これは二十代前半の男性、池内さんの談である。
大学に入学した当初の話だという。
池内さんは大学に入学したのをきっかけにひとり暮らしをはじめた。大学には学生寮の用意もあったのだが、池内さんはワンルームマンションを選んだ。
池内さんが借りた部屋はいわゆる事故物件だった。前入居者の若い男性が首吊り自殺を図ったそうだ。人の死がからんだ事故物件を敬遠する入居者も多いが、池内さんはそういったことを気にする質ではなかった。むしろ、相場より安い家賃に魅力を感じて、その部屋を借りることにした。
不動産仲介会社の担当者は、部屋を借りる前の内見のさいに、池内さんにこんな話をした。
「前の住人さまが自殺したとき、すぐには気づかれませんでした。夏場だったために遺体が腐敗しましてね、隣室の住人さまが悪臭を訴えたんです。管理人がようすを見にいき、そこでようやく自殺が発覚しました」
やけに生々しい話をすると思っていると、それを察したかのように担当者は言った。
「当社ではご入居いただいた方に、すべてを包み隠さずお話しさせていただいております」
住みはじめてから後悔が生じないようにと、そういった配慮があっての対応らしかった。
しかし、すべてを話すと宣言しておきながら、腐敗した遺体があった場所を具体的には言わなかった。単に忘れていただけなのか、なにか意図してのことなのか。
いずれにせよ、わざわざ質すまでもないと思えて、池内さんのほうからもそれを尋ねはしなかった。遺体のあった場所を気にするようであれば、端から事故物件には住まない。
「部屋は専門業者がしっかり清掃しました。現在は腐敗臭などはまったく残っていません。その点はご安心ください」
そうしてはじめたひとり暮らしだったが、憧れのひとり暮らしということもあって、引っ越した当初は楽しく暮らしていた。
ところが、二ヶ月ほどが経った頃から、池内さんの身に異変が起きはじめた。
記憶が飛ぶようになったのだ。
最初は夜の十一時過ぎにテレビを観ていたときだった。ニュース番組を観るともなく観ていると、ふっと記憶が飛んで、次に気づいたときには玄関の土間に立っていた。
「え……」
池内さんは状況がつかめずに呆然としてしまった。
しかし、やがて頭がまわりはじめてこのように思い至った。
ニュース番組がどうにも退屈で、うとうとしていた記憶がある。寝ぼけるかなにかして、玄関にやってきたのだろう。
少々強引な解釈ではあるが、自分をそう納得させて、深くは考えないようにした。
ところが、それから二週間ほど経った頃に、また記憶が飛んだのである。
ユニットバスでシャワーを浴びていたところまでは覚えている。その後の記憶が飛んでおり、気づくと玄関の土間に立っていた。
裸のままでびしょ濡れだった。
それ以降も同じように記憶が飛んだ。
ベッドに寝転んで動画サイトを観ていると、記憶が飛んで玄関の土間に立っていた。洗濯物を取りこもうとベランダに出ると、記憶が飛んで玄関の土間に立っていた。小腹が空いてインスタント麺を食べていると、記憶が飛んで玄関の土間に立っていた。
そういったことが起きるのは決まって夜の十一時過ぎで、どうやら十分ほど記憶が飛んでいるらしかった。そして、次に気づいたときには必ず玄関の土間に立っている。
記憶が飛ぶなんて気味悪いが、頻度は数週間に一度程度だ。飛んでいる時間も十分ほどと短い。そのくらいだと生活に支障がないというのもあって、池内さんは疲れているからだろうと、そんなふうに考えて気にしないよう努めた。
なにより、記憶がときどき飛ぶなんてことを、誰にどう相談すればいいのかわからない。気にしないように努めるしかなかった。
そうしているうちに事態は悪化した。日を追うごとに頻度が増えていったのだ。
数週間に一度が一週間に一度になり、さらには三日に一度になり、とうとうほぼ毎日記憶が飛ぶようになった。
また、頻度が増えてから判明したことがあった。記憶が飛ぶのはワンルームマンションにいるときだけだった。その時間に友達と出かけるなどして、外出しているときは記憶が飛ばなかった。
池内さんには同じ大学に通うＹさんという友達がいた。思い切って記憶が飛ぶことを相談すると、
「事故物件なんかに住んでるからやろ。祟りやって、祟り。こわっ」
おもしろ半分にそう言われたが、池内さんは祟りなど信じていなかった。
しかし、祟りの代わりに脳の病気を疑った。
毎日記憶が飛ぶというのは只事ではないはずだ。脳に深刻な問題が起きていないだろうか。脳神経外科で診てもらったが、検査の結果は特に異常なしだった。
それを聞いて多少は安心したものの、記憶が飛ぶという現象は相変わらずだった。毎日夜の十一時過ぎに記憶が十分ほど飛び、次に気づいたときには必ず玄関の土間に立っていた。
池内さんにはＹさんのほかに、Ｓさんという名の友達もいた。Ｓさんにも記憶が飛ぶという話をすると、Ｙさんと同様におもしろがった。
そして、Ｓさんは次の週末に池内さんの部屋にやってきた。記憶を飛ぶ現象を見てみたいらしいのだ。また、部屋にやってきたＳさんは、こんな話をしながら手を伸ばしてきた。
「お前のスマホを貸しといてくれ。記憶が飛んでるときに動画を撮っといたるから。なんかおもろいのが撮れそうや」
