「……っとこんな感じ。大丈夫そうかな?」
「う、うん。家の中は奥から玄関方向に向かって掃く。次は庭先、裏庭を掃いて――うん、覚えた……と思うけど、復習のためにとりあえず一度だけやってみるわ」
「そうだね、その意気。じゃあ、僕はちょっと出掛けてくるね。帰りは晩御飯の支度をするぐらいになるから、留守をお願い」
「任せておいて。掃き掃除を完璧に覚えたら、衣類を畳む練習をやってみるわね」
「あれって、簡単に見えて案外慣れるまで難しいからね。――あっ、くれぐれも台所にだけは立っちゃダメだから」
「わ、わかっているわよ!」
二人は他愛のない会話を交わし、互いに笑みを浮かべる。
されどマーリエットは若干だけ疎外感を覚えていた。
毎回、行き先や用事の内容を告げてくれるアルクスであるが、こういう時だけはその内容を教えてくれない。
今朝、大樹の裏に隠れて盗み見ていた時と同じ格好をしている。腰に短剣を携え、動きやすい軽装。
そう、アルクスは今朝と同様に、この時間からも一人で訓練に向かうのだ。
当人は無自覚に行っていて、何一つとして悪気があるわけではない。
マーリエットが来るその前からやっていた事なのだから、それを伝える必要性もないし、伝え忘れられていてもなんら文句は言えない。
アルクスは強くなる事に貪欲で、しかしその力は自分のためではなく誰かを護れるようにするためなのだから、誰かに言いふらす理由もないのだから。
「じゃあ行ってくるね」
「うんっ、いってらっしゃい」
だが、マーリエットは寂しい思いを顔に出さないように堪え、渾身の笑顔と優しい言葉で送り出した。
……と、独りでに気を落としていたが、走り去るアルクスの背中を見て妄想を爆発させる。
「えっあっ――今のやり取りってし、新婚さんみたいじゃない!? もしかして、今の感じだったらお出掛けのききききキスとかしちゃうような場面だったり! いや、それはまだ早いっていうか、私達は付き合うとかそういう関係じゃないというか……好きとか嫌いとかそういうんじゃないっていうか……あーっ! ダメよダメ! あーっ、もう、アルクスったら」
自分を自分の腕で抱き、うねうねと体をくねらせて悶えている様は、他所から見れば非常に異様な光景でしかない。
だがしかし。
「んで、なんでお前はそんなところで気持ち悪い踊りを披露してるんだ」
「ひぃっ!」
音もなく隣に立ち、ジト目で冷たい目線を送るミシッダ。
正しくは正面の扉から入り、忍ぶわけでもなく普通に歩いて来ていた。が、マーリエットは妄想に耽って気づいていなかっただけ。
「や、やめてください! そんな哀れみ溢れる目線は、かわいそうな子を見るような目をやめてください!」
「まあ別に、他人の趣味嗜好に口を出すつもりはないから安心しな」
「だからその目をやめてくださいー!」
尚も表情を変えないミシッダに対して、なんとか弁論を試みようとするも、その余地も効果もなかった。
「そんなことより、ほら。追加で薬を作ってきたから早く飲め」
「でも、先ほどいただきましたし……」
「だって、まだその肋骨が治ってないだろ」
「……」
マーリエットを一見すると外傷はない。
何も知らない人間から見れば、寝て起きて何かしていたぐらいにしか見えないだろう。
だが、今朝から今の今まで、マーリエットは折れた肋骨の痛みに耐えながら過ごしていた。
そう、アルクスとのやりとりの最中も。
なんとか必死に堪えて悟られないようにしていたが、その痛みは気を抜けば顔が歪むほどのもの。
「そんなのをアルに見られでもしたら、私が怒られる。だから、これを飲んでさっさと治してくれ」
「……わかりました」
「よし、始めよう」
アルクスは未だ慣れない二本の木剣を持ち、素振りを始める。
構えこそはぎこちないものの、交差する剣は互いを邪魔することはない。
ミシッダも口にしていた通り、筋は悪くなく、時間さえあれば習得するのはそう遠くないだろう。
だが、当の本人が満足しないという障壁があるというのもまた事実。
「こんなんじゃ、まだまだダメだ」
ただ宙を斬っているだけにもかかわらず、木剣を握る手に力が入る。
右に左に、上から下から。
突いて払って、叩きつけて柄の上下を持ち替えて。
変幻自在な攻撃手段を用いながら、足を動かし、体も使う。
「まだまだ遅い。まだまだ弱い。ミシッダさんはこんなものじゃない。もっと強いんだ。もっと、もっと……!」
汗が飛び、筋肉が悲鳴を上げる。
だが、そんなものでは止まりはしない。
斬りつける速さはどんどん加速していく。
目標を見据え、真に強くなるためだけに。
風切り音は鳴り止まず、その数は増えていく。
――もっと強くなりたい。
ただそれだけのために。
「ふんっ! ――くはっ、はぁー、はー……はぁ」
最後の一振りを終える。
そして今更に気が付く――息が止まっていた事に。
強く結んだ緊張の糸が解け、地面に倒れ込んで空を拝む事となってしまった。
ひんやりと冷たい地面。汗を流した皮膚を優しく撫でてくれる心地よい風。雲一つない青青しい空。
握る木剣を手放すと、夢中で気が付かなかった、手の平が擦り切れていて血が滲んでいる。
荒い呼吸を整えながらアルクスは空へ手を伸ばす。
この無限にも思える空の広大さに圧倒され、己の小ささや弱さを改めて実感する。
――今のままじゃ誰も守れない。もっと強くならなくちゃ。
アルクスの目標は、今のこの現状と類似している。
限界の無い目標はいつまでも己を追い込み、険しい道のり。
そして、ここまで心に火が点いたのにはもう一つの理由がある。
ルイヴィスとの出会い。
夢だと思っていた事が実は過去の現実であり、幻想だった少女は本当の妹だった。
そんな大切な存在との再会は、より一層強くなりたいと願うには十分すぎる燃料。
――今回は絶対に守るんだ。
伸ばした手を握り、アルクスはそう強く決意する。