レオルゴールは目を開けた。
そこはレオルゴールに与えられた部屋だった。寝台の天蓋には精緻な刺繍が施され、初めて見た時は度肝を抜いたものであった。しかし、それももはや見慣れてしまった。彼はその刺繍を特に大きな感動もなく眺めた。
そうしていると、徐々に頭が覚醒し、自身に起こった凶事を思い出した。
レオルゴールが体に力を入れると、四肢から応答があった。五体満足であることに気が付いて、レオルゴールは小さく息を吐いた。
「……生きてる」
レオルゴールがつぶやくと、寝台の幕の向こうから人影が現れた。
「……おはよう」
顔を見せたのはケントガランであった。彼は切れ長の瞳をさらに細めて、痛々しいものを見るようにこちらを見下ろしている。
「……俺、どうなったんだ」
掠れる声で尋ねると、ケントガランが水を差し出しながら静かに答えた。
「魔法陣が暴発したようだ」
その言葉で、レオルゴールはあのけたたましい音を立てて襲い来る黒い炎を思い出した。
「死んだと思った」
レオルゴールは素直に言った。あれほど複雑に組んだ魔法陣が暴発して、無事で済むとは思えなかったのだ。
「……ひどい怪我だった。ほんとうに、死んでしまうかと……」
「ケントガランが助けたのか?」
ケントガランは頷いた。
「……君はひどい怪我で、3日も生死をさまよったんだ。耐えかねて、時魔法を使った」
「時魔法?」
「時を巻き戻したんだ。今日は君が魔法を使う1日前だ」
「ああ、だから」
レオルゴールは納得した。そして同時にひどく落胆した。伝説とまで言われる時魔法を使ってケントガランを驚かす魂胆であったのだが、ケントガランはすでに時魔法を習得していたのだ。
レオルゴールの鼻柱は粉々に叩き折られた。
「生きていてくれて、よかった……」
己の分限を見せつけられ、落ち込むレオルゴールを、ケントガランは静かに抱きしめた。
「ケントガラン?」
レオルゴールは驚嘆した。冷静沈着な頭脳、泰然自若な態度、レオルゴールが唯一認める魔法使い。そのケントガランが、涙を流していた。
「もう、もう馬鹿な真似はやめてくれ。時魔法は過去へは戻せても、未来には行けないんだ」
「泣くことないだろう」
「君を失うと思った」
「大袈裟な奴め」
レオルゴールは好敵手を手懐けたと得意になって、鼻の穴を膨らませた。
*****
15歳になったレオルゴールは思案していた。
ケントガランに第二王子との婚約の打診があったと小耳に挟んだのだ。
レオルゴールはケントガランをうまく手懐けたと満足していたが、手懐けるだけでは不十分であることをようやく思い出した。
レオルゴールの策を成功させるためには、ケントガランと王子の婚約を阻止しなければならないのだ。
ケントガランとの関係は良好であるが、王室からの婚約の打診を断れるほどかと尋ねられると、答えは否である。
ケントガランはレオルゴールがかつて思っていたよりも愛国心があり、国のために働く機会を棒に振るとは思えないのだ。
かといって、ここで魅了の魔法を使ってしまうとケントガランに警戒されてしまう。ケントガランの魔法の習得を何度か邪魔してみたが、天性の才能か、今世でもケントガランは神童と呼ばれるほどの実力者となっていた。
そうして答えの出ないまま次の策を考えていると、部屋の外から来訪を告げる声が聞こえた。
「レオルゴール、入ってもいいかい?」
「ああ」
ケントガランがクッキーを載せた皿を持って入ってきた。アフタヌーンティーには少し早い時間であったが、レオルゴールはバルコニーに彼を誘った。
春の盛りである。庭の花は咲き誇り、風はぬるく頬を撫でる。
次の春の訪れとともに、ケントガランとレオルゴールは寄宿舎へ入る。レオルゴールの後見人はケントガランの父親である。この形で寄宿舎へ入るのはレオルゴールにとっても初めてのことであった。
とはいえ、卒業するときには、どちらが王子の婚約者にふさわしいのか、雌雄を決しているのは変わらないはずである。
いくつかのクッキーを飲み込んで当たり障りのない会話をしたあと、レオルゴールは切り出した。
「王子との婚約の話を聞いた」
「ああ、それ。君はどう思う?」
「……本音で話しても?」
「もちろんだ」
「婚約しないでくれ」
レオルゴールは歯に衣着せず、己の希望をそのまま口にした。レオルゴールがここまで愚直にものを言うことは珍しい。彼はケントガランに対して小細工をしても仕方ないことを知っているのだ。
王子の婚約相手がケントガラン以外であるなら、あとから排除することができる。なんとしても、婚約をさせてはならないのだ。
レオルゴールの言葉をどのように捉えたのか、ケントガランは身を乗り出した。
「なぜ? なぜ婚約してほしくないんだ?」
「なぜって……」
レオルゴールは口ごもった。自分が王子の配偶者になりたいからだとは、庶民の身分のままである今は口が裂けても言えない。
レオルゴールが答えないでいると、ケントガランが次の質問をした。
「私が婚約するのが嫌なのか?」
「……」
「なぜ? 寂しいから?」
「……それも、あるかもしれない」
レオルゴールな素直な少年然として頷くと、ケントガランはさらに身を乗り出した。
「私たち、とっても仲良しだと思うんだ。隠しごとはなしだよ」
「それはわかってる」
二人の間に沈黙が落ちた。レオルゴールは居心地が悪く、場をつなぐためにクッキーを頬張ったが、味がしなかった。
ケントガランはそんなレオルゴールをじっと見つめて、ふっと笑い、それから口を開いた。
「私も、隠してることをひとつ言おう」
「はい?」
「私、君が好きなんだ」
この時、レオルゴールは石像になった。これまでの人生、彼は魅了の魔法を多用していたため、素面の人間から愛を囁かれたことがなかったのだ。
ケントガランは「返事はまた今度でいい」と言い残して去っていった。レオルゴールは晴天の霹靂、しばし言葉もなく顎を外れんばかりに開けたまま、呆然とその背を見送った。