五月二十五日。
このような機会は滅多に訪れるものではない。
帰宅部には変わらない日常だが、部活動をしている恵海にとっては気分が高揚するイベント事と言ってもいい。
友人を誘い遊びに向う者、気になる異性をデートに誘う者。それぞれの選択肢がある。
恵海はこの時を待ち望んでいた。
普段は部活のため、できないことが沢山ある。
だが、その中でも最も優先順位が高いことは、このタイミングにしか成せない。
――今日は、お兄ちゃんと一緒に帰れるんだっ。ふっふっ~ん。早く放課後にならないっかな~。
恵海は本日最後の授業が終わるのを、今か今かと待ち望んでいた。
先生の話は二の次に時計を凝視。
そして――チャイムが鳴り、授業が終了。
最後に帰りのホームルームを五分程度行い、解散となった。
――お兄ちゃん、遅くならないといいなぁ。校門で待って……あっ、お兄ちゃんだ!
自分が先に待っているつもりだったが、大好きな兄を見つけ、テンションが爆上がる。
部活をする妹、帰宅部の兄。
校内でも滅多に会えることはなく、こういう機会がなければ一緒に帰宅などできない。
「お兄ちゃーん、お待たせ―!」
「大丈夫。僕も今来たところ」
「本当ー? ならよかったっ」
「じゃあ、帰ろうか」
両腕を絡め、歩き出す守に合わせて同じく歩き出す。
恵海は守が好きだ。
それを今まで隠してくることはなかった。
自分から周りの人間に言いふらすことはないが、問われれば隠さず答えるほどに。
周りの友人は、かわいいブラコン程度に捉えていたが、恵海は本気だった。
小さい頃から周りと比べて華奢だった
いじめを目的としたものではなく、好きな子相手ほどちょっかいを掛けたくなってしまう小学生特有のやつで。
大人目線で見れば、随分とかわいらしい愛情表現であるが、当時の当人はそう思えるはずがない。
そんな辛い日々を過ごしていも、先生や両親に相談したところで大人は対処なんてしてくれなかった。
その愛くるしさを生温かな目で見守るだけで。
だが、守だけは違った。
一緒に居られる時、目の届く限り、守だけは必死に守ってくれた。
その頃からだった。
実の兄だとはわかっていても、憧れを抱くだけではなく一人の男としても好きになり始めていた。
確信に変わったのは中学生になった時。
周りの女子も恋心に芽生え始め、話を聞くうちに自身の気持ちがみんなの話す"それ"を確信したのだ。
「ごめん。あの人を手伝ってくるから離れてくれるか」
「……うん、荷物持つよ」
「ありがとう恵海」
――ああ、お兄ちゃんかっこいい!
眩しいほどの正義感。
自分を曲げず、自分が正しいと思うことを真っすぐに行う。
まさに物語の主人公のような存在。
それを見て、恵海は薄々気が付いていた。
――お兄ちゃんを独占していてちゃダメ、なんだよね。お兄ちゃんの優しさは私だけのものじゃない。私も少しずつ変わらなくちゃダメだよね。願わくば、お兄ちゃんのような人に。お兄ちゃんの隣に居て恥ずかしくないような人に。
では、変わるのはいつからだ? 明日か? 明後日か?
そんな疑問を自分に課す。
すると、何かで目にしたことがある言葉が脳裏を過る。
『始めるのに一番タイミングが良いのはもっと過去だったかもしれない。だが、その次に良いタイミングは後じゃない、今だ』
と、
『行動が全ての成功への根本的な鍵である』
だ。
では今、自分にできることは?
――今、行動すること。
恵海は守が手助けしている老婆の落とし物――ハンカチを拾い上げた。
そして、声を大にしてそれを知らせる。
「おばーちゃーん! これ、落とし物ですよー!」
「なっ、恵海!? ――!?」
勇気を振り絞った行動。
当然、その報酬は老婆からの感謝と大好きな兄からの称賛。
だが、兄のその顔には笑顔ではなく酷い焦りがあった。
夢中で歩道を駆ける中、恵海は思う。
――どうしてお兄ちゃん。なんで笑顔じゃないの。私の行動はいけないものだったの!?
だが、それは恵海の勘違い。
恵海は知らず、守は見えていた。
後方から迫る、歩道を暴走しているトラックが。
「えっ?」
突然の守からの抱擁に、つい変な声が漏れてしまう。
……が、恵海は明らかに不自然な走行音に遅れて気が付く。
だが、そんなことを確認している暇もなく、恵海と守の立ち位置が入れ替わる。
こうして視界に飛び込んでくるトラックを目視し、ようやく全てを理解した恵海。
――う、噓でしょ……こんなのって……こんなのってあんまりじゃない!
自らの死を予感するのには十分すぎる材料が視界に飛び込んできたのだ。
そこからは一瞬だった。
運良くも手前で横転したトラック。
だが、その勢いは人を吹き飛ばすには十分すぎる勢いを持ち、二人を残酷にも吹き飛ばす。
歩道まで吹き飛ばされ、地面に転がり落ちる。
守は即死だった。
だが、幸か不幸か守が間に入ってくれたおかげで、恵海にはまだ息がある。
――え、えっ。お、お兄ちゃん。お兄ちゃん! お兄ちゃん!
全身を襲う痛みに言葉は出せなかった。
――痛い。痛い。痛い。痛い。私、このまま一人で死ぬの?
体内から溢れる血液が喉を支配し、呼吸すらもままならない。
どう足掻いても逃げられない死への絶望。
刻一刻と迫る最期。
そんな最中、恵海は安心を覚えた。
兄に抱きしめられている温かい感覚。
それだけが救いだった。いや、もはやそれだけで十分だった。
――お兄ちゃん。最後まで私を守ってくれたんだ……ありがとう。私も今からそっちにいくね。
恵海の最期の顔は、安らかに優しく微笑んでいたものだった。