二階にある自分の部屋に入って大きく息を吐く。
頭の中が混乱している。冷静に考えようと思っても、うまく思考がまとまらない。正直、自分が結婚するイメージが湧かない。
相手が須王だと考えると余計にリアルだとは思えない。でも、嫌だとは感じない。たぶん、俺が引っ掛かっているのは進路のことだ。
陸上選手になることは夢だった。でも、自分は特別な選手ではない。先は見えている。父のような選手になれないことも分かっている。
ただ走ることが好きならば、必ずしも競技として続ける必要はないのではないか。これは、逃げなのだろうか。
須王を名乗ることにも不安がある。一般家庭しか知らない自分が、須王家の人間として生きていけるのか。グループ会社のひとつを任せてもいいと言うけど、経営者としての才覚が俺にあるだろうか。
「俺が無能だったら、どうするんだ……」
俺は自嘲するように笑った。考えても答えが出ない。考えたところで、実際にやってみないと分からないことが多すぎる。
明確に断る理由が俺にはない。父親の立場もある。だったら、もう前に進むしかない。
俺は翌朝、両親に「結婚するよ」と明るく言った。
◇◇◇
須王は、俺が結婚相手だということを知っているのだろうか。
進学科と体育科は校舎が離れている。会う機会がないので、それを確かめる術がない。カフェテリアで顔を見ることはあるが、常に取り巻きが壁となって立ちはだかっている。
練習終わりに片付けをしていると、図書室の明かりが見えた。いつものように須王の姿があった。
彼は勉強をしていなかった。ただ椅子に座って、ぼんやりとしていた。
周囲に人がいるときに見せる華やかな笑顔ではなく、机に向かっているときの高潔で凛とした横顔でもない。
須王は昏い目をしていた。
その表情にぎくりとする。
もしかしたら、須王は結婚などしたくないのかもしれない。
だから、あんな風にすべてを諦めたような虚ろな目をしているのではないか。
結婚自体が嫌なのか、相手が俺であることに納得できないのかは分からないが、どちらにせよ須王に望まれていないのは確かなようだった。
「そっか……。望まれてないのか、俺」
相手の本意ではない。
そういう結婚をするという事実が、俺の心に重くのしかかってきた。
◇◇◇
それから数日後、須王のグループ企業のひとつであるホテルのラウンジで、俺と須王は顔を合わせた。
俺の両親と、学園の理事長でもある須王の祖父も同席した。須王の両親は、彼が幼いころに亡くなったらしい。
「うちの学園の生徒が柊の相手になるとは思わなかったよ。いや、本当に良かった」
理事長は俺を見ながら、何度も満足気に頷いた。
「こ、この度は、まことに……、もったいないようなご縁でありまして……」
俺よりも両親のほうが緊張している。母親は朝から「気が遠くなりそう」と言っていたし、父親は鏡の前で「慣れない正装で肩が凝りそうだな」と呟いていた。数日前から練習していたはずの挨拶だって噛みまくっている。
俺と須王は制服を着用している。普段通りの格好をしているおかげなのか、俺は緊張しているがいつも通りに振舞えている気がする。
「僕も素晴らしいご縁に、とても感謝しています」
初めて間近で見る須王は、精巧に作られた人形のようだった。美しく、けれど血が通っていないように感じる。そして終始、笑顔だった。
あんなに昏く、虚ろな目をしていたのに。
今の表情は、取り巻きに囲まれているときと同じ顔だ。
もしかしたら、彼は笑っているように見えて、本当は笑っていなかったのだろうか。本心を覆い隠すように、ずっと仮面をつけているのか。
俺の前でも、そうしていくつもりなのだろうか。
だったら。
「必ず柊くんを幸せにします」
期待しないように。自分が傷つかないために。
俺も仮面を被ると決めた。
◇◇◇
「宗一郎くん」
帰り際、ホテルの出口で理事長に呼び止められた。
「君がこの話を受けてくれて、本当にありがたく思っている」
「……いえ、こちらこそ」
「柊は二歳のときに、父親が事故で亡くなってね。母親のほうはまだ免疫不全が安定していなかったんだ。元々、症状が酷いΩだったから、後を追うようにして亡くなってしまった」
理事長は、学園にいるときよりもずっと小さく見えた。
「死なせずに済んだかもしれないと、ずっと後悔していたよ。何かしてやれることはあったはずだと。だから、あの子には出来ることは何でもするつもりだ」
それで政府機関に手を回したのか。一番相性の良い相手を見つけるために。
俺は彼を守るための道具になる。もう決まったことだ。俺が、前に進むと決めたのだ。