「シャワー浴びますか?」
連れてこられた東京のホテルの一室で、俺はベッドに放り投げられた。
「ここで何をするつもりだ……。」
ふかふかのベッドに埋もれながら俺が苦い顔で尋ねると、久慈は首を傾げた。
「αとΩが出会ってすることなんてひとつでしょう?」
その言葉で、久慈に俺の秘密がばれたのだと確信した。同時に、この横暴とも言えるやり方が久慈の口説き方であると気づく。
しかし、久慈が当然のように俺をΩとして扱うのには納得がいかない。
「俺、あのパーティーで指輪を親指につけてただろ?」
「指輪なんて、会場に入ってしまえば後はどうとでもできます。」
「つまり、お前は俺がαだって偽ってたと言いたいのか。」
「違うんですか?」
違わないが、違うのだ。俺には嘘偽りなくαとして生きた42年間と、矜持がある。
俺が黙り込んでいると、久慈はゆっくりとベッドに乗り上げながら話し出す。
「あなたと出会った日、自分でも確信が持てませんでした……あまりにも香りが薄くて……あなたが私の運命であると……でも、あれ以来、寝ても覚めても、考えるのはあなたのことばかり……。そして、今こうしてあなたに会えて、わかりました。あなたこそ、私が探していた私だけのΩ…。この香りが、証拠です。あなたは、あのパーティーの時点で私の香りに気が付いたでしょう?」
「ちょ、ちょっと待て!」
馬乗りになってきた久慈を俺は懸命に押しのける。彼は、俺がパーティーの時点で久慈が運命のαだと気づいたはずだと誤解している。俺はそんなことにはまったく気が付いていなかったというのに。
俺が誤解を指摘するより前に、久慈が愕然とした顔で続けた。
「あなたがなんのためにαだと偽っていたのか知りませんが、もう私は十分あなたの茶番に付き合いましたよ。……もういいでしょう?」
「な……! 茶番だと!?」
かっと頭に血が上る。俺は恋愛の駆け引きのつもりで久慈の誘いを断っていたのではない。しかし、なおも久慈は言い募る。
「茶番でしょう? 私をからかって、楽しいですか?」
そう言って、久慈は俺のワイシャツのボタンに手を伸ばす。俺はそれを力いっぱい払いのけた。
「やめろ馬鹿野郎!」
「どうして、どうしてですか!?」
「俺のこと、何も知らないくせに……!」
一度堰を切った感情の波はそう簡単には止められない。俺はめちゃくちゃに怒鳴り散らした。それは、久慈への苛立ちというよりも、ままならない俺の人生への苛立ちの方が多くを占めた。
今になってようやく俺は理解した。俺は俺の理不尽な人生を恨んでいる。
俺たちはベッドの上で睨み合った。
俺は肩で息をして、久慈は唇をかみしめている。その唇から赤いものが見えて、俺は少しだけ冷静になった。
「……俺、Ωとして未熟で、そんなに鼻が利かないんだ。だから、お前のこと、本当に気づかなかったんだ。」
俺は自分の鼻に手を当てた。いまも、久慈の香りがわからない。
「……俺はふつうのΩじゃない。もともとαなんだ。」
俺の言葉を、久慈は叱られた子犬のように聞いていた。彼の頭に、犬の両耳がへたりと倒れ込んでいるのが見えた気がして、俺の怒りは鎮まっていった。
「……お前、俺が好きなのか。」
「はい。あなたは私のΩです。」
「……にしたって、この方法はよくない。わかるだろ? 仮に俺がふつうのΩであったとしても、真心を持って接しろよ。こんなやり方、あんまりだ。」
俺が諭すように言うと、久慈は小さな声で反論した。
「だって、真心を尽くすチャンスをくれなかったのは、あなたじゃないですか……。……傷ついたんです……。」
すねた子どものようにふいと横を向いた久慈に、俺はもうそれ以上詰問することができなかった。
確かに、彼からの誘いをことごとく断ったのは俺だ。しかし、俺は先ほども言ったように、久慈が運命の相手であることなど、気づきようがなかったのだ。
――俺たちはボタンを掛け違えて、そのせいで互いを傷つけあっている。
ため息を吐く。ルール違反をしたのは、俺が先だ。俺がαだと偽ったことがすべての始まりだ。年長者としても、俺が大人になるしかない。
「悪かった。でも、俺にも事情があったんだ。」
「……聞かせてください。」
久慈は真摯な目をこちらに向ける。その目を信じるのなら、性根は悪い奴ではないのだろう。
俺はゆっくりと俺の人生と、突発性Ω化症候群について語った。そうして、俺たちは初めからやり直すことになった。
*
それから、俺と久慈は北海道と東京を行き来しながらお互いを知っていった。
久慈が俺の42年分の人生の重みを理解するのにはなかなか長い時間がかかった。彼はいつでも俺との関係を急速に進めたがる。俺はその度に久慈をたしなめた。
久慈の気持ちも、わからないことはない。彼は若く、αとしても優れ、その分、性欲も強い。同じαとして伴侶を長く探し続けたことがある俺としても、ようやく見つけた伴侶にお預けをくらっているこの現状がいかに彼にとってつらいか、よくわかる。
だからこそ、彼には我慢してほしかった。Ωとして生きると決めることは、俺にとって手放しに喜べるものでないということを、彼にも理解してほしいのだ。
久慈は時に思いの丈を俺にぶつけながらも、「友人」として俺を知っていってくれた。
ある日、俺は決意して東京の地を踏んだ。そして何度かためらった後、充に電話をした。
「充、ちょっと時間あるか? 飲みに行こう。」
唐突な誘いにも関わらず、電話の向こうからは嬉しそうな声が返ってきた。
「え? 圭司さん、東京に来てくれるんですか? 飛行機ですか? 迎えに行きますよ。」
距離を縮めていく過程で、俺たちは互いに名前で呼び合うようになっていた。充、と初めて呼んだときは照れ臭かったが、それもいつの間にか慣れた。
こうして俺はαだったことを忘れて、Ωになっていくのだとぼんやりと思った。
「いや、もう来てる。いま東京駅。」
「ええ? もう、あなたはいつも突然なんですから……!」
俺たちは東京の小さな個人経営のビストロレストランで落ち合った。充はいつも俺を高級フレンチやらに連れて行きたがったが、俺はこういうこじんまりとした店が好きで、いつしか充もそれに付き合ってくれるようになった。
――そうして、少しずつ合っていなかったところを合わせていく。時には俺の歩調で、時には充の歩調で。
「今日は、話したいことがあってな。」
コース料理も終盤に近づいたとき、俺は切り出した。
「なんですか?」
「ホテルを取ってる。泊まれるか?」
俺の言葉に、充は目をまん丸にする。
「お前はよく頑張った。」
俺は笑った。充は真摯で、誠実で、どこまでも一途なお馬鹿さんで、俺のαだ。
俺はようやく俺の42年間培ってきたαとしての矜持と決別する覚悟を決めたのだ。