これは三十代前半の女性、吉川さんの話である。
ファミリー向けアパートに住んでいる吉川さんには五歳になる娘さんがいる。
その娘さんはやけに勘のいい子だという。
たとえば娘さんを自転車で幼稚園まで送っていったさいに、ふと娘さんがこんなふうに呟いたことがあった。
「今日はSちゃんお休みだって……」
Sちゃんは娘さんと同じ幼稚園に通っているお友達だ。その日は本当にSちゃんは風邪を引いて幼稚園を休んだ。
ほかにもこんなことがあった。
「時計、鳴らないよ……」
娘さんがそう言った翌朝に、目覚まし時計が鳴らなかった。結果的にはぎりぎり間に合ったものの、寝坊して幼稚園に遅れるところだった。時計が鳴らなかった理由は電池切れだった。
動物園に出かけたさいに電車の遅延を言い当てたこともあり、終日晴れの天気予報の日に午後からの雨を予想したこともあった。
とにかく、娘さんは勘がよかった。
そして、二月にしては暖かい日のことだったという。
幼稚園から帰ってきた娘さんが、リビングでおやつを食べながら、急にテレビに向かって声をあげた。
「キリンさん、逃げて!」
テレビの電源は入っていなかった。
娘さんは真っ暗な画面に向かって声をあげたのだ。
「早く逃げて!」
続けてそんなことも言った。
そばにいた吉川さんは、なんとなくテレビをつけてみた。リモコンを使ってテレビの電源をオンにすると、ちょうどライオンがキリンに飛びかかっていた。サバンナの野生動物を特集している番組らしかった。
吉川さんは娘さんに尋ねた。
「キリンさんが食べられちゃうの、どうしてわかったの?」
「ママが教えてくれた」
「ママ?」
吉川さんは自分を指差して続けた。
「ママはなにも言ってないよ」
「白いママじゃなくて、黒いママのほう」
白いママというのは吉川さんのことらしい。だとしたら、
「黒いママって?」
吉川さんが尋ねると、娘さんはお絵かき帳を広げて、クレヨンを持った。黒いママを描こうとしているようだ。
その手もとを覗きこむと、
「見ちゃダメ」
娘さんはお絵かき帳に覆い被さるようにして、描いているものを隠した。
「目をとじて」
「描き終わったら見せてくれる?」
「うん」
吉川さんは目をつむって、両の手の平で顔を覆った。
すると、クレヨンを走らせる音が聞こえはじめ、同時に娘さんがなにか囁きはじめた。
「足は……もっと……」
「こうかな……?」
「そう……手も変えて……」
「これでいい……?」
奇妙な囁き方だった。
ひとりのはずの娘さんが、まるでふたりいるような、そんな囁き方だった。
「違う……そう……」
「こっちは……」
「ふふふ……そうよ……」
「じゃあ………」
ときどき大人びた笑い声なんかも混じるため、だんだん本当にふたりいそうな気がしてきた。思わず薄目を開けてこっそり見ようとすると、「見ちゃダメ!」と叱られてしまった。
「あ、ごめん」
吉川さんは慌てて目をぎゅっとつむって、顔を覆っている手にも力を入れた。娘さんは勘がいい。盗み見ようとしても、すぐに悟られてしまう。
娘さんが絵を再開した気配があり、囁き合うような声がまた聞こえてきた。
「そう………」
「小さい………」
「うん……うん……」
「ふふふ………」
その後も娘さんは囁き続けていたが、五分ほどが経った頃、いきなり声を弾ませて言った。
「できた!」
「見ていい?」
「いいよ」
吉川さんが顔を覆っている手をおろして目を開くと、娘さんはすぐにお絵かき帳を差しだしてきた。
絵は黒いクレヨンだけで描かれていた。
「これが黒いママ?」
「うん、そう」
黒い丸がページの上のほうに描いてある。頭のようだ。その下に楕円形の黒い身体らしきものがあり、そこから細くて黒い線が四つ伸びている。これは手と足に違いない。
「この黒いママがキリンさんのことを教えてくれたの?」
娘さんは頷きながらリビングの天井を見ると、そこに向かってにっこりと笑いかけた。
「もしかして、黒いママは天井にいるの?」
「うん」
「へえ……」
「でも、逆さま」
「逆さま?」
吉川さんは首を傾げて続けた。
「なにが逆さまなの?」
「絵が逆さま」
娘さんはお絵かき帳を吉川さんの手から奪い取ると、上下をひっくり返してまた吉川さんに渡した。
吉川さんはひっくり返されたお絵かき帳を見た。黒いママの頭は下にあり、足は上に伸びていた。
娘さんがいうところの黒いママは、逆さまになって、天井からぶらさがっているらしい。
*
それからしばらくして吉川さんは引っ越しをした。
吉川さん家族が住んでいたアパートの隣には、単身者向けのワンルームマンションが建っていた。そのマンションでは過去に女性が焼身自殺したらしく、女性の遺体は真っ黒に焦げてしまっていたという。
吉川さんはそれを前々から知っていたが、隣のマンションの出来事だと、別段気にはしていなかった。しかし、娘さんに黒いママのことを聞いてから、なんだか引っかかるようになった。そこで吉川さんは旦那さんと相談して、アパートからの引っ越しを決意したのだった。
娘さんの勘の良さは、引っ越しをしてから、発揮されなくなったそうだ。