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ドアの向こう |

 これは三十代前半の女性、川口さんの話である。


 中学生のときの話だという。

 川口さんの両親は共働きだったため、彼女が下校したさい、家に誰もいないことが多かった。その日も二階建ての戸建住宅は無人だった。


 家に入った川口さんは玄関ドアの鍵を閉めて、土間で学校指定の革靴を脱ごうとした。そのとき、ふと背後に気配を感じて、そちらを振り返った。


 玄関ドアには明かり取りの窓が設けられていた。横幅は二十センチほどしかないものの、ドアの上から下まで貫く縦長の窓だ。磨りガラスがはめられており、そこに背の高い男性の姿が透けていた。男性はこちらをじっと見つめるようにして、ドアの向こうにぼんやりと立っている。

 磨りガラス越しに見える男性の姿は、水の中にいるかのようにはっきりとしない。ゆえに顔立ちが判然としないものの、全体の雰囲気からして、年齢は三十歳前後だろうと思えた。上は白いシャツらしきものを着ており、下には細身の黒いパンツを履いている。


 おそらく、この男性は生きている人ではない。川口さんはそう感じたものの、不思議と怖いとは思わなかった。男性はこの世ならざるものではあっても、悪いものではないだろうと、どことなくそんな印象があったからかもしれない。

 とにかく、自分でも驚くほど冷静に、男性の存在を認めていた。

 男性は一分ほどそこにぼんやりと立っていたが、そのうちすうっと後ろにさがっていき、磨りガラスの前から姿を消した。

 川口さんはドアハンドルに手を伸ばしたが、思い直してその手を引っこめた。ドアを開けて男性が消えたかを確かめても、これといって意味がないように感じた。


 その日を境にして、毎日のように男性が現れるようになった。川口さんが中学校から帰ってくると、玄関ドアの磨りガラスに、ぼんやりと立つ男性の姿が透けているのだ。

 男性の姿はいつも同じだった。水の中にいるかのようにはっきりとせず、上には白のシャツらしきものを着て、下には細身の黒いパンツを履いていた。

 そして、一分ほどするとすうっと後ろにさがっていき、姿を消す。

 ドアを開ける直前に背後を振り返って、人の有無を確かめたこともある。誰の姿も認められなかったというのに、ドアを開けて玄関に入ってみると、磨りガラスの向こうに男性が立っていた。


 得体の知れない男性が毎日毎日執拗に現れる。恐怖を覚えて然りだというのに、川口さんは少しも怖いとは思わなかった。やはり男性から悪いものという印象を受けなかったからだ。


 そんな不可解な現象が続いていたある日のことだった。

 中学校から帰ってきて家に入った川口さんは、玄関の土間から背後のドアを振り返った。いつもの男性が磨りガラスに透けており、ぼんやりと立ってこちらを見つめていた。

 川口さんははじめて男性に話しかけてみようと思った。そう思った理由は自分でもよくわからなかった。だが、とにかくその日は男性に話しかけてみたいと、強い衝動に駆られたのだった。


 川口さんは玄関ドアに一歩近づき、磨りガラス越しに問いかけた。

「なにか用ですか?」

 すると、男性は短い間のあと、くぐもった声で言った。

「家の中に入れてもらえませんか?」

 川口さんは少し悩んで答えた。

「ダメです」

 すると、いきなりドアがバンッと強く叩かれた。

 男性が手の平で叩いたらしい。

 それから男性はしばらく黙っていたが、やがてさっきと同じことを口にした。

「家の中に入れてもらえませんか?」

「ダメです」

 川口さんが同じく拒否すると、男性は再びドアを強く叩いた。

 叩いたあとはしばらく沈黙し、またも同じことを口にした。

「家の中に入れてもらえませんか?」

「ダメです」

 すると、今度は一度だけではなく、バンッ、バンッ、バンッと、何度も続けてドアを叩いた。

 十回ほどドアを叩いた男性は、急に叩くのをやめて、あとはもう口を開かなくなった。そこにぼんやりと立って、磨りガラス越しにこちらをじっと見つめていた。


 やがて、すうっと後ろにさがっていき、磨りガラスの前から姿を消した。

 その日以降、男性は姿を見せなくなった。


    *


 当時の川口さんは、男性を悪いものとは感じておらず、怖いという感情は湧いてこなかった。しかし、今になってそれは間違いだったのだろうと思っている。


 ドアをバンバンと叩くあの行為はひどく暴力的だった。それに強い害意も感じられた。

 きっとあれは悪いものだった。

「家の中に入れてもらえませんか?」

 あのとき、もしドアを開けていれば、どうなっていたのだろうか。



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