青ざめた表情を浮かべながら小走りに移動している青年を発見し、ヴァーバは声をかける。
「そんな顔をしてどうしたのじゃ」
「……そ、村長……」
その青年は、全身の力が抜けていき地面にへたれ込む。
「いったいどうしたというのじゃ」
「お、俺にもよくわからないです。で、でも荒々しい声で『逃げろ!』って声が聞こえて。でも誰の姿も見えなくて」
「そなたはどこから逃げてきたのじゃ」
「お、俺は……家に水を運んでいる途中だったんです」
「声だけ聞こえて逃げた、と言われてもなぁ」
「ち、違うんです。その声は1人だけのものじゃなくて――」
俄かには信じ難い状況ではあったが、次の瞬間、全てが現実を帯びる。
「急げー!」
「逃げるんだ!」
「急いで準備をしろ!」
証拠のない虚言という可能性は消え、姿は見えずとも断末魔のような声も混ざり始めた。
青年は一度力なく話していたものの、バッと顔を上げて走り去ってしまう。
「村長、こんな状況になりそうなことって何が思い浮かびますか」
「まだ結論付けることはできなぬ。誰か……そう、山賊のような人間が村へ攻め入っている可能性もあるからの」
「想像したくないですけど、つまりは、それぐらいの事態にならないとこうならないってことですよね」
「うむ……とりあえず、確認しないことにはなんとも言えぬ」
「それ、それが行っても何もできない未来しか見えないんですけど」
「もしものときは担いで逃げてやるから、とりあえず一緒に来るのじゃ」
「よ、よろしくお願いします」
声が聞こえる方へ駆け出し、最中にユウトは、フェリスとリリィナが使用している湖の建物等を思い出していた。
(そういえば、あの建築物とかは村長が救ったって話だったよな。しかも【魔法】や【霊法】を使わずにってことは……見た目に寄らず、怪力を秘めているんだろう。物理的に怖いから逆らったらヤバそうだ……)
今更ではあるが、話し方や肌のしわなどが気にならないほど真っ直ぐな姿勢と、普通に走っている姿を見てそう再認識した。
事態の確認を急いではいるものの、近くをすれ違う人々には声をかけず一刻も早く状況を正確に把握するため――と、ユウトは推測する。
しかしヴァーバが思っていたことは簡単で、最初の青年みたいな、状況を正確に説明できない人間と話しても時間の無駄となってしまうから、というもの。
そして、向かう先にある場所に心当たりがあり、ユウトが立てた推測と最悪な状況を憂慮しつつ、それら全てが杞憂であってほしいと願っていた。
「――ユウト、そろそろ着く」
到着したのは解体所。
完全に人の気配はなく、ユウトの耳には悲鳴の類も届かなくなっていた。
「こ、ここですか?」
目の前に建っているのは納屋。
ユウトは自身は何も聞こえていないことから、どうしてここへ、という疑問を抱くも、切羽詰まって息を切らすヴァーバに質問できずにいた。
そんな静寂の中、ヴァーバはユウトの確認へ返答せずに納屋の扉を介抱した。
「――村長!」
室内に居たのはフェリス――と、あのとき対峙していた獣だった。
しかし、阿鼻叫喚して退避するような状況ではなく、ヴァーバは呼吸を整えつつ平静を保って口を開いた。
「……フェリス、この状況を説明しておくれ」
「はい。さっき、この獣を解体しようとここまで運び終えました。そこまではよかったのですが、私が魔法を解除したと同時に、明らかに足が動いたのです」
「ほう……」
「それで、今はこの状況を維持して時間の経過を待っているところです」
「どのような対処をしておるんだい」
「今は催眠状態を維持しています。負傷状態にあるので、時間の問題だと思うのですが」
「そうじゃな。何事かと心配しておったのじゃ」
「俺も焦ったぁー。もう、心臓がドッキドキだったんだぜ」
「でも油断しちゃダメだよ。私が気を抜いちゃったら、暴れ始めちゃうかもしれないんだから」
「うー怖い怖い」
ユウトとヴァーバは額の汗を拭い一息つく。
建物の中心に横たわる、大狼、その正面に立って両手を前に出すフェリス。
誰かが盛大にくしゃみでもしたら大惨事になりかねない状況ではあるが、最悪の想定は実現しなかった。
「ユウトやい。今頃、村中が大騒ぎになっているだろうから手を貸してはくれないか」
「……」
「村人に対して、いろいろと思うことがあるのじゃろう。じゃが、今はユウトもその1人なのじゃから、今だけと割り切ってはくれぬかの」
「正直な話。俺は、今回の騒動が良い薬になってほしいと思っています」
ヴァーバが察している通り、ユウトの中では負の感情が渦巻いている。
今まで、フェリスやリリィナ、その両親と奇異の目を向けて遠ざけ、自分たちにはできないことを押し付けてきた事実がある。
その結果、家族に悲劇が訪れてしまい、しかしそれでもその意志は村人を守ることを優先した。
