これは十代前半の女性、上野さんの話である。
中学三年生の上野さんは週三日で塾に通っている。一年生と二年生のときは週二日で通っていたのだが、三年生からは高校受験を意識して一日増やした。
その日の塾は午後八時五十分に授業が終わった。
上野さんはリュックを背負ってから、塾の講師に帰りの挨拶をして外に出た。住宅街はすっかり暗くなっており、街灯の青白い光が足もとに落ちている。
塾から家までは徒歩十五分ほどの距離だ。途中までは友達と一緒に三人で帰るのだが、家の近くになるとその友達とはわかれる。
古びた郵便ポストが設置してある十字路で、
「バイバイ」
友達と手を振り合ってわかれたあと、残り数分の帰路はひとりきりになる。
十字路を右手側に曲がった上野さんは、暗い住宅街に歩を進め、やがて古い民家の前に差しかかった。植木鉢がやたらとたくさん並んでいる民家で、道に面した窓から生活の明かりが漏れだしていた。
その民家を通り過ぎた直後、上野さんはある音を聞いた。
コツ……コツ……
それは背後から聞こえる足音だった。音の大きさからして、女性の足音だという印象を持った。
相手がなんとなく気になった上野さんは、歩を進めながら後ろを振り返ろうとした。
しかし、あ……と思って、咄嗟に前に向き直った。
この気配は、きっと――。
上野さんは幼い頃からときどき妙なものを見たり感じたりしてきた。それは他人には見えないもので、この世に存在するはずのないものだった。
おそらく、後ろをついてくるこの足音も、その類いのなにかだ。冷たいような重たいような、それ特有の気配が背後から伝わってくる。
こういうものには、なるべくかかわってはいけないし、見てもいけない。できるだけ気にしないように努めつつ、上野さんは前だけを見て歩き続けた。
しかし、足音は一定の距離を保ってついてきた。
コツ……コツ……
いや、少しずつ近づいてきているようで、足音はだんだん大きくなっていた。
足音に追いつかれそうな気がして、上野さんは自然と早足になった。すると、背後の足音も調子が早くなった。
コツ、コツ、コツ、コツ、
そのとき、スカートのポケットの中でスマホが震えた。
ブー、ブー、
誰かが電話をかけてきたらしい。塾があったために着信音は切っていたが、バイブレーション機能はオンにしていた。
上野さんは歩を進めながらスマホを取りだした。
画面で着信の相手を確認すると、Eさんの名前が表示されていた。Eさんはさっき十字路で、「バイバイ」と手を振り合った塾の友達だ。
コツ、コツ、コツ、コツ、
足音につけられているせいで、上野さんは不安になっていた。だから、誰かと話ができるのは嬉しかった。さすがに「背後になにかがいる」と正直には言えないものの、友達の声を聞けるだけでも不安がいくぶんかでもやわらぐ。
上野さんは早足で進みながら、通話ボタンをタップしてスマホを耳に当てた。
すると、消え入るような声がこう言った。
『わたし……うしろにいるの……』
一瞬の間のあと同じ言葉が繰り返された。
『わたし……うしろにいるの……』
上野さんは慌てて電話を切った。
スマホの画面にはEさんの名前が表示されていた。だが、実際に聞こえてきた声は、明らかにEさんのものではなかった。似ても似つかない別人、若い女とおぼしき声だった。
コツ、コツ、コツ、コツ、
そして、また手の中にあるスマホが震えだした。
ブー、ブー、
今度は画面に『お母さん』と表示されている。その表示を信じるのであれば、着信の相手は上野さんの母だ。しかし、今しがた後ろのなにかに騙されたばかりだった。電話に出るか出ないか迷ったものの、本当に母という可能性もある。母であれば声が聞きたい。
上野さんは母であること願いつつ電話に出た。
しかし、さっきと同じ若い女の声がボソボソと言った。
『ねえ……こっちを……向いて……うしろにいるの……』
同じ声が繰り返す。
『ねえ、こっち――』
全部聞く前に電話を切った。
コツ、コツ、コツ、コツ、
足音は少しずつ距離を詰めながら、なおも上野さんの後ろについていた。このままだと追いつかれてしまう。上野さんはどんどん足が早まり、ほとんど小走りになっていった。
小走りに家に向かっているあいだも、スマホが手の中で何度も何度も震えた。
