食後、屋内の案内や生活の流れを説明し終える。
その後すぐ、マーリエットは敷地内にある風呂場で体を洗っていた。
城に比べれば大分小さい造りにはなっているが、一人で使用するにはちょうど良い大きさとなっている。
手作り感溢れる木造建築で、人一人が生活できそうなぐらい。
やろうと思えば、この場で両手を広げて大回転だって、飛び跳ねて走ることだってできる。
先ほど、アルクスからここの説明を受け、その時に渡された風呂道具を使用している。これといって特別なものではなく、入浴中に使用する布とあがった時に体を拭く大きな布だけだ。
最低限ではあるが、この人里離れた地かつ扉を開けっぱなしにしなければ誰からも覗かれないのだから何も問題ない。
もしも覗きがあったとしたら、それは森から来た野生のかわいいお客さんか、アルクスまたはミシッダということになる。
「しっかりと掃除がされていて、水がとても綺麗」
浴槽に溜まっているお湯を桶ですくい、自らの柔肌に掛ける。
冊子戸から入ってくる夕陽に照らされ、綺麗になっていく黄金の髪がより一層輝く。
マーリエットは、今日一日のことを思い出す。
アルクスに助けられたこと、休みながら話したことを。
疑いの矛先を向けようとしても、あの純粋でまっすぐな笑顔を見てしまえば何も疑えない。
そして、ミシッダの言葉を思い出す。
アルクスの芯にある優しさと強さ。
あんなにも優しく微笑むのに、あの戦いぶり。
謙虚さも持ち合わせ、非の打ち所がない……が、戦士とはまだ言えない、あのあどけない笑顔につい笑みを浮かべてしまう。
「ふふっ、あれで強いというのは少し笑ってしまうわ。でも……」
ミシッダから聞かされたアルクスの昔話。
飼い犬を助けるため、自分より数倍以上大きい熊にたった一本の短剣だけで立ち向かい――勝利した。
普通であれば、どんな偶然が重なろうとも勝算なんてありはしない。
何者かの援護による勝利だったとしても、その可能性はないと断言していた。
ならば、その逸話は本物なのだろう。
何が彼をそうさせたのか。
何が彼の芯にあるのか。
――物凄く気になる。
興味本位。
マーリエットは自身の目的のため、もっとアルクスを知っておかなければならない。
それに、ミシッダはこうも言っていた。
村を、都市を、国を、世界をも返せてしまうような――力。
マーリエットは両手の平を見つめる。
あの時、水筒を貰うふりをして力を行使した。
見えたのは、誰かを背に戦う姿。
それしか見えてなかった。
自分でも完全に把握しきっていない、他人のスキルを覗き見る力。
ミシッダは、それ以上のものを知っている様子だった。
――本来この力は、もっと細部まで覗き見ることができるということなのかな……。
流れでいらないことまで思い出してしまう。
『夜這い――夜這い――夜這い――』
「っは!!!!」
悪夢にうなされた時と同様に、体がぶるぶると震え過剰反応を起こす。
だが、アルクスに興味を抱いているのは事実である。
その行為に至らずとも、この後部屋に行こうと意を決した。
最後に少しだけ気になったのが、ミシッダの言いかけていたことが気がかりであったが。
コンコンコンッ。
軽快に三度、扉を叩く音が部屋に響き渡る。
「あの、急にごめんね。少しだけお話しできないかなって」
「――ちょっとだけ待って」
ベッドに腰掛けるアルクスは目元を拭い、深呼吸を一度だけした。
「――どうぞ」
返答後、扉をゆっくりと開け入室してきたのはマーリエット。
「寝る前なのにごめんね」
「ううん。全然大丈夫だよ」
「……あれ、どうしたの? 何かあったの?」
マーリエットはアルクスの頬に伝う透明な線が目に入った。
「ああこれね。ごめん、拭ったつもりだったんだけど」
「……その、私でよければ話を聞かせてもらってもいいかな」
「うん。別に隠すようなことでもないから大丈夫だよ。立ち話もなんだから、適当に座っちゃって」
「ありがとう」
ミシッダに乗せられ、胸元をほんの少しだけ開けさせていたのを戻してアルクスの横に腰を下ろした。
――ああもう、これはどういう状況なの! ああもう、心臓が飛び出そうなほど緊張していた私が馬鹿みたいじゃない!
