これは二十代後半の女性、野々村さんの話である。
野々村さんは総合病院に勤める新人の看護師だ。その総合病院は界隈だと最大規模であり、入院病棟の病床数は六百を超えるという。
ある日の深夜のことだった。
夜勤のシフトに入っていた野々村さんは、入院病棟の巡回を終えると、二階のナースステーションに戻った。先輩看護師に巡回結果を報告するためだった。
その後、十五分の休憩に入る前に、総合受付のある一階におりた。
昼間の一階は外来患者でごった返しているが、照明が落とされている夜間は、真っ暗であるうえにしんと静まり返っていた。少し不気味に感じるほど静かだった。
一階には自動販売機がいくつか並んでおり、野々村さんはコーヒーを買いにおりてきた。
自動販売機に百円硬貨を投入しようとしたとき、野々村さんはそれに気がついて手を止めた。長椅子が何列も並んでいる待合の近く、背中の丸まった女性がフラフラと歩いている。
そのライトブルーのパジャマには見覚えがあった。
Nさんだ。
彼女は八十がらみの高齢の女性で、野々村さんが担当している患者のひとりだ。
肺がんの摘出手術を行なったNさんは、術後観察のために入院しているのだが、それに加えて認知症も患っていた。急に怒鳴ったり泣き喚いたりするのにも困ったが、Nさんには徘徊癖があり、とにかくそれには気を配らなければならなかった。
もし、病院の外に出てしまって、事故にでもあったら大変なことだ。
さっき入院病棟を巡回したとき、病室で眠っているNさんを確認した。にもかかわらず、彼女がそこにいる。
(いつの間に一階におりてきたんだろ……)
野々村さんはそう思う一方で、ここで見つけられたことに、ほっと胸を撫でおろしてもいた。病院の外に出る前でよかった。
病室に連れ戻そうと、Nさんに近づいていく。
そのとき、背後で声がした。
「野々村さん、ちょっと待って」
背後を振り返ると、看護師長の
「Nさんの邪魔をしてはダメ。もう遅いの。連れ戻そうとしても無駄よ」
曽賀さんは「ほら見て」とNさんを指差した。
「Nさんはもういったわ……」
曽賀さんが指し示す方向を見ると、さっきまでそこにいたNさんが見あたらない。
野々村さんはひやりとした。
(まさか病院の外に?)
焦ってあたりを見まわしたとき、曽賀さんの呟く声が背後に聞こえた。
「残念だけどNさんは亡くなったのよ……」
しかし、呟きにつられて曽賀さんを振り返ると、今度は彼女の姿まで消えてしまっていた。
野々村さんは曽賀さんをさがしてあたりを見まわした。
「師長……?」
真っ暗で静まり返った一階のフロアに、野々村さんはぽつんとひとりきりだった。
あとになってわかったことなのだが、ちょうどこのとき、病室にいるNさんの容態が急変していた。そして、彼女はそのまま帰らぬ人となった。当直の医師がすぐに緊急時対応を施したのだが、その甲斐も虚しく、彼女は病床の上で息を引き取ったのだった。
つまり、一階でNさんを見かけた同時刻に、彼女は病室で緊急時対応を受けていた。
そんなことはあり得ない。あれはNさんに似た誰かだったのだろうか。野々村さんは見間違いの可能性も考えてみたが、どうしても見間違いだとは思えなかった。
そして、その夜の不思議はそれだけではなかった。
実はその日、看護師長の曽賀さんは夜勤に就いていなかった。タイムカードにも、曽賀さんが出勤したという形跡は残っていなかった。
つまり、野々村さんは病院にいないはずの曽賀さんを見かけて、そのうえ言葉まで交わしたということになる。
そして、曽賀さんのほうはといえば、その夜にこんな夢を見たのだという。
病院内を夜間巡回していると、徘徊しているNさんを見かけた。だが、なぜか彼女を病室に連れ戻す必要はないと感じた。
(ああ、もういくのね……)
そういう思いだけが頭に浮かび、病院の外まで見送ろうと考えた。
Nさんのあとをそっとついていくと、一階にある自動販売機前に野々村さんがいた。曽賀さんは野々村さんに声をかけて、こんな話をした。
「Nさんの邪魔をしてはダメ。もう遅いの。連れ戻そうとしても無駄よ」
「ほら見て、Nさんはもういったわ……」
「残念だけどNさんは亡くなったのよ……」
まもなくして曽賀さんは目を覚ました。いつもは起きるとすぐに夢の内容を忘れてしまうというのに、その夢だけは実体験かのようにはっきりと覚えていた。
野々村さんはいないはずのNさんと曽賀さんを深夜の病院で目撃した。そして、野々村さんがその夜に病院で体験したことと、曽賀さんが夢で見たことは奇妙にリンクしている。
いったいどういうことなのか。その夜に起きた出来事を、野々村さんは未だに理解できていない。