これは四十代前半の男性、高山さんの話である。
当時の高山さんは大学生だった。
同じ大学に通うEさんという友人が、車の免許を取得したために、どこかに出かけようという話になった。もうひとりの友人であるMさんも誘うと、「肝試しはどうや?」という提案があり、高山さんもEさんもそれを了承した。
肝試しの場所に選んだのは、とある公衆電話ボックスだった。Mさんがオカルト雑誌を愛読しており、先月号で紹介されていた心霊スポットだ。
オカルト雑誌に載っていた情報によると、その電話ボックスはS級の心霊スポットらしかった。数々ある他の心霊スポットと比べて、怪現象の報告例がずば抜けて多いという。
Eさんが運転する車で出かけたのは土曜日の夜だった。目的の電話ボックスは小さな児童公園の中にあるもので、付近に到着したのは深夜の二時を少し過ぎていた。高速道路を約一時間、それから一般道を約三十分、合計一時間三十分の道のりだった。
児童公園には駐車場がないため、車は路上駐車することにした。高山さんたちは車をおりて電話ボックスに向かった。
児童公園は鉄道が走る高架の下にあった。深夜とあって人の姿は認められず、そのうえ古びた常夜灯の灯りはひどく心許ない。いかにも怪現象が起きそうな静けさと暗さだった。
そんな公園の片隅に、電話ボックスはぽつんと佇んでいた。
「雰囲気ばっちりの場所やな」
Mさんの嬉しげな呟きに、高山さんたちは同意した。
「ほんまやな」
深夜二時過ぎに公園に到着したのは偶然ではなかった。あえてその時間を狙って車を走らせてきた。
これもMさん愛読のオカルト雑誌による情報なのだが、この電話ボックスにおいて多くの人が経験している現象がある。
電話ボックスに入って電話をしていると、女の啜り泣く声がどこかから聞こえてくる。時刻はいわゆる丑三つ時の、深夜二時から三十分までのことが多い。
そういった怪現象だった。
本当に啜り泣く声が聞こえるかどうか、実際に丑三つ時に電話ボックスに入ってみようと、到着時刻を深夜二時に合わせたのだった。
当初は三人で中に入るという話をしていたのだが、直前でMさんがひとりで入りたいと言いだした。
「そのほうか怖いやろ。ひとりで入らせてくれ」
高山さんとEさんは笑いながら返した。
「お前、ほんまにこういうのが好きやな」
「お好きにどうぞ」
オカルト雑誌を愛読するMさんは、言わずもがなオカルトマニアだった。だが、それらしきものに遭遇したことが一度もなく、今日こそは怪現象を経験したいというのだ。
「ほな、入らせてもらいまっさ」
Mさんはおちゃらけた感じで片手をあげると、電話ボックスの折れ戸を開けて、抜き足差し足で中にゆっくり入っていた。わざともったいぶっているらしい。
見兼ねたらしいEさんが、笑いながら突っこんだ。
「もうええって。早よ、入れ」
Mさんは「はは」と笑うと、普通の足取りになって、電話ボックスに入って折れ戸を閉めた。
高山さんたちは外からMさんを見守った。
「ほんまに啜り泣く声が聞こえると思うか?」
高山さんが尋ねると、Eさんは笑って否定した。
「いや、どうせ聞こえへんやろ」
高山さんもEさんも、おそらくMさんも、霊の存在を信じていなかった。信じてはいないが、怖い怖いと言って恐怖を楽しんでいた。
Mさんは電話ボックスの中で、周囲をキョロキョロ見まわしている。ときおり公衆電話の受話器を取ったり戻したり、電話帳をバラバラめくったりもしている。
「落ち着きのないやつやな」
Eさんの半笑いの呟きに、高山さんはつけ加えた。
「通信簿に〝落ち着きがないです〟って書かれるタイプやな」
しんと静まり返った公園に、高山さんたちの笑い声が響いた。
電話ボックスの中にひとりでいるのが飽きてきたのか、Mさんが笑顔をみせながらこちらに向かって手を振りだした。高山さんとEさんが振り返してやると、今度は飛んだり跳ねたりして、小躍りじみた滑稽な動きまでしはじめた。
Eさんはまた半笑いで呟いた。
「こいつ、ほんまにアホやな」
「行動が小学生や」
高山さんたちが笑っているのが嬉しいらしく、Mさんは滑稽な小躍りを楽しげに続けた。しかし、電話ボックスは動きまわるには狭い空間だ。ときどき手や足をガラスの壁にぶつけて痛そうにしている。
高山さんはEさんと一緒にMさんを笑って見ていたが、だんだん変だと思いはじめた。
「いつまで踊ってんねん……」
どうやらEさんも同じことを思っていたらしく、Mさんを見やったまま怪訝そうに呟いた。
「長過ぎるやろ……」
Mさんは電話ボックスの中でずっと踊り続けていた。数分程度ならともかく、もう十分ほど経っている。Mさんにはお調子者のところもあるが、だとしても十分というのは長過ぎる。
それに長いだけではなかった。
「こいつ、なんかおかしないか……」
高山さんが言うと、Eさんは同意した。
「確かにおかしい……」
一見だとMさんは楽しげに飛んだり跳ねたりしている。しかし、よく見れば顔が能面のように無表情なのだ。行動と顔が合致しておらず、不自然きわまりない。
