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冷たい目

 これは五十代前半の男性、立花さんの話である。


 今から二十年以上も前の話だという。

 当時の立花さんは二十代後半で、鉄工所の職人として働いていた。麻衣子さんという女性とつき合っており、ふたりで二階建ての木造アパートに移り住んだ。いわゆる同棲というやつだ。


 同棲をはじめて三週間ほどが経った深夜のことだった。

 布団の中で眠りについていた立花さんは、強い違和感を覚えてぱっと目を覚ました。すると、身体がまったく動かなくなっている。何度かそれを経験したことがある立花さんは、すぐに金縛りにみまわれていると気がついた。しかし、何度金縛りにあっても慣れるものではない。そのつど恐怖を覚えた。


 隣から麻衣子さんの寝息が聞こえる。首から上は動かせるため、彼女の姿を確認できた。だが、声は少しも出てくれず、助けを求めることはできない。


 どうにかして金縛りを解けないものか。その一心で身体に力を入れようとしたとき、立花さんは足首あたりに違和感を覚えた。頭を持ちあげて足もとを見た。見えるものは布団だけなのだが、小型犬ほどの重さをじんわりと感じる。布団の上に見えないなにかが乗っている。


(なんだ、これ……)

 気味悪く思っていると、それはゆっくりと動きだした。目視できない小型犬のようなものが、布団の上をゆっくりと四本足で歩いている。徐々に足首から膝のところまであがってくると、さらに移動して太ももあたりにまで移動してきた。

 ここで立花さんは唐突にその正体に気がついた。四本足で歩いているのではなく、四つん這いになって歩いている。

 小型犬ではない。

 赤ん坊だ。

 目に見えない赤ん坊が、布団の上でハイハイしている。


 赤ん坊だと気づくと、余計に気味が悪くなった。そして、その赤ん坊はなおもハイハイしながら、ゆっくりと布団の上をあがってくる。腹部、胸――そして、生ぬるい息が立花さんの顔にかかった。

 赤ん坊の顔が目の前にある。それがはっきりわかった直後、頬に小さな手の感覚を感じた。

 ペタ……

 すると、身体がいっきに軽くなり、金縛りが解けたと感じた。


「うわあぁぁ!」

 反射的に飛び起きた立花さんは、唖然として部屋の中を見まわした。

「え……」

 今しがたまで夜だったというのに、気づけば朝を迎えていたのだった。赤ん坊の気配はもうどこにもなかった。


 隣で眠っていた麻衣子さんが、目をこすりつつ尋ねてきた。

「……どうしたの?」

 立花さんが飛び起きたために、起こしてしまったらしい。

 壁かけ時計に目をやると午前七時三十分過ぎを指している。平日であればそろそろ起きだす時間だが、今日は日曜日で仕事は休みだ。起きるのはもう少し先で構わない。

 金縛りや赤ん坊の話を正直に伝えれば、きっと麻衣子さんを怖がらせてしまう。それでなくても麻衣子さんは怖がりだ。気味の悪い話は避けたほうがいいだろう。

「ごめん、寝ぼけて平日と間違えた……」

 立花さんはそう言って誤魔化したのだった。


 その日の昼過ぎに、立花さんはアパートの大家のもとを訪ねた。大家はアパートの隣にある戸建住宅に住んでおり、六十代後半の小柄な女性だった。


「あの、ちょっと失礼なことをお伺いしますが……」

 立花さんは大家宅の玄関先で、思い切ってこう尋ねた。

「ぼくが借りてる部屋って、過去になにかありました?」

 大家は首を傾げて尋ね返してきた。

「なにかって?」

「気を悪くさせたら申しわけないんですが、誰かが亡くなったとかはないですか? たとえば赤ちゃんが亡くなったとか」

「いいえ、ないけれど」

 大家の話によると、立花さんが借りている部屋だけでなく、アパート全体においてもそのような不幸な事実はないという。


 大家が嘘をついているようには思わなかった立花さんは、

「変なことを訊いて、すみませんでした」

 頭を深くさげてから二階の部屋に戻った。

 昨晩の赤ん坊がこの世のものではないは明らかだ。部屋に不吉な曰くがあるのではと疑ったが、どうやらそういったことはないようだ。

 しかし、それからしばらくして、立花さんは妙な話を聞いた。


 仕事の取引先に立花さんと同年輩の、Kさんという名の男性がいた。立花さんはそのKさんと懇意にしていた。何度か仕事でかかわっているうちに意気投合し、プライベートでも飲みにいくような仲になったのだ。

 あるとき、Kさんと麻衣子さんの地元が、同じであることが発覚した。

 思いがけない偶然に立花さんは興奮したが、Kさんから麻衣子さんにかんするある話を聞いて動揺した。


 麻衣子さんが二十代半ばの頃の話だという。つまり、立花さんと知り合う数年前のことになるのだが、麻衣子さんは子供を産んでいるらしいのだ。父親が誰であるかは誰も知らないという。

 立花さんはそんな話を麻衣子さんから聞いたことがなく、ましてや産んだというその子供を見たこともなかった。


 また、それは根も葉もない噂ではないようだった。麻衣子さんが赤ん坊を抱いているところを、Kさん自身もその目で見たことがあるという。

 だが、いつのまにか麻衣子さんが地元を去ったため、その後の彼女のことはKさんも把握していなかった。どこかでひとりで暮らしているという噂が広まったが、子供がいるはずなのにと地元のみなは不思議がった。


 立花さんはその日のうちに、Kさんに聞いた話を麻衣子さんに問い質した。なぜ、子供を産んだことがあると言ってくれなかったのか。子供を産んだ事情はいろいろあるだろうが、なにより隠されていたことがショックだった。

 そして、産んだ子供はどうしているのか。


 すると、麻衣子さんは冷たい目をしてこう言った。

「詳しいことは明日話すから……」

 生気をまったく感じない冷たい目だった。

「明日になったら教えてくれるのか」

「ええ、明日にちゃんと話す」

 ところが、麻衣子さんはその翌日に、アパートをこっそりと出ていった。立花さんが仕事から帰ってくると、彼女と彼女の私物がすべて消えていた。


 以後の麻衣子さんは完全に消息を絶った。どこにいってしまったのか、まったくもって見当がつかなかった。


    *


 あの夜に立花さんが経験したことと、麻衣子さんが産んだという子供に、なにかかかわりがあったのかどうか。二十年以上の年月が経った現在でも、立花さんはそれを考えるのだという。

 また、麻衣子さんが見せた冷たい目を、今になっても忘れられないそうだ。



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