触れてみたいと手を伸ばしたら、包まれている神秘的な薄いベールごと消えてしまいそうで儚い。
完全に満ちた形が麗しい、青みを帯びてる月。
その存在感がまるで私の好きな人みたいだと思った。
ひとり暮らしのベランダから、1週間の仕事疲れを癒したくて夜空を見上げていた。
12月上旬。澄んだ空気が寒さを際立たせる。外に出たばかりなのに、手が少しかじかんでる。
私は左手に身につけていた大切な水晶のブレスレットを月にかざした。
天然石の本に書いてあった。
月の見える場所に天然石を置いておくと、パワーがチャージされるって。
いつも身につけてお守りにしてるから、満月の夜は必ず月のエネルギーを頂いてる。
大切にしている理由はそれだけではない。
私のブレスレットには、幽霊が宿っている。
最初、信じられなかった。
幽霊なんて、居るはずがないって。
でも、1番辛かった時に彼は私を守ってくれた。
それにいつも支えてくれる。
だから存在を否定しないことにした。
でも、彼がもうこの世で生きていないって、未だに信じられない。
ねえ、
静かに私を見守ってくれる優しさ。
触れたくても、触れられないのだって月のよう。
決して結ばれないのに。甘い期待を秘めてしまう。
いつからか藍来を思う気持ちが私の心の真ん中にある。
積み上げてきた愛しさがひしひしと悲鳴をあげて、胸が苦しい。
こらえきれず涙が零れてしまったのは月が綺麗過ぎるせいにしたい。
そうじゃないと、この恋に絶望してしまうから。
ふと、彼の言葉が心の中で響いた。大丈夫って返事しないと。藍来が心配してる。
『
幽霊の彼と話す時は心の中で会話してる。
わざわざ声にしなくても伝わるみたい。
藍来の声が心に染み込んでいく、私はそれを感じながら、少し遅れて返事をした。
普通の会話と違って、声が心に響いてから、返事をする。少しタイムラグがあるように感じる。
きっと、藍来と私の時間の流れが違うんだ。
「ん……大丈夫だよ。ちょっと月を見てたら綺麗だなって、涙が出てきちゃったの」
藍来に恋人になってほしいと、言えないから泣いてしまったなんて言えない。
もし、藍来がまだ生きていたら。
目を閉じて、彼の姿を思い出す。
そう。私の大好きなバンド、咲き誇って群青のボーカリスト藍来を。
黒髪のミディアムウルフカットがよく似合ってて、歌う時に前髪をかき上げるのが癖。
背が高いというより、足が長くてすらっとした細身なのに、力強く歌えるのが不思議でならない。
曲が始まる瞬間、微笑む。
無敵で怖いものなんてないから、みたいな表情がたまらなくかっこいいんだ。
歌っている姿を初めて見た時、恋してしまった。それから、大ファンになったんだ。
藍来がテレビに出るたび、恋する乙女みたいに心がときめいた。
藍来は、顔もかっこいい。
本当に少女漫画から出てきたんじゃないかみたいな美青年。
鼻筋が通っている。全てを見透かすような強い瞳。
薄い唇から放たれる言葉達は私の心を掴んで、絶対に離さない。
良かった。生きていた時の彼を、ちゃんと思いだせた。
もし、何か1つでも藍来に関する記憶が消えたら、
憂いが、底のない痛みを連れてきて私を襲うだろう。
だから薄れないように、いつも思い出さないと。
バンドがメジャーデビューして8年を迎える少し前、藍来は亡くなった。
バンド活動自体は7年目で休止していた。
8年目を迎えるための休息期間だったはず。
それなのに藍来が居ないからもう、活動出来ない。
ねえ、何で藍来は死んでしまったの?
一体何があったの?
怖いから聞けない。
だって知ってしまったら、彼がこの世に居ないのを認めることになるから。
心のどこかで私はまだ、藍来が生きてるんじゃないかって思ってる。
ふと、気配を感じた。幽霊の彼が隣で悲しみを溶かしたような目で私を見てる。
その顔があまりにも綺麗だから、息を呑んだ。
見えた姿は、生きていた頃と何ひとつ変わらない。かっこいいまま。
私は霊感がないから、藍来と出会うまでは、普段見えないものが見えたりとかしなかった。
幽霊の彼が水晶のブレスレットに宿っていることによって、彼の姿が見えるようになった。
きっと何か不思議な力が働いているんだ。
藍来は月に向かい手を伸ばして、言った。
月に向かった手は透けているように見える。
彼を見える存在として捉えてるはずなのに、本当に今見てる月みたいに、存在感がぼんやりとしている。
『月が綺麗すぎて真希が泣いてるなら、その月でさえも消し去ってしまいたくなる。だって、泣いてほしくないから』
私が月のせいで泣いてるって本気で思ってるんだ。
でも本当は違うんだよ。
自分の恋が実らないから。
混じり気のない愛しさだけ募らせたいのに、暗い悲しみの色が好きという気持ちに染みていく。
幽霊に恋しちゃ駄目だよね。
「月が消えたら困る。でも心配してくれてありがとう。藍来がいつも優しいから、大好き」
『俺も真希が大好きだよ。いつも大切に思ってるから』
私も藍来を大切に思ってるよ。
好き過ぎて、本当にどうしようもないくらいに。でも、今の距離がちょうどいい。
これ以上を求めたら、きっと虚しいだけ。藍来を遠い存在だと感じずにはいられなくなる。
だから、この恋心は胸の奥にしまっておこう。
「寒くなってきたから戻るね」
『うん。身体が冷えたら良くないからね』
ベランダから戻り、ブレスレットをベッドのヘッドボードに置いてある、ブレスレット用の箱にしまった。
「もう、眠ろうかな。おやすみなさい、藍来」
『おやすみ、真希。明日も素敵な1日になるといいね』
ベッドに横になると、さっきよりも藍来の存在が近くで感じられた。安心感に包まれる。
藍来、好き。
溢れそうになる、藍来への気持ちを出来るだけ長く大切にするために、そっと心に鍵をかけた。