「ただいま戻りましたー」
「おかえりなさいアル」
アルクスは不思議な感覚に陥った。
マーリエットの声がすぐ傍から聞こえてくるのに、姿が見えない。
まるで透明人間にでもなってしまったのか、と一瞬だけ考えるも、答えは実にシンプルなものだった。
「もう少しで拭き終わるから、ちょーっとだけ待っていて」
その声が聞こえる高さまで姿勢を低くする。
すると、机の下に潜って雑巾で一生懸命に拭き掃除をしているマーリエットの姿があった。
『そんなに姿勢を低くしたら、財宝のように輝く黄金の髪が汚れてしまうじゃないか』と心配するも、器用に髪を束ねて後頭部上部にお団子を作っていた。
アルクスはその始めてみる髪型に、物珍しさを抱きつつも、それでも服は床を擦っていて少し残念な結果を目の当たりにしてしまった。
「よーっし、終わったわ! ――はぐゅん!」
「だ、大丈夫!?」
盛大に、それはまさかそうならないだろうという事が目の前で起きた。
自分にできる事を探し、自ら進んで床の拭き掃除をしていた事を褒めようとしていたのに……なんと、振り向いて立ち上がる際に『ゴンッ』と机の天板に頭部を強打してしまったのだ。
誰がどう見ても痛そうなやつ。
そして、追撃。
「あっ痛い!」
ぶつけた衝撃に驚いて体を跳ね上がらせたのだが、そこから床に臀部を全体重乗せた勢いの良いヒップドロップをしてしまったのだ。
こんな綺麗な踏んだり蹴ったりといった状況はそう見られないだろう。
ミシッダであればこの状況に腹を抱えて大そう面白く笑い転がるだが、アルクスはすぐさま駆け寄った。
「あいたたた」
「大丈夫? 怪我はなさそう?」
「大丈夫よ、ありがとう」
左手でおでこを抑えるマーリエットに、アルクスは手を差し伸べる。
立ち上がっても未だ痛そうにしているが、アルクスはロングスカートの裾が汚れてしまっているのが気になってしまった。
「ほら、こんなに汚れちゃって」
アルクスはすぐに跪く。
「えっ、へっ!?」
スカートをいきなり持ち上げられ、マーリエットは動揺を隠せない。
だが、慌てふためこうとすればするほど、あられもない姿を晒すことになってしまうと一瞬で悟った。
それにこの行為に対し、邪な心など微塵もないというのはアルクスの顔を見たらすぐにわかる。
アルクスは、埃がまとわり付いてしまっているのを手でパッパッと払い落としている。
一ヵ所が終われば座り位置を変え、また次へと。
その間、マーリエットはその好意を甘んじて受け止める事にした。
作業時間はそこまで長くなく終わる。
「アルクス、ありがとう」
「いいよ。マーリエット、いろいろと頑張ろうとしてくれるのは嬉しいんだけど、自分が汚れてちゃダメだよ」
「そうね、ごめんなさい」
「最初から完璧にできる人なんていないから、気にしないで。ミシッダさんの服だと、ちょっと長そうだね」
「そうかも。身長差があるから仕方ないよ」
「ん~、マーリエットは後どれぐらいここに居るか決めてたりする?」
マーリエットはその質問に一瞬、心臓がグッと持ち上がる。
「え、ええ……今後の予定はまだ決めていないの」
「元々は一人暮らしだったの?」
「そうなの。だから、そこまで焦って帰らないといけないって事でもなかったり」
「なるほどね。いろいろと大変だったんだし、帰りたいなって思うようになったらでもいいんじゃないかな」
「……ありがとう。そうさせてもらおう、かな」
マーリエットは、探りを入れてきているわけではない純粋な質問に対し、恩を仇で返すような嘘で返してしまい罪悪感に苛ませる。
「じゃあ、もう数着は服を用意した方がいいよね」
「そこまでしてもらわなくていいよ。ただせさえミシッダさんから何着もお借りしているんだし」
「いやいや、マーリエットは僕と同い年なんだからさ。いくら居候ってかたちで住んでいるとしても、少しぐらいはオシャレしたいでしょ。女の子なんだから」
「でも、私は返せるだけのお金を持っていないわ。ただ善意を受け取るだけでは、私も苦しくなっちゃうわ」
「それなら大丈夫。台所は後々で良いとしても、掃除とか洗濯をしてもらえるようになったら立派に働いている事になるよ。正当な働きには、正当な評価と対価をってね」
「お、おぉ」
マーリエットはその家柄から、一般市民のような労働をした事がない。
メイドなどの掃除を一緒にやったりした事はあるが、そのどれもが気を遣われ、既に掃除し終えた場所を二度拭きしていただけだった。
そんなお姫様が、自ら体を動かし、自らの働きを認められる事は新鮮かつ喜びを覚えている。
「私、もっといろんな事ができるように頑張る。頑張ってみせる!」
「そうそうその調子。拭き掃除ができるようになったら、次は洗濯だね」
「あ、あれ? 洗濯って、今は誰がやってくれているの?」
「どうして? 僕だよ?」
「え」
純粋な眼差しで首を傾げるアルクスを前に、マーリエットは一瞬にして全身が羞恥心に染まってしまう。
「えっええええええええええ!」
「ど、どうしたの!?」
「せせせせせ洗濯を今日からできるように頑張ります! 絶対に今日できるようにします!」
「マーリエットは勉強熱心なんだね。よーっし、そうと決まれば拭き掃除を一緒に終わらせちゃおう!」
当然、年頃の少女が抱いている感情など、残念ながらアルクスは理解できていなかった。
アルクスは流石なもので、マーリエットが苦戦していた箇所を見る見るうちに終わらせていく。
「あ、そういえばちょうどいい案があるよ」
「え?」
「村で同い年の人と知り合ってね。その女の子に服の事を相談しながら買ってみるよ」
「お、おぉ。それは一安心ね」
「ね。さすがに僕は女の子の趣味とかはわからないから、その子に頼らせてもらうよ」
「ごめんなさい、本当だったら私が行くべきなんだろうけど」
「いやいや大丈夫。僕は顔を見られていないだろうけど、マーリエットはまだ危ないと思うから。僕に任せてよ。後もう少しだから、頑張ろ!」
アルクスの純粋な笑顔に、マーリエットは胸が締め付けられた。