それから数日、レオルゴールは困惑していた。これほどどうしたらいいのかわからないことはない。
好敵手と定めた相手に見染められたのだ。彼の困惑も尤ものことだ。
「どうしたら……」
彼は柄にもなく寝台に寝転んでひとりごちている。さながら乙女のような姿であった。
いま、彼の心は2つに分かれている。1つは国のためにケントガランを打ち破って王子の配偶者になれと叫び、もう1つはケントガランへの友愛に似た気持ちの置き場に悩んでいる。
レオルゴールは頭を抱えた。これまで、彼はただ貴族を恨み、己の力のみを信じて走ってきた。人生とは過酷な競争であり、他者とは騙し、奪い、操る対象であった。
それが今世はどうだ。清潔なシーツの上で眠り、嘘偽りなく他者と会話し、ケントガランとアフタヌーンティーを楽しみ、芝居を見に行くこともある。
レオルゴールの研ぎ澄まされた刃が、ぬるま湯で溶かされてしまったのだ。
レオルゴールは寝台から飛び降りて机に向かった。
心がせわしないときは何か作業をするに限る。レオルゴールは書きかけであった魔法陣を引っ張り出して、頭からケントガランを追い払うべく作業をはじめた。
「くそっ……」
ペンは遅々として進まない。ケントガランの切れ長の瞳を脳内で何度も打ち払う。しかし、ものの数秒でまたその瞳に見つめられる。
それもそのはず、レオルゴールの今書いている魔法陣は、ケントガランに何度も助言をもらったものである。
レオルゴールは魔法陣を床に放り捨てて、今度は魔法の書物を手に取った。しかし、それもまたケントガランに勧められたものであり、これでは駄目だとまた床に投げ捨てた。
レオルゴールは次々と没頭できる何かを求めたが、そのどれにもケントガランの影があった。それほどに、ケントガランはレオルゴールの生活に深く入り込んでしまっていたのだ。
何十冊目かの本を床に放り捨てて、レオルゴールは膝をついた。床には本棚のすべての本と、レオルゴールが書き記した紙のすべてが散乱している。
――ケントガラン……お前は、お前は……、俺は…!
レオルゴールはこのとき初めて涙を流した。
彼の高すぎる矜持ゆえに認めることのできなかったことを、ようやく認めるときがきたのだ。
「ケントガラン、お前の勝ちだ」
ついに彼は敗北を認めた。もはや彼には、ケントガラン相手に戦う気概がない。そして毒を抜かれたことで、レオルゴールはようやく自身の心を知った。
「お前が、大切だ」
脳内にあるのは、ケントガランとの機知に富んだ会話の数々である。レオルゴールはこれほど楽しく魔法について語り合うことのできる相手を知らない。
神童と呼ばれるケントガランと、天才の誉れ高いレオルゴール。
レオルゴールは、長い時の迷宮の最果てで、ようやくケントガランだけが同じ孤高の存在であり、理解者たりえることに気が付いた。
*
気が付いたとして、それを行動に移すのはそうたやすいことではない。
特にレオルゴールのような肥大した矜持を持つ人間にとっては、好敵手に愛を伝えることは伝説の魔法を扱うことよりも難しい。
レオルゴールが涙を流した日から数日経ったが、彼はいまだにケントガランに話しかけることができないでいた。
晩餐の席で会っても、不自然に目をそらし、「ああ」とか「ええ」と返事をするのがやっとである。
レオルゴールは我ながら自身の態度はひどいものだと思ったが、彼の矜持が邪魔をしてどうすることもできない。
そうしてひと月が過ぎたとき、ついにケントガランがレオルゴールの部屋にやって来た。
「やあ、レオルゴール」
「や、やあ……」
ケントガランは澄ました顔でソファに腰掛ける。部屋の主であるはずのレオルゴールはどこに座ればいいのか分からず、立ったままそれを眺めていた。
「座らないのか?」
「あ、ああ」
レオルゴールは自分の体が案山子になったと思った。床に足が縫い留められているように動けない。
「どうした?」
「う、あ、いや……」
視線を下に落とし、彼は自身の足を睨みつけて叱咤した。動け動けと命じても、もはや彼の意思ではどうすることもできない。ただ心臓が跳ねて、耳元で大きな音を立てている。
気持ちを自覚したことで、これまでケントガランにどう接していたのかも忘れてしまったのだ。
挙動不審なレオルゴールの心境を、ケントガランは的確に読み解いた。
「ちょっと素直になったと思ったんだがな……君は肩肘を張り過ぎだ」
揶揄されたと感じて、レオルゴールは咄嗟に反駁した。
「な! 誰が肩肘を張っていると!!」
「落ち着け。座ったらどうだ?」
レオルゴールは数拍の後にケントガランの真正面に座った。受けて立ってやるといわんばかりに胸を張り、顎を突き出した。
「君って恋愛したことあるのかい?」
唐突にそう言われて、レオルゴールは虚を突かれた。
「は?」
「私はない。私から見ると、みんなかぼちゃかじゃがいもだ。友人つき合いでさえ退屈だ。わかるだろう?」
「……」
「王子と婚約して、この国のために粉骨砕身働くのも悪くはないが、私は貴族だ。別に婚約しなくたって、私の力はこの国のものだ」
ケントガランは訥々と話した。レオルゴールはケントガランが言わんとするところを図りかねて、押し黙った。
ケントガランの告白は続く。
「……あの出来の悪い王子と手を取り合うより、君と語らっていた方がずっと楽しい。……君の返事を待つつもりだったんだが、やめた。君が好きだ。王子との婚約は断る。そして君とこのままずっと一緒に暮らして生きたい。君が私のことを好きでなくても構わない。私と結婚してほしい。」
「なっ……何を言って!」
思いがけない話の着地点に、レオルゴールは目を見開いた。いつもの悪癖で反駁しかけたが、それは次なるケントガランの行動で飲み込まれた。
「レオルゴール、どうか私と結婚してくれないだろうか」
ケントガランは膝をつき、レオルゴールに頭を垂れた。
レオルゴールは気骨のある青年である。他人に指示されるのを嫌い、抑圧を憎む。しかし、頼まれるとめっぽう弱い。
レオルゴールは急に素直な気持ちを取り戻した。彼だって、ケントガランを憎からず思っていることは先日気が付いている。
「そ、そこまで言うのなら、してやらん……こともない……」
耳まで赤く染めたレオルゴールは、つっかえながらも、どうにかそう言い切った。
ケントガラン――レオルゴールのよき理解者は、苦笑して立ち上がった。
「君の意地っ張りぶりには敬服するよ。頑固さにもね」
その言葉にレオルゴールが反応するよりも早く、ケントガランは愛しい恋人の頬に唇を寄せた。