レオルゴールは怒り心頭であった。
彼は捕らえられた牢の中で抵抗を試みたが、緊縛された両腕ではどうすることもできなかった。牢は狭くて汚らしくて、それでいて頑丈であった。
鉄格子に頭蓋をぶつけてみても、ただ羊が屠殺場でめぇめぇ泣くのと変わらない。いっそ、レオルゴールも羊のように哀れに泣き叫べばかわいげもあるのだが、それは彼の高すぎる矜持が許さないのだ。
「ああ! ちくしょう!」
彼は牢の中を芋虫のように這いずり回った。自慢の金色の髪は砂にまみれ、白桃の頬に血がにじんだ。両足をきつく縛られ、彼には歩き回る自由もない。いま、彼に許されることはただ言葉を吐くことのみである。
人間とは窮地に追い込まれた時、頭の中は空っぽになり、そこに恨みだけが渦巻く。その例に漏れず、黒い感情に包まれた彼は、憎悪の言葉を吐き出した。
「覚えてろよ……。俺には使命があるんだ! 必ず、必ずその使命を果たしてみせる!」
彼はこちらに聞き耳を立てている見張りの兵に聞こえるように叫んだ。しかし、彼にこの状況を打破する術などないのである。
*
レオルゴールは類稀なる魔術の才に恵まれた。
彼は農夫の子として生まれ、豊かな南部の農村で純朴な人々に囲まれて育った。彼の父はたびたび「国民の誇り」について息子に語った。彼は父から爵位こそ貰わなかったが、愛国心を受け継いだのだ。
しかし、その爵位を持たぬばかりに、いまこうしてここに転がっている。レオルゴールが貴族の生まれであったのなら、彼は立身出世のために悪に手を染める必要などなく、また仮に悪事を働いたとしても貴族であるなら不問にされたはずであった。
彼は門閥主義を心底恨んだ。門閥主義こそがレオルゴールの真の敵であった。
この国の貴族は今から160年前に戦争で手柄を立てたことを理由にその地位にいる。顔も知らないであろう先祖の威光を振りかざす現代貴族は、歴史の法則通り、腐敗しきっていた。
この160年間、婚姻と子息の増加により、貴族と名乗る者は増え続けている。貴族とは愚かな生き物らしく、衣服に家、見栄と意地に金を掛けることばかり考え、自分たちの足元で苦しんでいる民のことなど眼中にないのである。
いま、この国は四方から血なまぐさい匂いが漂っていた。
東に大国アレンギルドが迫り、北の蛮勇民族は隙を見せれば略奪にやってくる。南の少数民族たちは面従腹背で、いつ背を打たれるとも限らず、西の海では海賊船がこちらに船首を向けている。
そのような局面において、外交のために国家予算の半分を費やしてダンス会場を作った貴族たちの、なんと滑稽なことであろうか。
レオルゴールはこの国を愛していた。
この国はいま、160年前の栄光にあぐらを搔いている愚かな貴族たちに任せられる状況ではないと断じ、彼は自分こそがこの国の英雄になるのだと立ち上がった。
レオルゴールの計画は単純明快であった。
彼は『魅了』の魔法を得意としていた。他者を虜にして操るこの魔法は、催眠や服従などの野蛮な魔法とは比べ物にならないほど強力に心を支配することができる。また、ゆっくりと侵食していくため、看破されにくいという特性もある。
レオルゴールは権力の中枢にいる貴族たちにこの魔法をかけて、影からこの国を救うことを目論んだのだ。
最初はレオルゴールの出身地の領主であった。レオルゴールは貴族の紋章をつけた馬車の前に飛び出て馬車を止めて、そこから御者、従者に魅了をかけて、そしてついに馬車の中にいた領主に辿り着いた。
何重にも魅了の魔法をかけて十分に支配した後、領主に養子縁組を強請り、領主の遠縁であった男爵家の養子となった。
そのあとは貴族が集まる学校の寄宿へ入った。
レオルゴールはそこで第二王子の存在を知った。
レオルゴールは歓喜した。この国は、妾腹の王子は男と婚姻を結び、結婚と同時に臣籍に下る。その目的は王位継承争いのもととなる王族の過度な増加を避けることと、有力な貴族の優秀な男子を取り込むことだ。
実際、現在の冢宰は国王の弟の配偶者である。
つまり、第二王子の配偶者となることができれば、レオルゴールも堂々と表舞台からこの国を救うことができる。