2人の少女は両親の遺志を受け継ぎ、結界を維持し続け、食料を採り、こうして今も村人を守っている。
事実を知ってしまったからこそ、起きていることを把握しているからこそ、ユウトは口に出さないが「ざまあみろ」と心の中で呟いた。
「でも、村長に言われたことはその通りですね。俺も、今は【ウォンダ村】
の村人になったんですから、村長のお願いは断れません」
「ありがとうユウト」
「あ、そうだ村長。この木剣、フェリスとリリィナに作ってもらったんですよ」
「ちょ、ちょっと。ここでそんな話しないでよ」
「だって最近はフェリスと村長がゆっくり顔を合わせてないと思ってさ。それで、まさかのスキルがどんなものか判明したんですよ」
「ほほお、それは興味深い話じゃの。じゃが、リリィナの言っている通りじゃ。歩きながら話をしよう」
「心の中で、使うって思えば発動できるんですよ」
「いいからいいから、続きは――」
「えっ」
木剣を握って、子どもが親におもちゃを買ってもらっからのように目をキラキラと輝かせていたユウトを、ヴァーバが背中を叩いて連れていこうとした、そのときだった。
「ん?」
ユウトはフェリスの声を聞き逃さず、目線を向けると。
「ど、どうして」
ついさっき顔を観たときは、唇を尖らせて少し恥ずかしそうにしていた。
しかし今は一変し、目を見開いて驚愕を露にしている。
ヴァーバもそれに気が付き、ユウトと一緒にフェリスが向く目線の先へ顔を向けると――。
「え」
「な、なんじゃと」
フェリスの【霊法】によって睡眠状態にあったはずの獣が、瀕死状態にもかかわらずビクビクと痙攣しながら立ち上がり始めていた。
「フェリス、俺が悪かったって。すげー反省しているからさ、もう許してくれよ」
「ち、違うの。私は一瞬でも解いたりしていないよ」
「村長、これは何かの冗談ですよね?」
「……まさかとは思うがユウト」
「は、はい」
神妙な面持ちのヴァーバは、呼吸を小刻みに早くしながらユウトへ問いかける。
「さっき、スキルを使ったりしたかい」
「はい。もしかしたら村長にも見えるかなって思って」
「リリィナ、ユウト。よく聞くのじゃ――今、目の前に居るのは魔物で間違いない」
「え!?」
「はい??」
「リリィナ……覚悟を決めてはくれるかい」
「それってどういうことですか村長。お、俺はどうしたらいいんですか」
リリィナは全てを悟り、ユウトの様に取り乱さず快く頷く。
「――わかりました、村長」
「すまない。じゃが、1人にはさせない。村長としての役目であり、もっと早くこうするべきじゃったんだ」
「な、なあ。わからないって俺。いったい何を話してるんですか」
「ユウト、短い時間だったけど仲良くしてくれて本当にありがとう」
「なんだよそれ、どういうことだよ。それじゃあまるで、最後の別れじゃねえか」
「ねえユウト、最後にお願いがあるの。リリィナを連れ出して一緒に逃げてほしいの」
「はぁ!?」
「ユウト、時間がない。わしらで時間を稼ぐ。じゃから、村人の避難を手伝ってはもらえぬか」
「わかんねえ、わかんねえって!」
いいや、ユウトは事の流れを既に理解している。
これから待ち受ける、悲劇の再来を。
しかしだからこそ、自分がこの場で何もできない悔しさにやるせない気持ちを抱きつつ、「何かしてくれ」と命令して欲しくも、死への恐怖にそう言い出せない惨めさに苛まれていた。
「ユウトお願い、行って! リリィナまで巻き込みたくないの!」
「ユウト頼む。1人でも多くの村人を逃がしておくれ」
「……どうして俺は何もできないんだ……」
拳を握り締め、歯を食いしばり、顔が強張る。
しかし時間がないことは、もうすぐ完全に立ち上がってしまう獣――魔物が視界に入っているから嫌でもわかってしまう。
刻一刻と迫る時間に、駄々を捏ねる時間の猶予はなく、後悔の念に駆られる時間もない。
「……ごめん――」
ユウトは何一つ決断できないまま、納屋から飛び出して行った。
「フェリス、ごめんね」
「謝らないで村長。私は、お父さんとお母さんが村人を守ったことに誇りを持ってるんだよ。だから、次は私の番」
「両親にいいところばかり似てしまってなぁ。わしも嬉しく思うよ」
フェリスの内心は今日や不安でいっぱいになっている。
しかし、最後に観た両親の笑顔と優しさを思い出し、涙は見せない。
「わしも、もっと早くこうしておけばよかったのじゃ。久々に腕が鳴るわい」
「お父さんとお母さんが言ってたよ、『村長を怒らせると超怖い』って」
「はっはっは。わし、実はフェリスのお父さんをビシバシしごいていたからのぉ」
「もっと、いろんな話を聞きたかったなぁ」
フェリスの願い虚しく、大狼は立ち上がってしまう。
『グルルルルルゥ』
「最初からかっ飛ばすよぉ!」
ヴァーバは先手必勝――大狼の頬へ拳をねじ込み、納屋の壁をぶち破って外へ殴り飛ばした。