わりと真剣に悩んでいるというのに、おもしろがられるのはいい気がしない。だが、動画を撮るというのはいいアイデアに思えた。池内さん自身も記憶が飛んでいるあいだに、なにをしているのか知っておきたかった。
玄関の土間に立っているだけかもしれないし、ほかにもなにかしているかもしれない。
「じゃあ、スマホを渡しとくから動画を頼むわ」
「おう、任せとけ」
スマホを受け取ったＳさんは、やけに楽しげな顔をしていた。
Ｓさんと一緒にコンビニ弁当を食べて、テレビを観たり、無駄話で盛りあがっていると、そのうち夜の十一時近くになっていた。
「どんなもんや。そろそろ記憶が飛びそうか？」
Ｓさんは好奇心に満ちた口調でそう尋ねてきた。
「飛びそうかどうかは俺にもわからへんねん。飛ぶときは勝手に飛ぶから。でも、まあ、今日も飛ぶんやろうけどな」
「そうか……早く記憶が飛ばんやろか。なんかわくわくするわ」
「わくわくってなんやねん。俺は結構本気で悩んでんねんぞ」
「悪い悪い」
Ｓさんは一旦は謝りながらも、嬉々とした口調で尋ねてきた。
「記憶が飛んでいるあいだに、前世の話とかしとったらどうする？ 外国語をペラペラ話しだすとかもありそうやな。なんかマジでわくわくするわ」
「なんかお前、ほんまに楽しそうやな……」
Ｓさんにそう言って抗議した次の瞬間、池内さんは玄関の土間に立っていた。
状況がつかめずに一瞬は呆然としたが、これまでに何度も経験してきたことだ。いつものように記憶が飛んだのだとすぐに理解した。
池内さんは玄関から後ろを振り返った。Ｓさんに動画が撮れたかどうかを確認しようと思ったのだ。
だが、そこにＳさんの姿はなかった。
部屋にいるのかとも思ったが、そこにもＳさんはいなかった。トイレにもいない。Ｓさんに預けておいた池内さんのスマホは、部屋のテーブルの上に放りだされていた。
「なんや、あいつ……どこにいってん……」
動画を撮ると言っていたくせに、まさか帰ってしまったのだろうか。
少しばかり苛っとしたとき、池内さんはようやく気がついた。
「Ｓって誰や……」
池内さんにはＳさんという友達なんていなかったのだ。Ｙさんという友達はいるが、Ｓさんという名の友達はいない。また、さっきＳさんとコンビニ弁当を食べたが、その痕跡も部屋にいっさい残っていなかった。
池内さんは強い懸念を抱いた。
なぜ、存在していないＳさんという友達が、部屋にやってきたつもりでいたのか。詳しいことはよくわからないものの、なにか異常なことが起きているに違いない。
以前にＹさんがこう言っていた。
「事故物件なんかに住んでるからやろ。祟りやって、祟り。こわっ」
自分の身に起きていることはきっと、脳の問題のような現実的な話ではない。おかしいというレベルのことではなく、常識から外れた不可解なことが起きている。
池内さんははじめてそう強く意識した。
翌日、池内さんは部屋の担当の仲介会社に電話で連絡した。
前入居者の自殺の詳細を確かめるためだった。
『失礼いたしました。お伝えしたつもりでいたのですが、失念してしまっていたようです。自殺された男性の名前はお伝えできませんが――』
仲介会社の担当者は慇懃な口調で前置きしてから、次のような説明をした。
『遺体が見つかった場所は玄関の土間でした。玄関扉のドアノブにロープをかけて、首を吊った状態で見つかっています』
続けてこんな話もした。
『男性は自殺する前にご家族あての遺書を残しておられました』
その遺書の内容から、自殺した時間のおおよそが判明しているという。男性は夜の十一時頃に自殺したらしい。
池内さんやっぱりと思った。
毎日夜の十一時頃に記憶が飛んで、次に気づくと玄関の土間に立っている。池内さんの身に起きているその現象と、前入居者の自殺には、なにかしらのかかわりがあるのだろう。どう関連しているかは不明だが、もはや無関係とは考えにくかった。
また、おそらく自殺した男性はＳさんだ。根拠や証拠は示せないものの、間違いないと池内さんは確信した。
Ｓさんだったものが、きっとまだこの部屋にいる。
＊
後日になってから池内さんは気がついた。撮った覚えのない動画が、スマホに残されていたのだ。
保存日はＳさんが部屋にやってきた日だった。
恐る恐る開いた動画には、池内さんの後ろ姿が映っていた。池内さんは玄関扉のほうを向いて、薄暗い土間に無言で立っている。
しばらくそうしていた池内さんは、やがてゆっくりとこちらを振り返った。その顔は確かに池内さんだったものの、不気味なほど無表情で、自分の顔が別人のように見えた。これも根拠や証拠は示せないが、きっと池内さんの中にＳさんが入っている。
動画はそのまま十秒ほど続き、いきなり真っ暗になった。そこで動画が切れたのだった。
池内さんはすぐに動画を削除したが、ちゃんと削除できたか不安に駆られて、何度も何度も保存フォルダを確認した。そうしてよやく削除できていると安心できた。
安心すると同時に、ここにはもう住んでいられないと思った。
実際に池内さんは早々に退去の手続きを済ませて、そのワンルームマンションから引っ越した。引っ越し先もワンルームマンションだったが、事故物件ではないかを念入りに確認した。
夜十一時頃に記憶が飛ぶという現象は、引っ越してから一度も起きていないという。
