これは二十代半ばの女性、森口さんの談である。
小学生の頃の話だという。
当時の森口さんにはミキちゃんという名の友達がいた。一年生から三年生まで偶然同じクラスになり、家も比較的近いこともあって仲良くなった子だ。
四年生のときにミキちゃんは遠くに引っ越したが、それまでほとんど毎日のように遊んでいたという記憶がある。
遊ぶ場所は森口さんもミキちゃんも近所にある川を好んだ。ふたりともお転婆なほうで、河川敷でサッカーの真似事をしたり、草むらでバッタや蝶をとったりした。
ふたりして泥だらけになってしまい、家に向かって歩いていると、近所のおばさんに「あらら……」と呆れられたこともあった。おばさんは呆れながらも、森口さんたちをタオルで拭いてくれた。
お転婆がすぎてミキちゃんが怪我をしたこともあった。河川敷で鬼ごっこして走りまわっているときに、ミキちゃんがつまずいて思いきり転んだのだ。膝や手を擦りむいて、血がたくさん出た。
「だ、大丈夫、ミキちゃん?」
森口さんは怪我や血にとても驚いたが、ミキちゃんは平気そうな顔をしていた。
しかし、いくら本人が平気な顔をしていたとしても、傷を放置して鬼ごっこを続けるわけにはいかない。森口さんは自分の家にミキちゃんを連れていった。家にいた母がミキちゃんの傷口を洗い、褐色の消毒液を丁寧に塗ってくれた。
その消毒液はやけに沁みるのだが、ミキちゃんは転んだときと同様に、平気そうな顔をしていた。
「女の子なんだから、気をつけないと……」
母が心配げに言うと、ミキちゃんはにっこりした。それにつられるように母もにっこりとして、ミキちゃんの頭を撫でた。
「気をつけないといけないけど、ミキちゃんは強い子ねえ。こんな怪我をしたら、普通は男の子だって泣くよ。消毒液が沁みても平気な顔をしてるし。えらいえらい」
言われたミキちゃんが嬉しそうに笑ったので、森口さんもなんだか嬉しくなって笑った。
ところが――。
森口さんが大人になってから、母にミキちゃんのことを話すと、
「……ミキちゃんって誰?」
母は不思議そうな顔をして首を傾げるのだ。森口さんが怪我をした女の子を家に連れてきたことなんて、一度もなかったとまで言ったのである。
また、ミキちゃんのことを覚えていないのは母だけではなかった。ふたりして泥だらけになってしまったとき、タオルで拭いてくれた近所のおばさんに尋ねても、ミキちゃんなんて子はまったく知らないという。
森口さんが泥だらけになっていた覚えはあるものの、ミキちゃんという子をタオルで拭いた記憶はないそうだ。
かくいう森口さんもミキちゃんにかんする記憶が曖昧だった。ミキちゃんの顔はぼんやり思いだせるものの、声はまったく思いだせなかった。毎日のように遊んでいたのだから、会話をしていないなんてあり得ない。だが、ミキちゃんと会話をした覚えがなく、彼女の声をどうしても思いだせない。
さらに不可解なのが川だ。森口さんはミキちゃんと遊ぶさい、よく近所の川まで足を運んでいた。そこの河川敷でサッカーをしたり、虫とりをしていた。ところが、森口さんの実家の近くに川などないのだ。川だと勘違いしそうな池や海といった水辺もない。
ミキちゃんとの思い出は記憶違いなのだろうか。ミキちゃんという子は実在しないのだろうか。
森口さんはミキちゃんのことを考えはじめると、どうにも落ち着かない気分になるのだった。