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第5話 もう走らない

 俺が内定を得ていた企業へは、学園のほうから辞退の申し入れをしてもらった。口止めされたわけではなかったが、俺は須王と結婚することを誰にも言わなかった。


 ただ、卒業を間近に控え、鈴江だけには打ち明けることにした。


 昼休みの空き教室。鈴江は憮然とした表情で俺の話を聞いていた。テンション高めに「逆玉すげぇ!」くらい言われるかと思っていたので、拍子抜けしてしまった。


「びっくりだよな? 俺もまだ信じられないよ」


 なぜか俺のほうがヘラヘラと笑ってしまう。


「正直に言うと、須王の家に入るの気が重いんだよな。ほら、俺は普通の家しか知らないからさ。しきたりとか? そういうのあるんだろうけど、ちゃんとやっていけるか心配でさ」


「……宗一郎は、もう走らないのか? 本当にそれでいいのか? 毎日、何のために苦しい練習をしてたんだよ!」


 鈴江は怒っていた。


 真剣な顔で、俺に何度も「本当にいいのか」と訴える。


「……走りたくなったら、走るよ。どこでだって走れる。俺は元々、ただ走ることが好きだったし。だから、もう良いんだ」


 鈴江が怒ってくれて、俺は本当にもう、これで良いと思えた。


「俺、鈴江と友達で良かったよ」



◇◇◇



 卒業して、俺は正式に春名宗一郎から須王宗一郎になった。


 当初、結婚式をする予定はあったのだが、柊の体調を考慮して見合わせることが決まった。


 柊は俺が卒業する少し前から入院している。4月初旬に「盛大にするぞ」と理事長が張り切っていた柊の誕生日会も延期になった。


 免疫不全の症状が進むと、ヒートの周期が不安定になるらしい。


 だから、俺たちはまだ番になっていない。


 俺は大学に通いながら、須王のグループの中核企業である自動車メーカーで働いている。


 柊が病院にいるので、現在の俺は一人暮らし状態だ。


 てっきり、彼が幼い頃から暮らしていた本家で生活するのだと思っていた。けれど、新居として俺たちに用意されたのは、社宅だった。


 須王自動車に勤める社員が暮らす社宅。3LDKでそれなりに広いのだが、マンションというよりはアパートと言ったほうが正しい外観だった。


 セキュリティは大丈夫なのか、大事な孫を慣れないアパート暮らしさせてどうするつもりだと、俺は理事長の顔を思い浮かべながら問う。


「でも俺は住み心地良いんだよなぁ」


 社宅に住んでいる人間は一般人。俺も一般人。気が楽だ。共用廊下で社員やその家族とすれ違うと、だいぶ恐縮したような顔をされるので、そこは申し訳ないなと感じるのだけど。


 今日は仕事から帰ると夜の十時を過ぎていた。もう寝ているかなと思いながら、俺は柊に「体調はどう?」とメッセージを送った。最低、一日に一度は何か言葉を送るようにしている。


 メッセージはすぐ既読になった。


『だいぶ良いです。一人で起き上がることが出来るし、ご飯も食べられます』


 それなら良かった、と安堵する。


『宗一郎さんは、何か食べましたか? もしかして今、帰ったところですか』 


 いつだったか「忙しくて昼食を食べ損ねた」とメッセージを送ったことがあった。自分としては、何気ない日常の出来事を話しただけという感覚だった。


 元々、昼食は野菜ジュースだけという生活を続けていたので、どうということはない。けれど柊は気になるようで、毎晩のメッセージのやり取りで必ず「今日は食べましたか?」と聞いてくる。


『軽く食べたよ。さっき帰ってきて、これから風呂に入るところ』


 本当は食べていない。気づいたら今日は丸一日、何も口にしていなかった。空腹は感じているが、帰ったら大学の課題をやろうと思っていたので、食事をして眠たくなるのが嫌だった。


 大学と仕事の両立は、想像していたよりも難しかった。でも、出来る限り努力した。


 α社会にはヒエラルキーがある。家柄もそのひとつだが、両親のどちらかがαであることも重要視される。「両親がβだから」と、須王学園に入った頃から何度か否定的な意味合いで言われることがあった。


 須王グループは完全なα社会だ。重要な役職に就く人間は必ずαで、彼らの両親もまた、どちらかが必ずαだった。俺は「両親がβだから」と言われたくなかった。そのためには、努力するしかない。


『お疲れさまです。早く寝てくださいね』


『もう寝るよ。柊も体に障るから、早く眠ったほうがいい』 


 おやすみ、と送って俺はメッセージを終わらせた。


 本当は朝までに課題をやって、それから大学へ行き、終わったら出社する。


 何気ない嘘をつく度に、上手に仮面を被れている気がして、俺はそんな自分に満足していた。


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