いや、不自然どころか異様な印象すらあった。
高山さんは嫌な予感がした。
「放っといたらあかんのちゃうか……」
「俺もそんな気がする……」
詳しく説明しろと言われると説明できないものの、電話ボックスの中で、なにか奇妙なことが起きている気がした。そして、Mさんがまずい状況に陥っていると、そんな直感めいたものもあった。
高山さんはその直感に従って、電話ボックスの折れ戸に駆け寄った。取っ手に指をかけて引っぱる。
「おい、M。大丈夫か?」
折れ戸を開けつつ声をかけた途端、Mさんが飛びだしてきた。Mさんは勢いあまって転んだが、すぐに立ちあがって叫んだ。
「逃げろ!」
Mさんの形相は尋常ではなかった。恐怖に駆られているのが明らかだ。
やはり電話ボックスの中でなにかあったのだ。
Mさんのようすに高山さんも恐怖を覚えて、問いかけた声が思わず大きくなった。
「どうしてん! なにがあったんやッ?」
しかし、Mさんは高山さんの問いを無視して、公園の外に向かって走った。
「おい、待ってって!」
わけがわからなかったが、高山さんはMさんを追った。
Eさんもあとに続いた。
みなで車に乗りこむや否や、Mさんが後部座席でまた叫んだ。
「ここはあかん。早く車をだしてくれ!」
「なんやねん、さっきから!」
EさんもMさんのようすに戸惑っているようだった。
「いいからだせって!」
「だから、なんやねん!」
Eさんは怒鳴り返しながらも、Mさんの指示に従って車を急発進させた。そのまま来た道を逆に走った。
車内でもMさんのようすは普通ではなかった。いつものお調子者は影を潜めて、怯え切った顔を見せている。助手席におさまっている高山さんも、それにつられて緊張していた。ハンドルを握るEさんの横顔も表情も硬い。
電話ボックスでなにがあったのかを知りたかったが、今はとてもMさんに質せるような雰囲気ではなかった。
車は沈黙したまま三十分ほど一般道を走り、高速道路の入口が行く手に見えてきた。そのときになってようやくMさんが口を開いた。
「……なんでお前ら、助けてくれなかったんや?」
高山さんとEさんを責めるような口調だった。表情には怒りが滲んでいた。
ようすがおかしいということに気づかず、飛んだり跳ねたりしているMさんを、しばらく笑って見ていたからだろうか。
しかし、そうではなかった――。
Mさんはこんな話をはじめた。
「電話ボックスに入ってしばらくしたら、どこからか声が聞こえてきたんや」
オカルト雑誌では女の啜り泣く声だと紹介されていたが、実際に聞こえてきたのは子供の笑い声だったらしい。ただ、それはごく小さな声であり、風の音にも聞こえたという。
Mさんは声の正体を確かめてやろうと耳を澄ませた。すると、いきなり下からはっきりと笑い声が聞こえた。
見れば、五、六歳と思われる男児が、Mさんの足にしがみついていた。
その男児の顔は肌が鉛のように黒ずんでいたという。足に伝わってくる体温は、氷のように冷たかった。
Mさんは電話ボックスから逃げだそうとした。だが、なぜか出入り口部分の折れ戸が開かない。押しても引いてもびくともしなかったそうだ。
「だから、外にいるお前らに助けを求めた。ガラスの壁をどんどん叩いてな。けど、お前らは、子供にしがみつかれている俺を見て笑っとった」
「ちょっと待て」
ここまで黙って話を聞いていたEさんが、ハンドルを握ったまま口を開いた。
「俺らは子供なんか知らんぞ。それに、お前に助けを求められてもない」
Eさんの言うとおりだった。高山さんとEさんは男児など見ていないし、助けを求めてくるMさんも見ていない。高山さんたちが見たものといえば、電話ボックスの中で、飛んだり跳ねたりしているMさんだけだ。
Mさんにそれを伝えると、「そうやったんか……」と返ってきた。
お互いの見たものや体験したものが違う。にわかには信じられない話だが、それが真実だった。
Mさんはさらにこんな話もした。
「子供はひとりだけとちゃうかった……」
最初に現れた子供はひとりだった。ところが、しばらくすると複数の子供が、床からボコボコ出てきたそうだ。最終的には六人の子供が電話ボックスに現れて、Mさんの足や身体にしがみついていたという。
ここまで話をしたMさんは、なぜか急に顔をしかめた。どこかが痛そうな顔だ。後部座席に座ったまま膝を立てると、ズボンの裾を膝あたりまでめくりあげた。
高山さんは改めて助手席から後部座席を振り返った。すると、Mさんの脛やふくらはぎに、小さな赤い痣がいくつもできていた。「……なんや、それ? どうしてん?」
Mさんは短い間のあと、硬い声でこう言った。
「電話ボックスにいた子供な……俺の足に噛みついとったんや」
小さな赤い痣は子供の歯形ということだろうか。高山さんはそのように思ったものの、恐ろしくてMさんに訊けなかった。
そんなことがあってから以降、Mさんはオカルト雑誌を読むのをやめてしまった。
肝試しに誘ってくることもなくなった。