ブー、ブー、
もう電話に出るつもりはなく、着信の相手も確認しなかった。スマホは十秒ほど震えたあとに一旦沈黙し、ややあってからまた震えだす。
ブー、ブー、
そうやってスマホは何度も何度も繰り返し震えた。
ブー、ブー、
そのうち上野さんは気がついた。
ずっと進み続けているというのに、いつまで経っても家に着かない。
郵便ポストのある十字路から家までは徒歩で数分の距離だ。数分はゆうに経っているし、しかも小走りで進んでもいる。本来であればとっくに家に着いているはずなのだが、どういうわけだかまだ家に着かない。ちゃんと進んでいる感覚はあるというのに、いくら足を進めても行く手に家が見えてこないのだ。
このまま家に帰れないかもしれない。
上野さんは強い不安に駆られたが、小走りの足だけはゆるめなかった。
コツ、コツ、コツ、コツ、
足音が執拗に上野さんにつきまとい、スマホも執拗に手の中で震えた。
ブー、ブー、
足を進め続けていた上野さんは、やがて行く手の白い影を認めた。人の形をなした虚ろな影で、炎のようにゆらゆらと蠢いている。
(なに、あれ……)
得体の知れないもので不気味だったが、足をゆるめるわけにはいかない。背後の足音に追いつかれてしまう。
上野さんは小走りのまま進み続け、その影にどんどん近づいていった。そして、間近まで迫ったとき、影がすうっと動きだし、滑るようにこちらに向かってきた。
次の瞬間、上野さんはドンという衝撃にみまわれた。
気づくと上野さんは尻餅をついており、目の前には上野さんの母がいた。母は胸のあたりを押さえて顔をしかめている。
「痛たた……どうしてぶつかってくるのよ……」
上野さんは母が突然目の前に現れたことに困惑していた。しかし、わけがわからない一方で安堵もしていた。
もう足音は聞こえないし、スマホも震えていない。後ろをついてきたなにかはどこかに去ったらしい。
母は胸から手を離すと、尻餅をついている上野さんを見おろし、厳しい顔と声で言った。
「なにしてたの? 帰りが遅すぎるじゃない」
母は帰りが遅い上野さんを心配して、ここまでさがしにやってきたらしかった。そして、ここで上野さんを見つけたまではよかったのだが、小走りの上野さんが真正面から突っこんできた。おかげで母は胸を強打したのだった。
しかし、上野さんには母に突っこんだという記憶はない。ただ、直前に得体の知れない白い影を見た。もしかしたら、あれが母だったかもしれないと上野さんは思った。
「とりあえず、立って」
上野さんは思考が追いつかずにぼんやりとしながらも、母が差しだしてきた手を握ってのそのそと立ちあがった。
「それで、どうしてこんなに帰りが遅いの? もうすぐ十一時になるじゃない」
「え……十一時?」
スマホで時刻を確認してみると、確かに午後十一時前だった。
塾を出たのは午後九時前だった。体感では十五分ほどしか経っていないというのに、いつのまにか二時間ほどが経っていたのだ。
ますますわけがわからなくなった上野さんは、母にさっきまでの体験をそのまま話してみた。母は上野さんと違って、妙なものを見たり感じたり、そういったことがない人だ。きっと信じてもらえないだろうと、話をする前から半分諦めていたが、案の定信じてもらえなかった。
「また変な話をして……」
いつものように怪訝な顔をされてしまった。
「とにかく話はあと。まずは家に帰りましょう」
母に促されるまま家に帰ると、わりとしっかりと説教された。上野さんの帰りが遅かったことを、母はかなり心配していたようだった。その心配が怒りに変わったらしい。
ようやく母の説教が終わったあと、上野さんは二階の自室に向かった。ベッドに座ってなにげにスマホを確認してみると、留守電のメッセージがいっぱいになっていた。
足音から逃げるように小走りで進んでいたとき、スマホが何度も何度も執拗に震えていた。無視して電話には出なかったが、そのときの留守電だろうか。
上野さんは恐る恐るスマホを耳に当てて、メッセージのひとつを聞いてみた。
すると、異様に間伸びした低い声が録音されていた。
『ううぅしいぃろおぉ……わあぁたあぁしいぃ……』
上野さんは急いで留守電を終了して、残りのメッセージは聞かずに消去した。