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あの音

 二十代後半の男性、津村さんの談である。


 その日、津村さんは趣味のブラックバス釣りに出かけた。同行者は大学時代からの友人であり、釣り仲間でもあるSさんだった。

「新しい釣り場を開拓しようや」

 Sさんがそんなことを言い出したため、釣り場に選んだのははじめての野池だった。


 津村さんの運転するワンボックスで、野池に着いたのは昼過ぎだった。すると、雑草にびっしりと覆われているものの、駐車できそうな広いスペースが見つかった。

 そこにワンボックスを停めて、Sさんと共に車の外におりる。鬱蒼と生い茂った樹々が空を隠しているうえに天候は曇りだ。野池の周辺はどんよりと暗かった。


 野池には釣れそうな雰囲気があるものの、先客の釣り人はひとりもいないようだ。雰囲気だけで実際は釣れない場所かもしれないし、あるいは釣り人の少ない穴場なのかもしれない。

「釣れたらええけどなあ」

 Sさんはわくわくした顔でそう言った。


 足もとはどこもぬかるんでいた。これも生い茂った周囲の樹々が、陽光をさえぎっているせいだろう。津村さんたちは足を取られないよう注意しながら、野池の周辺を適当に歩いてまわった。ほどなくして竿を振れそうな、少し開けた場所を見つけた。

「まずは活性のいいバス狙いで、トップを攻めてみるかな」

 Sさんは水面を進むルアーを選択すると、それをラインに結んで投げはじめた。

「じゃあ俺はワームでボトムを狙ってみるわ」

 津村さんはSさんとは反対に、ワームで池の底をさぐることにした。ワームの色は、曇り空や池の濁りを考慮して、派手目の蛍光イエローを選択した。


 そうやって釣りをはじめてすぐ、津村さんはある音に気がついた。


 カアァァン――


 木材同士を叩きつけるような甲高い音だった。

 背後に雑木林が広がっており、そのどこかで鳴った音らしい。

 また、音は一回きりではなかった。

 数分おきに背後の雑木林で同じ音が響いた。


 カアァァン――


 どうやら、Sさんもその音に気づいたようだ。後ろを振り返りつつ、津村さんに尋ねてきた。

「なんや、この音? なにがカアァァンって鳴ってるんや?」

 津村さんも後ろをちらりと振り返り、それからSさんに向き直って応じた。

「さあ……なんの音やろな」

 Sさんはしばらく雑木林を見つめていたが、ふいに前に向き直ると、またルアーを投げはじめた。

 津村さんも同様に釣りを再開した。


 周囲に自然が残っているところで釣りをしていると、奇妙な音が聞こえることはしばしばある。動物や鳥など鳴き声なのか、枯れた樹などが軋む音なのか、正体不明の音がふと耳に届くのだ。

 奇妙な音が聞こえると気にはなるが、気になって仕方ないわけでもない。なにか鳴っているなと、そんな程度のことである。


 さっきから聞こえるカアァァンという音もそうだ。釣行中によく聞こえる奇妙な音のひとつであって、ちょっと気になる程度のことだった。


 音はそれから十五分ほど鳴り続けていたが、そのあとはまったく聞こえなくなった。周囲は相変わらずどんよりと暗い。雲の厚みが増したように思えて、雨が降らないか心配になった。

 さいわい雨には降られなかったが、釣果はまったくあがらなかった。津村さんもSさんも手を替え品を替え野池を攻めてみたが、あたりすらないまま陽が落ちはじめる時間になった。


 Sさんが野池を見つめながらぼそぼそと呟いた。

「ここにはバスがおれへんのかもな……」

「そやな……」

 津村さんが同意すると、Sさんが尋ねてきた。

「そろそろ帰るか?」

「暗くなってきたしな……」

 そこで釣行は終了となり、津村さんたちは車に戻った。

 ワンボックスのバックドアを開けて竿を片づけていると、Sさんが野池をちらりと振り返って言った。

「そういや、ずっと鳴ってたよな、あの音」

「音って?」

「カアァァンって音」

 Sさんに言われて、津村さんはその音のことを思いだした。確かに釣行中に甲高い音が鳴っていたが、ずっとは鳴っていなかったはずだ。最初に少し鳴っていたものの、十五分ほどして聞こえなくなった。