「ミシッダさん以外の誰にも話したことがないんだけど。僕ね、夢を見るんだ」
「夢?」
「うん。その夢では、小さな僕に妹がいるんだ。変な話だけど、夢なんだけど物凄く現実味があって。いつも笑顔で、いつも傍にいるような」
「ふふっ、随分とかわいらしい妹ね」
「そうそう、でもね、いつも男子にからかわれたりして独りで泣いてるんだ」
「それはかわいそうね……」
「そんな姿を見て、僕は決めたんだ。妹を守るって、自分の心に噓をつくのはもうやめようって」
――夢の中でも誰かを守って。本当に優しいのね。
だが、アルクスの目から一滴の涙が零れる。
「でも……でも、最後は必ず守り切れないんだ……」
「え……」
「大切な妹を守り切れず、一緒に死んでしまうんだ」
「……」
マーリエットは、初めて見るアルクスの涙に言葉が出てこなかった。
「守ると約束したのに。絶対に守るって決めたのに……」
一滴、一滴とポロポロと零れていく涙は繋がり線となる。
「最後は、妹を抱きしめて盾になった。でも、でも……」
「……うん。あなたは頑張った。大切な妹のためにちゃんと守れていたわ。それは間違いないわ」
マーリエットはアルクスの背中を優しく擦る。
――これは、本当に夢の中だけの記憶だというの……? こんなに苦しんで、涙して。記憶にない記憶なんて聞いたことがない。でも、もしもその夢が本当の記憶ではないのなら、あまりにも背負うには重すぎる。それをずっと? 何年も? その重りをほぼ一人で背負っていたというの?
「妹は、僕を恨んでいると思うんだ。守ると約束したのに、死なせてしまって……」
「いいえ、その妹さんは絶対にあなたを憎んだりしていないわ。逆よ。あなたには感謝の気持ちが一杯のはずよ。うん、間違いないわ」
「……そうなの、かな」
「ええ、そうよ」
マーリエットは優しく微笑み、アルクスに寄り添う。
そして、自身の胸の中に頭を寄せ、優しく頭を撫でる。
「っ!」
「いいのよ。あなたは立派に頑張った。今ぐらい休んでいいのよ」
「……ごめん、ありがとう」
どれぐらい経ったのか。
短い時間だが、当人同士にとっては長い時間が経ったと感じている。
「ありがとう。もう大丈夫」
「うん」
落ち着いたアルクスが胸から離れていく。
冷静になる二人。
ともなれば、マーリエットは自身の行動を振り返ってしまう。
――わ、わ、私は! なななななんてことをーっ!
一人でしどろもどろしていると、アルクスは口を開く。
「だから僕は今も誰かを守ろうって決めたんです」
「ふぇ、そ、そうなのね」
「一人でも悲しい思いをさせないように、手が届く距離ぐらいは守りたいって」
「とても素晴らしい事だわ。誰にでも真似できることじゃない」
アルクスの芯にある、守るという意思。
上辺だけの理想ではなく、それが本質なのだと理解できた。
話が一段落した今、マーリエットはある疑問が浮かんでしまう。
「そういえば、ご両親は元気なの?」
「……」
「ミシッダさんは親戚だったり?」
「……家族はね、僕が七歳の時、僕を残して全員殺されたんだ」
「えっ……」
笑顔が戻ったアルクスの顔に、再び影が落ちる。
「僕の家はね、元々貴族だったんだ。でもある日、帝国の権力争いに巻き込まれて、僕以外は全員が殺された。しかも、僕の目の前で」
「なんてこと……」
「僕は必死に隠れた。家族を誰一人守れず、惨めに息を殺した。でも、あの人達は捜索を諦めず僕を探し回った。もう駄目だと思った時、ある帝国騎士が助けてくれたんだ」
「そんなことが……」
「本当はあの時死ぬはずだった。あの時助けてくれた騎士にお礼を言いたい。あの人のように強くなって、誰かを守れるようになりたい。と、あの時以降から強く思うようになったんだ」
「その騎士には未だに会えてないの?」
「うん。仮面を被ってて、顔を見てないんだ」
アルクスは手を合わせ強く握る。
「そして、この悪夢もその頃から始まったんだ」
「――……ごめんなさい――」
「え? どうして謝るの? 勝手に喋り始めたのは僕なんだから、気にしないで」
――私はこの事件を知っている。そして、それがきっかけとなり、今の私がある。
全てが繋がっていた。
――もしも、その事件の原因が私達の責任と知ったら……アルクスはどう変わってしまうんだろう。この場で私を殺そうとするのかな。
マーリエットは、アルクスの歩んできたこれまでの人生が深く深く胸に突き刺さった。
取り返しのつかない後悔。
人一人、いや、その一族の人生を変えてしまったという事実。
それら全てが罪と罰となり、胸に刺さるものが重さを増す。
「帝国の皇帝、その一族に恨みはあるの?」
「いいや、ないよ。ミシッダさんが教えてくれた。復讐は何も生まない。そんなことに囚われてる暇があったら、もっと強くなって誰かを守れるようになれって。僕もその通りだと思うんだ」
「……強いのね」
「だから僕は、本当に守りたいと思える誰かと出会ったら、その人をちゃんと守れるように強くなりたいんだ」
――そう、守れなかった家族の分も、夢で守れなかった大切な妹のためにも。僕はもっと――もっと――。
――私は甘かった。こんな少年一人に全てを託そうとしていた。今のままじゃダメ。彼に見合うようにならなきゃいけない。
「こんな時間までごめんね。そろそろ部屋に戻るわ」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい」