で麗しい七穂さんとは真逆だった。


「お前がそうだったとしても、相手は面白くないんじゃないか?」


「なんで?」


「付き合うってそういうことだろ?」


「つ、付き合って……ない……」


 俺は意気消沈した。


「はぁ? 俺が聞いてるのは、ノロケ話じゃなかったのか?」


「そうだけど。……友だち、だから」


 アイスティーを少しだけ口に含んで、俺は告白した際の経緯を説明する。


「やっぱり弄ばれてるな」


 話を聞いた熊は、ため息を吐きながら断言した。


「違うよ」


「とんでもない小悪魔だ」


「だから、そう言ってるだろ」


 俺はファミレスの机に突っ伏した。


 初めての恋心なので持て余してしまう。俺は女子よりも男子が好きだ。でも実際、特定の誰かに好意を持ったのは七穂さんが初めてなのだ。


 自分が「そう」だと気づいたのは、中学生のときだった。


 もちろん、それがおかしいことでも、悪いことでもないと理解できた。ただ、少数派というだけ。


 頭では分かっていても、それを他人に知られることは怖かった。


 恋愛というものを自分から遠ざけた。女子から告白をされることは多かったけど、その度に「ごめんな」と言って断った。


 恋人がいなくても、好きなひとがいなくても、平和に暮らしていける。そう思っていた。


 中学三年生のころ、熊は柔道部のエースだった。俺と同じように、これまで一度も恋人を作ったことがなかった。


 そんな熊が「彼女が出来た」と言ったのは、部を引退した日だった。


 小柄な少女を紹介された。引退するまでは付き合わない、と二人で決めていたそうだ。 


 ショックだった。熊には、ちゃんといたのだ。恋人になるひとが。好きなひとが。


 彼だけじゃない。皆にもだ。付き合ったり別れたりを繰り返す同級生たち。


 俺だけが、ひとりだった。


 下校時間は、雨が降っていた。


 ひとつの傘しかなかった熊と彼女は、身を寄せ合って歩きだした。


 熊は「じゃあな」と言って俺を振り返った。


 俺は「おう」と返した。


 ひとつの傘のなかで重なり合う二人。


 俺には、あんな風にひとつの傘を傾け合うひとはいない。出来ない。作るのが怖い。


「ひとを好きになること、ずっと避けてきたけど。でも、七穂さんに出会ったおかげで『怖い』がなくなった。『怖い』と思うより前に『好き』とか『尊い』とかでいっぱいになる」


「水村……」


 俺の話を聞きながら、熊が沈痛な面持ちになった。


「どうしたの。俺の話、そんなに感動した?」


 茶化すように言ったけど、相変わらず熊の顔は神妙なままだ。


「そうじゃなくて。心配してる」


「なんで?」


「お前、ストーカーだけにはなるなよ……?」


 おい。なんだよそれ。まったく、失礼なヤツだな。


 俺は怒りに任せて、思いっきりストローでアイスティーを吸い込んだ。


 ファミレスから帰宅すると、七穂さんからメッセージが届いていることに気づいた。


 心拍数が一気に上がる。アワアワと挙動不審になって、危うくスマートフォンを落とすところだった。


『いまなにしてるの?』


 こ、恋人同士みたいなメッセージだ……!


 歓喜のあまり泣きそうになる。でも泣かない。現実は「友だち」だから。


『家にいます』


 サクッと返信した。


 いつも返信が遅いと言われるので、フリック入力を駆使して一秒でも早く画面をタップしようと頑張った。


 それなのに……。


『どうして返信がおそいの?』


 え?


 めちゃくちゃ早かったはず。自分史上最速のフリック入力だと思ったのに。


 よく見ると、七穂さんのメッセージはさっき届いたものではなかった。二時間以上前に送信されたものだった。


 やば……。熊との話に熱中し過ぎて気づいてなかった。


『すみません』


 とりあえず謝っておく。


『きょう、幼馴染と夜ごはん食べるって言ってたよね』


『はい』


 確かに言った。俺は「友だち」に隠し事をしないタイプなのだ。


『たのしかった?』


『まぁ、そうですね』


『どんな話したの?』


 思わず、画面をタップする手が止まる。


 ど、どんなって……。


 七穂さんの話に熱中し過ぎていたとは言えない。さすがに恥ずかしい。


『秘密です』


『ふーん』


『僕にはいえないことなんだね』


 あ、怒ってる……? ご機嫌ナナメか?


 俺は慌てて弁解した。


『他愛のないことれれれす』


 しまった。「他愛のないことです」と送るつもりが。だから下書きしないとダメなんだよ!


 送信を取り消す前に、七穂さんから返信が来た。くそっ! 何気にあのひと、早いんだよな……!


『ずっと待ってたのに』


 メッセージと共に、ラッコのスタンプが届く。つぶらな瞳が涙で濡れている。『ぐすん』だってさ。


 出たよ……! 小悪魔……!


 尊いが過ぎて、俺は昇天しかけた。ベッドの上でゴロゴロと転がる。勢い余って壁に激突しそうになった。


 続いて、ぷんすかと怒るラッコのスタンプも届いた。貝をポコポコ叩いている。


 スタンプさえ可愛いの何なんだ……!


 速攻で同じスタンプをゲットする。


 ラッコが手を頬に当てながら「ゴメンネ」とつぶやくスタンプを送信した。


 ちなみに、この仕草は体温低下を防ぐためらしい。手のひらには毛が生えていないから、頬に手をつけて温めているらしい。


 無駄にラッコの知識を得てしまった。とりあえずラッコが可愛いので、関係のない『了解!』と言いながらスイ~~と海を泳ぐスタンプや、貝をせっせと懐に仕舞い込む『まだまだいける』のスタンプも送信する。ぷかぷかと波に揺られる『OK!』も送った。


 どうやら、可愛いラッコのおかげで七穂さんの機嫌は直ったらしい。


 つぶらな瞳でこちらをジッと見ながら『ゆるす』というラッコが届いた。ほっと胸を撫でおろす。このラッコは、なかなか良い働きをする。


 ベッドの上で、ようやく落ち着いた。仰向けの体勢で息を整える。安堵していると、とんでもない爆弾を落とされた。


 他のラッコと手を繋ぎながら泳ぐスタンプ。動く『LOVE』の文字。


「いて……!」


 衝撃すぎて、思わず手からスマートフォンが落ちた。俺の額に見事ヒットする。


「さすがに、小悪魔がすぎませんか……?」


 半泣きの声が俺の口から漏れる。激しい動悸は、しばらく収まりそうになかった。





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