「ずっとは鳴ってなかったやろ?」

「いや、ずっと後ろで鳴ってたで」

 津村さんは首を傾げた。

「鳴ってたっけ?」

「鳴ってたって」

 Sさんにきっぱり断言されても、やはり津村さんにはその記憶はない。しかし、鳴っていようが鳴っていまいが、別にどっちでもいいことだった。

「そうか……鳴ってたかもな」

 津村さんは竿を片付けながら適当に応じた。


 車に乗り込み、野池を離れた。山道をしばらくおりると、周囲が開けて国道に出た。国道沿いに飲食店がいくつか並んでおり、ド派手な電飾看板をぎらつかせていた。

 それを目にした津村さんは、急に空腹感を覚えた。

「腹減ったな。飯を食って帰れへんか?」

 助手席に向かって尋ねると、Sさんは後ろを振り返っていた。

「なにしてんねん。うしろになんかあるんか?」

 津村さんが運転しつつ尋ねると、Sさんは前に向き直って呟いた。

「いや、きっと気のせいやな……」

「なにが気のせいやねん」

「カアァァンって音がな、聞こえた気がしたんや」

 Sさんはどこか神妙な声でこう続けた。

「でも、あの音が聞こえるはずないよな……」


 そのあとにSさんが音に言及することはなかった。津村さんはもう一度「飯を食おうや」とSさんを誘い、適当なラーメン屋を見つけて腹を満たした。

 それから再びワンボックスに乗りこみ、次の釣りはいつにするかなど、適当な話で盛りあがりつつ家に向かった。車をおりるまでのSさんに変わったようすはなかった。

 少なくとも津村さんはそう思っていたのだが――。


 野池での釣りから約三週間後の日曜日だった。

 Sさんはマンションの四階に、両親と姉の四人で住んでいる。昼食を終えてまもなくの午後一時半頃に、Sさんはマンションのベランダから飛び降りたのだった。津村さんがそれを知ったのは翌日のことで、仕事帰りにSさんが入院している病院に向かった。


 病室は六階にあった。

 Sさんの母親から電話で聞いてはいたが、Sさんはあちこちを骨折したものの、命には別状はないとのことだった。また、そこそこ重症のわりには案外元気で、会話するにはこれといって支障はないという。


 実際にSさんを見舞うとそのとおりで、頭や手足に包帯を巻いた姿は痛々しかったものの、話し声はいつもと変わらないと感じた。

「ベランダの下に植え込みがあるんや。それがクッションになって、なんとか死なずに済んだ」

「そうか……」

 津村さんは短く応じると、病床で横になっているSさんを見つめた。


 死なずに済んだのは素直によかったと思うが、ベランダから飛び降りた理由が気になっていた。

 普通に考えれば自殺だ。自殺するようなタイプには見えないが、Sさんにはなにか悩みがあったのだろうか。だとしたら、津村さんに相談してほしかった。友達がひとりで悩んでおり、その末に自殺したなんて、悔しくて悲しいことだった。


 すると、津村さんの気持ちを察したように、Sさんが真面目な顔をして告げてきた。

「言うとくけどな、自殺とちゃうからな」

 本当に自殺ではないのであれば、津村さんの気持ちも少し晴れる。少し安堵したのだが、またすぐに不安に苛まれた。Sさんが奇妙なことを言いだしたからだった。


「あの音がずっと聞こえてたんや。野池で聞こえたカアァァンって音が……」

 釣りをした日からあの甲高い音が聞こえ続けていたそうだ。津村さんには黙ってはいたようだが、帰りにラーメン屋に寄ったときも、音がずっと聞こえていたという。

 その音はSさんにしか聞こえていないようで、日を追うごとにだんだん大きくなっていった。ここ最近は耳もとで鳴っているかのように、はっきりと聞こえるようになっていた。


 Sさんはその得体の知れない音が恐ろしくて仕方なかった。音に追いかけられているような、そんな気分にもなっていたそうだ。

「あの日は特に音が大きかった。それで、これは逃げないとまずいと思ったんや。音のしないほうに逃げていたつもりが、気づくとベランダから飛び降りていた」

 Sさんの話の内容はまともとは思えなかった。Sさんにしか聞こえない音というのも、その音に追いかけられているというのも、にわかには信じられないおかしな話だ。

 自殺ではなかったとしても、精神的に不安定なのではないか。津村さんはそんな不安に苛まれた。


 だが、さらに話を続けたSさんは、存外に穏やかな顔をしていた。

「けど、もうあの音は聞こえへん。そもそも俺しか聞こえてないって、はじめっからおかしな話やわな。そんなんありえへん。だから、今は一時的な耳鳴りやったかもって思ってる。最近、仕事が忙しくてストレスが溜まっていたしな。ストレスで耳鳴りが起きることもあるみたいやし」


 津村さんの目には、Sさんのようすがいたって健全に思えた。ベランダから飛び降りたときは、精神的に不安定だったかもしれない。だが、今は精神状態が落ち着いており、思考が正常に働いているようだ。

 もうベランダから飛び降りたりはしないだろう。安心してもいいのかもしれない。


 津村さんはそう思いつつSさんに応じた。

「なるほど、耳鳴りか……」

「まあ、俺の勝手な思いこみやから、根拠なんてないんやけどな。でも、俺にしか聞こえない音っていうのよりは現実的やろ?」

 そう言ったSさんはすっきりとした顔をしていた。包帯だらけになっているが、いつもどおりのSさんだ。やはりもう安心してもいいようだ。

 ほっとした津村さんは、しばらくSさんと雑談をしてから、「また、くるわ」と告げて病室をあとにした。


 それからSさんの怪我は、日に日に回復していった。医師の話によると後遺症が残る可能性も低いそうだ。津村さんもSさんの家族も、元気になってよかったと心から安堵していた。

 ところが、もうすぐ退院するという頃に、Sさんが六階の病室から飛び降りた。


 同じ病室にいた入院患者の話では、昼の一時過ぎのことだったらしい。Sさんは突然奇声をあげると、病室の窓を開け放って飛び降りた。

 今度は落ちた場所が駐車場だったため、Sさんは全身を強打して亡くなった。ほとんど即死状態だったらしい。

 また、Sさんが病室から飛び降りる少し前に、看護師がSさんの呟きを聞いたそうだ。

「音が聞こえる……」

 Sさんは両手で耳を塞ぎつつ、そう呟いていたのだという。



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