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第20話 トトの千里眼

「ぼくね、さいきん、ウォルフのこと考えるとむふふってなるんだ」


「むふふ?」


 何だそれは。


「むふふってなると、胸の奥がドキドキして、体があつくなって、せつない感じがするんだよ」


 急にエマが小声になる。俺の首に腕をまわし、耳元にくちびるを寄せる。


「ウォルフもぼくのこと、むふふって思う?」


「ど、どうかな」


「きすしてもいい?」


 ブルーとグリーンの宝石みたいな瞳がゆっくりと伏せられた。そして、ふにゅりとエマのくちびるが俺のくちびるに押し当てられる。


 驚いて体が硬直した。固まったままの俺を見て、「ちゃんときすして」とエマがたしなめるように言う。


「……ちゃんと目を閉じて。きすはね、目を閉じてするんだよ」


 この知識もあの一角獣の仕業だなと苦々しく思う。


「ふ、風呂に入ってくる……」


 このままでは完全にエマのペースだ。


「ぼく、このままべっどで待ってるね」


「待たなくていいから。もう寝なさい」


「どうして? これからせっくすするのに」


 エマがぷうっと頬を膨らませる。


「し、しません! とにかく、そんなふしだらな言葉を使うのはよくないんだからな! もうダメだぞ!」


 俺はエマに念押ししてから、風呂場に駆け込んだ。


 衣服を洗い、体を清めて湯船につかる。触りもせずに射精するなんて、俺もまだまだ若い。ウォルフは19歳だから、若者であることは間違いないのだが、前世の記憶がある分、もう少し年嵩のような気がしてしまう。


(気分的には何歳だろうなぁ。前世は19歳まで生きたから、足したらまぁまぁの年になるよな)


 ほかほかになりながら、ぼんやり考える。


「あの、ウォルフ……?」


 扉の向こうからエマの声がした。


「さっきのセーターなんだけど……」


「あ、ああ。どうかしたか?」


「ほんとうに、ぼくのために編んでくれたの?」


 そういえば、自分のではないとか言っていたな。 


「もちろん、そうだ。俺はエマにしか編まない。イザールのことだって誤解だ。俺が抱きしめたいと思うのはエマだけだから」


 顔を見なければ、これくらいのことは言える。イザールのことはきちんと説明して、エマも納得してくれた。


「そうなんだ……。ぼく、てっきりウォルフが女の人のこと抱きしめてると思っちゃった。そう見えたんだよ。そうしたらね、トトがあれはうわきだって教えてくれて」


 一角獣め。余計なことを。


「ん? もしかして、トトと一緒に町へ行ったのか? よく見つからなかったな。でも、もうダメだぞ。町の人間がトトを見たら大騒ぎになる」


「ぼく、町には行ってないよ。トトと見てただけ。だってウォルフ、小屋に来てもすぐに帰っちゃうし、前みたいに抱きしめてくれなくなったし、すごくさみしくて……。それでぼく、トトにそうだんしたんだ。そしたらね、トトが見せてくれた」


「見せてくれた?」


「うん! 声は聞こえないんだけどね、それでもウォルフがパン屋さんしてるところとか、編み物してるところとか、たくさん見れてうれしかった」


 どういうことだ? 


「トトは、遠くのものが見えるんだよ。いいよねぇ、ぼくもそういう力があったらいいんだけど」


「そういう力があるのか……」


 千里眼みたいなものだな。やるな、あの一角獣。それにしても、いろいろ余計なことをエマに吹き込むのはやめてもらいたい。次に会ったら絶対に忠告しなければ。


「ウォルフ、ありがとう。このセーターね、着たらすごくすべすべしてて、気持ちいいよ」


 どうやら着てくれたらしい。


「ヤク・シープの毛糸だからな」


 肌ざわりが良く、暖かいのにとても軽いのだ。


「ウォルフ!!」


 エマが勢いよく扉を開けて風呂場に侵入してくる。


「な、何だ!?」


「ありがとう! ぼく、うれしい!」


「お、おう」


「ぼくの返事は、ハイだからね?」


 まさか。


「ヤク・シープの意味、知ってるのか?」


「うん! トトが教えてくれた!」


 うれしそうに微笑むエマを見て、俺は湯船のなかで正座した。


「エマ、とにかく……その、そういうことだから。つまり、その……あの……」


 伝えたいことがちゃんとあるのに、本人を目の前にしたらよく分からない緊張感に襲われた。


 前世と合わせたら、それなりに年を食っているはずなのに情けない。肝心なことも言えないのか俺は。


「分かってる。ぼくとけっこんしたいんでしょ? ウォルフはしっかり者に見えて、かんじんなときにちょっとだけへたれになっちゃうね」


 ヘタレとか言うなよ。


「これからは、ぼくがしっかりするからね。だから、ずっと一緒にいようね」


 目の前で、やさしく笑うエマはきれいなお兄さんだった。


 前世の記憶がある自分よりもずっと、エマが大人に見えた。本当にエマは大人だったんだと、世間知らずの子どもだと俺がエマを見くびっていたのだと、今になってようやく分かった。


 エマが腕を伸ばして俺を頭を撫でる。いつもと逆だ。急にほっとして、涙が出そうになった。


 俺は、誰かにこんな風にしてもらったことが無い。


 前世では長男で、いつもきょうだい達の面倒を見ていた。両親は仕事で家にいなかったから、みんな俺のことを頼りにしていたし、だから俺が親代わりになるしかなかった。


 今のウォルフの人生でも、母親代わりのグリーゼは厳しいひとだったし、自分が彼女と血がつながっていないことは物心つくころには知っていたから、どうしても甘えることができなかった。


 でも本当は、俺だって誰かに甘えたかった。


「ウォルフはいつもおとなで何でも知ってて、すごく格好良いのに、ときどきかわいいね」


 俺をよしよしするエマの手がやさしくて心地よい。


 エマの手は、よく見ると少しだけセーターで隠れている。長かったらしい。やはりきちんと採寸するべきだった。今度編むときは、きちんとエマの体を確かめてからにしよう。


 毎日一緒にいるのだから、少しずつ大人のエマにも慣れていくだろう。萌え袖のお兄さんにドギマギしながら、俺はそんな風に思った。


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