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第10話 甘い香り

 クローゼットの奥からユニフォームを引っ張り出し、それを眺めた。


 走りたくなったら走る、と鈴江には言ったが、俺は卒業してから一度も走っていない。


 プロや実業団で活躍している同級生は大勢いるはずだが、実際のところはよく分からない。連絡を取っていないし、定期的にあるらしい集まりにも顔を出さずにいる。


 夢中で走っていた頃のことを、遠い昔のように感じる。


 まだ、半年も経っていないのに。


 カタン、と小さな音がした。振り返ると、柊が立っていた。


「どうした?」


 柊は、浮かない顔をしていた。


「……いえ、なんでも」


 俺はユニフォームをクローゼットの奥に戻した。


 風呂から上がったばかりの柊からは、いつも石鹸の匂いがする。


「髪、濡れてないか? ちゃんと乾かさないとダメだぞ」


 Ωは風邪をひきやすい。免疫不全のΩにとっては風邪が命取りになることもあるので、日々の生活には細心の注意を払う。


 反対に、αである俺は頑丈なので滅多に風邪をひかない。髪が濡れたままでも、上半身裸で寝ていても、どうということはない。


「……大丈夫ですよ」


 目を逸らしながら、ぎこちなく柊が笑う。もしかして、俺はお節介が過ぎるのだろうか。別に子供扱いしているわけではないのだが……。でも、うるさいと思われたくないので、これから気を付けよう。


 俺が一人で反省している間に、柊はベッドにもぐりこんでいた。


「……はやく、寝ましょう」


「ああ……、そうだな」


 おやすみ、と言って俺もベッドに入った。


 明かりを消すと、すぐそばにある石鹸の匂いを強く感じる。なるべく意識しないようにして目を閉じる。


 ふいに、石鹸の匂いに混じって、甘い香りがした。入浴剤でも入れたのかなと思っていたら、急に心臓がドクンと大きく跳ねた。


 一瞬、息が出来ないくらいの大きな衝撃だった。


 何だこれ、と思いながら浅い呼吸を繰り返す。甘い匂いはどんどん濃くなっていった。体を起こすと、隣の柊がわずかに身じろぐ気配があった。


「ん……うぅ……」


 苦しそうな柊の声を聞いて、俺は慌てて部屋の明かりを点ける。


「柊? 大丈夫か?」


 覗き込むと、柊は苦しそうに喘いでいた。


「そう、いちろう、さん……」


 とろん、とした目で見上げられて、その瞬間、全身からドッと汗が噴き出した。


「ぼく……からだ……あつ…い」


 柊の頬は上気していた。はぁはぁと息苦しそうに喘いでいる。


 噎せ返るような甘い匂いがする。この香りは、柊が放っているのか?


 花の蜜みたいな、甘くて濃厚で、とても良い香り。


 もしかして、これって……!?


 咄嗟に鼻と口元を両手で覆った。でも、そんなことで甘い匂いから逃れられるはずもない。どうにかしないと、と思うのに、その方法が思いつかない。というより、何も考えられない。


 頭の中がドロリと溶けていくような感覚があった。


 気づいたら俺は柊に伸し掛かっていた。ぼんやりとしていた柊の表情が元に戻った。我に返ったようだった。


「あ、あ……ぼく……」


「ヒートになったみたいだな」


 今まで聞いたことがないような、冷たい自分の声にゾッとした。反射的に俺を押しのけようとする柊の細い腕を掴み、ぐっとベッドに押し付ける。


 柊は嫌がっている、だから止めないといけない。そう思うのに止められない。腹の奥がドロドロと熱く滾る。


 小さな体は、小刻みに震えていた。それを見下ろしながら俺は、自分の気持ちが残酷なくらいに高揚していくのを感じていた。


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