レオルゴールは第二王子に狙いを定め、世間を知らぬ王子はまんまとレオルゴールの術中にはまったのだった。
第二王子とその側近たちは全員レオルゴールの犬となった。首尾上々であった。レオルゴールは己の遠謀深慮に酔いしれたほどだ。彼は王城の中心で裁決を下す自分の姿を夢見た。
しかし、その夢は第二王子の婚約者の反撃とともに露と消えた。
第二王子の婚約者――ケントガラン――は辺境伯の三男である。彼は神童と呼ばれ、レオルゴールの魅了が効かない唯一の存在であった。
レオルゴールの計画において、ケントガランは邪魔者である。なんとしても除かねばならない。
レオルゴールはケントガランを陥れるために仕掛けた断罪の場を思い出す。
「ケントガラン、お前との婚約は破棄する!」
王子はレオルゴールの讒言を信じ、ケントガランに婚約の破棄を言い渡した。それは学校の卒業祝賀会でのことであり、レオルゴールはほその場にいた者たちほとんど全員に魅了をかけていた。その者たちがケントガランを害せば、レオルゴールの地位は約束される。
――はずであった。
ケントガランはレオルゴールの陰謀をものともせずに胸を張った。
「全員が集まるこの機会を待っていた」
彼が杖をひと振りすると、3年もかけて何重にも施した魅了の魔法がたちまち雲霞のように消え去り、あとにはレオルゴールへの愛をすっかり忘れて間抜けな顔をした王子たちが立ち尽くしていた。
正気に戻った彼らは己のこれまでの醜態を思い出して顔を伏せてむせび泣き、レオルゴールを罵倒した。
そしてレオルゴールは投獄され、今に至る。
「なんて馬鹿な国だ!」
牢の床に転がったまま、レオルゴールは毒づいた。
あの男、ケントガランはとんでもない男だ。それは、ここまで綿密に計画を立てたレオルゴールをたやすく牢に追いやったことで十分に証明できる。しかし、真に証明されてしまったのは、ケントガランほどの才能をもってしても、王子と婚約という形でしかこの国の頂に上がれぬという事実である。
レオルゴールは腐りきったこの国に唾を吐いた。
その夜、足音を忍ばせて一人の男が鉄格子の向こう側に立った。この男は人目を忍んでやって来たらしく、フードを目深く被り、さらにその下に銀の仮面を被って顔を隠していた。男は呪文を唱えて見張りの兵を眠らせると、その懐から牢の鍵を奪った。
レオルゴールは冷たい床に無様に転がりながら、それを見ていた。ここから出してくれと懇願したい衝動を覚えたが、それは叶わなかった。人を眠らす魔法を使う者に心当たりがあり、それが敵対している人物であったからだ。
「ケントガランか?」
レオルゴールが呼びかけると、銀の仮面は小さく頷いた。この仮面の奥に黒い切れ長の瞳があることをレオルゴールは知っている。
「なぜここに?」
王子の婚約者はレオルゴールの疑問に答えなかった。
きっとこの男はレオルゴールがまだ何かたくらんでいると決め込んで、息の根を止めるために来たに違いない。明日から始まる裁判など待っていられないのだ。レオルゴールはそう思った。
レオルゴールは毅然と顔を上げて、好敵手を睨みつけた。
「お前も俺も敗北者だ。勝つのはこの国の出生主義だ。階級制度だ。お前は君の地位を守ったつもりだろうが、その地位を守ったことで、それより上にはいけなくなった」
レオルゴールの言葉は明らかな負け惜しみを含むものであった。しかし、事実でもある。レオルゴールはこの言葉によってケントガランに何らかの心境の変化があることを期待していたが、ケントガランの表情は仮面に隠されて、うかがい知ることはできなかった。
この時、レオルゴールは死を覚悟した。魔術は封じられ、抵抗する術はない。ここが天才であるレオルゴールの最期の場所となるのだ。
彼は瞳を閉じた。裁判所に引きずりだされて再び醜態を晒すくらいなら、ここで終わった方がいいと思った。
レオルゴールが目を瞑ると、何度も味わった渦が彼を襲った。
レオルゴールはその感覚をもはや数え切れぬほど味わった。そしてその波が引いた後に、どのような光景が広がっているのかも知っている。